李豊は袁術配下の武将であり、一部では袁術四天王の一人にも選ばれています。
李豊は橋蕤、梁綱、楽就らと共に、苦の戦いで曹操と戦った記録が正史三国志にあります。
苦の戦いでは于禁、楽進の奮戦もあり、李豊は曹操に敗れ命を落としました。
今回は袁術配下で実在したであろう人物である李豊を解説します。
尚、蜀の李厳の子である李豊や、司馬懿の後継者で司馬師に信任された李豊とは、別なので注意が必要です。
中国史を見ると「李豊」なる人物は何人か確認出来ており、中国では比較的ポピュラーな名前だとも感じました。
因みに、橋蕤や張勲などは袁術が皇帝になった時に、大将軍に任ぜられた話がありますが、李豊がどの様な役職を授かったのかは、はっきりとしません。
袁術の尻拭い
袁術は皇帝となり仲王朝を開きますが、呂布に敗れ陳に侵攻すると、曹操が出陣してきたわけです。
曹操が出陣して来た時の、記述として次の表記が正史三国志にあります。
「袁術は公(曹操)が自ら兵を率いてやってきた事を知ると、軍を棄てて逃走した。
袁術は橋蕤、李豊、梁綱、楽就を残留させた」
袁術は曹操に恐れをなし李豊らに任せて、自らは戦場を後にしたと言う事なのでしょう。
過去に董卓が長安に遷都した時に、関東の地では汝南袁氏の袁紹派と袁術派に分かれて戦った事がありました。
この時に、袁術は陶謙や公孫瓚、孫堅を使い戦略的に優位に進めていたにも関わらず、曹操の用兵術の前に大敗した事があったわけです。
そうした事もあり、袁術は曹操の用兵には勝てないと判断し、橋蕤や李豊らに任せて、自らは安全地帯に逃げてしまったのでしょう。
李豊らは、ある意味、袁術の尻拭いをさせられてしまったとも言えます。
尚、三国志演義では楊大将の進言により袁術は逃げ、寿春で曹操と戦ったのが李豊、楽就、梁剛、陳紀となっており、正史三国志と差異が出ている状態です。
李豊の最後
曹操と李豊、橋蕤、梁綱、楽就らが対峙し、苦の戦いとなりますが、次の記述が正史三国志にあります。
「公(曹操)が到来すると橋蕤らを破り、全員を斬り殺した。
袁術は逃げて淮水を渡り、曹操は許に帰還した」
上記の記述を見ると「全員を斬り殺した」とある様に、ここで李豊も命を落としてしまったのでしょう。
この戦いが起きたのが西暦197年の事であり、李豊はこの年に亡くなった事になります。
于禁伝、楽進伝を見ると、苦の戦いでは楽進が一番乗りをし、于禁が袁術軍の四将を斬った事になっていました。
于禁伝や楽進伝にも簡略な記述しかなく、李豊がどの様に最後を迎えたのかは分かっていません。
ただし、曹操が李豊らを撃破した後に袁術を追撃しなかった事を考えると、李豊らは敗れはしましたが奮戦し、曹操軍の損害も大きかった可能性もあるでしょう。
李豊は最後まで勇敢に戦い、降伏もせず戦い抜き、討死した可能性もあります。
袁術は199年に皇帝の称号を袁紹に贈り、青州の袁譚に身を寄せようとしますが、はちみつが欲しいと述べ亡くなっています。
それを考えると李豊らの奮戦により、袁術の寿命が2年延びたと言えるのかも知れません。
李豊の能力値
三国志14 | 統率69 | 武力74 | 知力50 | 政治22 | 魅力53 |