
| 名前 | ナボポラッサル |
| 生没年 | 前658年ー前605年 |
| 在位 | 625年ー605年 |
| 国 | 新バビロニア |
| 一族 | 弟:ナブー・シュマ・ウキン 子:ネブカドネザル2世 |
| コメント | 出自不明の新バビロニアの建国者 |
ナボポラッサルは新バビロニアの建国者であり、名前の意味は「ナブー神よ。息子を守ってください」です。
アッシリア滅亡に重要な役割を果たした人物です。
一般的にはカルデア人だとされていますが、実際の出自はよく分からない人物でもあります。
ナボポラッサルはウルクの高官だった話などもありますが、最終的にアッシリアに対し反旗を翻しました。
メディア王国のキュアクサレス2世と共にアッシリアを滅ぼしています。
バビロンを本拠地とし国を上手くまとめたのか、死後も混乱が起きずネブカドネザル2世がすんなりと即位しています。
ナボポラッサルの名前の通りに、息子のネブカドネザル2世を大事にし、両者の関係は良好だったのでしょう。
軍事・内政と手腕を見せたナボポラッサルですが、実際のところは出自なども正確な部分は分かっておらず、謎多き人物とも言えます。
ナボポラッサルの出自
ナボポラッサルとカルデア人
ナボポラッサルの出自ですが、カルデア人だったとする説が根強くあります。
自身が建国した新バビロニアは別名として、カルデア王国とも呼ばれており、カルデア人が建てた国というのが強くあったのでしょう。
ナボポラッサルの時代から300年ほど経過した時代であるセレウコス朝シリアの時代に、ウルクの呪術師の儀礼文書の奥付には「海の国の王ナボポラッサルがウルクから略奪した粘土板に基づいて」作成された写本と書かれています。
こうした事情から、ナボポラッサルは海の国の出身であり、海の国はカルデア人の部族であるビート・ヤキンの勢力が強い地域でもあり、両者を結びつけたのでしょう。
実際に、アッシリアと戦い続けたメロダク・バルアダン2世もビート・ヤキンの出身だと考えられています。
ただし、メロダク・バルアダン2世の血統とナボポラッサルの関係は不明です。
しかし、ナボポラッサルがカルデア人だったとする明確は同時代資料は存在せず謎が多いと言えるでしょう。
誰でもない者の子
ナボポラッサルは自身の出自について「幼少時に誰でもない者の子だったにも関わらず、バビロンの主神であるマルドゥク神が王となる運命を授けてくれた」とあります。
「誰でもない者の子」というのは、ナボポラッサルが直近のバビロン王の一族の者では無かったのではないかと考えられています。
バビロン王家の血筋が入っていない、もしくは薄いナボポラッサルはマルドゥク神と自身を結び付けて権威としたのかも知れません。
ナボポラッサルは元は将軍だった!?
ナボポラッサルの出自を考える上で、西暦2世紀の歴史家アビデスが引用するベロススも違った内容を見せてくれます。
ベロススによれば、アッシリア末期の王であるシン・シャル・イシュクン(サラコス)は、反乱軍が海の方から攻めて来ると知り、ナボポラッサル(ブボラサロス)を将軍としてバビロンに派遣したとあります。
ナボポラッサルはバビロンで反乱を決意し、メディア王国のアスティアゲスの娘のアムヒディンと自らの子であるネブカドネザルの妻とした話があります。
ナボポラッサルはアッシリアに対抗する為に、メディア王国と政略結婚を行った事になるのでしょう。
エウセビオスが引用するベロススの話にも、ナボポラッサルがアスティアゲスの娘(アミティス)を得る為に、メディア王国に援軍を送ったとあります。
こうした事情から、ナボポラッサルは最初はアッシリア配下の将軍であり、途中で反旗を翻しバビロンを制圧してしまった事になるのでしょう。
ナボポラッサルは知事だったのか
近年の書簡を分析した結果として出された説が、ナボポラッサルの父親はクドゥルという人物の子であり、クドゥルはウルクの知事であったとも考えられる様になってきました。
クドゥルが没するとナボポラッサルが後継者となり、ウルクの行政を担当する重要な地位にいたとされています。
ナボポラッサルの弟にはナブー・シュマ・ウキンなる人物がおり、二人してアッシリアに反旗を翻しました。
しかし、この反乱は失敗した様であり、親アッシリア勢力により追放される事になります。
後にナボポラッサルがバビロンで新バビロニアを建国すると、ウルクは直ぐにナボポラッサルを支持した事が分かっています。
