名前 | 狗邪韓国 |
読み方 | くやかんこく |
別名 | 狗邪国 |
場所 | 弁韓 |
コメント | 金官国の前身で港町として栄える |
狗邪韓国は魏志倭人伝にも名前が登場し、朝鮮半島の南東に位置する国です。
当時は倭人が朝鮮半島の南部にも住んでおり、狗邪韓国は倭人の国だったのではないかとも考えられています。
ただし、弁辰の中に狗邪国の名前があり、狗邪韓国は弁韓の国の一つだったのではないかともされています。
狗邪韓国は邪馬台国の位置を知る上で必ず名前が登場する国であり、交易により繁栄したとされています。
狗邪韓国の位置は現在の韓国の金海市にあり、金海市を見ると内陸にある様に思うかも知れません。
(画像:ウィキペディア金海市)
しかし、弥生時代と現在では海岸線の位置が違っており、金海市の辺りに狗邪韓国があり港町だったと考えられているわけです。
狗邪韓国が後に伽耶や金官国などに発展していく事になります。
尚、狗邪韓国のゆっくり解説動画も作成してあり、記事の最下部から見る事が出来ます。
文献上の狗邪韓国の位置
狗邪韓国と魏志倭人伝
魏志倭人伝における狗邪韓国の記述で有名なのは、邪馬台国の位置に関する部分です。
魏志倭人伝には魏の帯方郡から邪馬台国までの距離が1万2千里だとあります。
帯方郡から狗邪韓国までの道のりに関しては、次の様な記述となっています。
※魏志倭人伝より
帯方郡より倭に至るには、海岸に従い水行し諸韓国を経て南や東に向かい
その北岸狗邪韓国に至る。
群より七千余里にして、始めて一つの海を渡り、千余里にして対馬国に至る。
上記の記述から帯方郡から海岸線に沿って移動し、七千里で狗邪韓国に到着する事が分かるはずです。
「その北岸とする記述は」「倭の北岸」と考える事もでき、狗邪韓国が倭人の国だとする理由にもなっています。
魏志倭人伝には「弁辰の瀆盧国が倭と境界を接す」とも記述されており、朝鮮半島に倭人が住んでいた事が分かるはずです。
後漢書倭伝にも魏志倭人伝と似た様な記述があり、後漢書倭伝では「その西北界の狗邪韓国」とする記述があり、後漢書でも狗邪韓国は倭人の国だと認識していた事になります。
魏志倭人伝の記述を見ると、狗邪韓国から一つの海を渡ると対馬国に到着するとあり、場所的に考えて狗邪韓国の位置は韓国の南東にあった事は確実でしょう。
多くの研究者が狗邪韓国の場所が現在の金海市の付近だと考えていますが、間違いではないはずです。
当時は海岸線が金海市の付近まであり、狗邪韓国は港町として発展していく事になります。
魏志韓伝と狗邪国
魏志倭人伝は正史三国志の東夷伝に収録されていますが、東夷伝には魏志韓伝も収録されているわけです。
魏志韓伝は馬韓、弁韓、辰韓の事が書かれていますが、弁辰(弁韓)十二ヵ国の中に「狗邪国」なる名前が見えます。
弁辰の中に狗邪国がある事から、狗邪韓国は倭人の国ではなく韓人の国だとする説もあります。
ただし、当時の倭国や朝鮮半島では中国の様な統一政権はなく小国家郡の集まりだったとも考えられており、弁韓は鉄の産地であり韓、濊、倭が鉄を取りに来ていた話しがあり、当時の朝鮮半島南部には様々な人種の人々が住んでいたとも考えられるわけです。
魏志韓伝にも「弁辰(弁韓)は辰韓の者と住んでいる場所が入り組んでおり~」とする記述があり、弁韓と辰韓を明確に区別するのは難しかったのでしょう。
尚、弁韓や辰韓の大きな国は4,5千家であり、小さな国は6,7百家とあり、弁韓の中でも規模が大きい狗邪韓国には5千家ほどの民家があったのではないかと考えられています。
邪馬台国阿波説と狗邪韓国
邪馬台国阿波説では狗邪韓国と阿波の距離に着目しました。
狗邪韓国の正確な場所は分からなくても、大体の場所は分かり、対馬と壱岐の千里を計算し1里を76.5メートルで換算します。
帯方郡から直線で狗邪韓国まで7千里であり、阿波まで1万2千里となります。
邪馬台国阿波説では海島算経や渾天儀などの技術により、古代中国では正確な距離が分かったのではないかとする考えもあります。
狗邪韓国と邪馬台国の位置
魏志倭人伝によれば帯方郡から邪馬台国までの距離が1万2千里という事になっています。
帯方郡から狗邪韓国までの距離が7千里であり、既に全体の12分の7の距離をこなした事になるはずです。
さらに、狗邪韓国から対馬国まで千里、対馬国から一大国まで千里、一大国から末盧国までが千里となっており、九州に上陸するまでに1万里を費やした事になります。
帯方郡から狗邪韓国までで既に7千里も道程を消費しており、邪馬台国畿内説や大和説は無理があるとする見解があります。
狗邪韓国は交易
港町として発展
狗邪韓国の中心地は現在の鳳凰台遺跡や良洞里墓群の近辺だと考えられています。
この辺りからは漢鏡、貨泉、青銅容器や文物、鉄素材などが出土し交易が盛んだった事が分かっています。
朝鮮半島と倭国が交易をおこなう場合に、必ず通るのが狗邪韓国であり、帯方郡との中継地点ともなっていました。
朝鮮半島の遺物は九州では古くから見られ、紀元前108年に前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、漢四郡を設置すると、北部九州では中国の遺物も発見される様になります。
中国と倭国の繋がりを考える上で、非常に重要な拠点が狗邪韓国だったのでしょう。
尚、朝鮮側の港町は狗邪韓国でしたが、日本側の九州の港町は伊都国や奴国だった事が分かっています。
伊都国や奴国も交易都市として発展しました。
鉄の交易
狗邪韓国は鉄の交易でも栄えたと考えられています。
先にも述べた様に魏志倭人伝に倭人が鉄を取りに弁韓にやってきた記述があります。
狗邪韓国には多くの倭人が居住し経済活動を行っていたのでしょう。
朝鮮半島南部の遺跡からは弥生土器や鉄片、石器などが出土しています。
魏志倭人伝には朝鮮半島南部では鉄が銭の様な役割を果たしたともされており、鉄は金や銀の様な物質的な価値が高かったのでしょう。
倭国では弁韓から輸入していましたが、代わりに米や織物を輸出していたと考えられています。
倭国の米が狗邪韓国の食料を支えていた部分もあるのでしょう。
狗邪韓国と遺跡
金海には1世紀から3世紀頃を最盛期とする良洞里古墳群があります。
良洞里古墳群には王墓だと考えられるものがあり、後漢鏡などの中国製品が発見されました。
さらに、金海の東南東に勒島遺跡があり、楽浪系の土器や弥生土器が発見されており、漢人と倭人も朝鮮南部まで訪れていたと考えられています。
狗邪韓国と呼ばれる地域に長期滞在する事もあったのでしょう。
狗邪韓国があったとされる場所は遺跡から見ても、朝鮮半島南部の最大の交易拠点だと考えられています。
弁韓の鉄は楽浪郡にも輸出されていた話しがあり、中国にとっても重要な地域だったはずです。
狗邪韓国の動画
狗邪韓国のゆっくり解説動画となっております。