一度はウルクを追われたと言え、ナボポラッサルを支持する者がウルクには大勢いた事になるのでしょう。
ナボポラッサルの子のネブカドネザル2世もウルクのエアンナ神殿の要職に就いていた事が明らかになっており、ナボポラッサルの一族とウルクは結びつきが強かったとみる事が出来ます。
ウルクに歴史に予言文書が見つかっており「ウルクの中に王があらわれた」とするものがあります。
さらには「彼ののちに彼の子である王がウルクの中に現れ、四方世界を支配する」と書かれたものも存在しています。
この予言書は普通に考えれば、結果を知っている後世の人間が書いたものであり、ナボポラッサルとネブカドネザル2世を指すと考えられています。
しかし、ここで注目したいのは、ナボポラッサルとネブカドネザル2世をウルクと結びつきが強い人物だとしている事です。
ナボポラッサルの出自は、ウルクの有力者であった可能性が高くなっていると言えるでしょう。
ナボポラッサルと新バビロニアの建国
アッシリアはアッシュル・バニパルの治世の後半には、国が乱れ反乱が相次いでいました。
紀元前627年はバビロニア王のカンダラヌが亡くなった年でもあり、バビロニアで親アッシリアと反アッシリアが各地で戦っている状況でした。
この頃に、アッシュル・バニパルも亡くなったと考えられています。
先述した様にアッシリアが混乱する中で、反アッシリアの指導者の一人がナボポラッサルだったのでしょう。
バビロニア歴代記によると、紀元前627年にアッシリアとニップルで戦闘を行った記録があります。
ここでは形成不利だったのか、ウルクまで兵を後退させまました。
ウルクにアッシリアとニップルの軍は攻撃を仕掛けてきますが、ここではナボポラッサルが勝利しています。
こうした中で紀元前626年に、バビロニアの軍勢がバビロンの近郊でアッシリア軍を破りました。
この後に、ナボポラッサルがバビロニアの王に即位しますが、紀元前626年の事とも、紀元前625年の事とも言われています。
それでも、一般的には紀元前625年に、ナボポラッサルがバビロンを手中に収め、新バビロニアを建国したと考えられています。
アッシリアの滅亡
ナボポラッサルは歴史ある都市バビロンは支配すると、紀元前615年にアッシリアの伝統ある都市・アッシュルを攻撃しました。
しかし、新バビロニアの軍はアッシュルを陥落させる事が出来なかったわけです。
それでも、新バビロニアの軍はアッシリアの中心に近い、チグリス川のタクリタインに拠点を得ており、戦果を挙げたといえるでしょう。
アッシリア打倒に動いているのはメディア王国も同じであり、紀元前614年にアッシリアの首都のニネヴェに近いタルビツを占拠し、さらにはアッシュルを陥落させました。
ナボポラッサルはメディア王のキュアクサレス2世に合流し、同盟を確認しています。
新バビロニア王国とメディア王国の連合軍は、紀元前612年にアッシリアの首都のニネヴェを陥落させました。
アッシリアはエジプト第26王朝の援助を受けて、ハランで最後の抵抗を試みるも、結局は滅亡しました。
ナボポラッサルはアッシリアの滅亡に大きく貢献したわけですが、イムグル・エンリル建設を記念する円筒碑文には、神の怒りによりアッシリアが滅んだとしました。
ナボポラッサルの最後
アッシリアが滅亡した頃より、ナボポラッサルは戦場に出なくなったと考えられています。
ナボポラッサルの代わりに新バビロニアの軍は、皇太子のネブカドネザル2世が指揮しました。
ナボポラッサルが元気な頃は、戦場にナボポラッサルが行けば、本拠地はネブカドネザルが守っていたと考えられており、両者の関係は良好だったのではないでしょうか。
紀元前605年にネブカドネザル2世は、ナボポラッサルに代わり新バビロニア軍を率いて、カルケミシュにいたエジプト第26王朝のネコ2世の軍を破りました。
この年にナボポラッサルは亡くなっています。
ナボポラッサルの死を聞いたネブカドネザル2世は、直ぐにバビロンに戻り即位しました。
ネブカドネザル2世への代替わりはスムーズに行ったようであり、新バビロニアの人々はナボポラッサルの後継者はネブカドネザル2世しかいないと思っていたのでしょう。
ナボポラッサルにしてみても、自分が亡くなった後も国が乱れず、ネブカドネザルが即位できた手腕は見事だとみるべきです。
新バビロニアはネブカドネザルの時代に大発展する事になります。
| ナボポラッサル | 次代:ネブカドネザル2世 |