名前 | 梁衍(りょうえん) |
生没年 | 不明 |
時代 | 三国志、後漢末期 |
梁衍は資治通鑑などに名前が登場し、三国志や後漢王朝末期の人です。
何進の死後に董卓が権力を握り、董卓は皇甫嵩を亡き者にしようと考え、呼び寄せました。
董卓の動きに対し、梁衍は皇甫嵩に献策を行い、関東にいる袁紹と連合し董卓を討つ様に勧めています。
しかし、皇甫嵩は少帝や献帝などの権威を擁する董卓に逆らうつもりもなく、梁衍の進言を却下しました。
今回は皇甫嵩に策を述べ、董卓を挟み撃ちにしようと画策した梁衍を解説します。
皇甫嵩を招く
霊帝の時代に起きた黄巾の乱で最大の功績を誇った皇甫嵩は、扶風に3万の兵と共に駐屯していました。
この時に皇甫嵩は蓋勳と、董卓を討伐する為の話をしていたともされています。
皇甫嵩と蓋勳が謀議を行っている時に、長史の梁衍も同席していたのでしょう。
ただし、皇甫嵩は少帝や献帝に対し刃を向けるような事はしたくはなかったのか、蓋勳の意見を聞きはしましたが、乗り気ではなかった様に感じます。
逆に梁衍の方が蓋勳の言葉に興味を持った様に感じています。
このタイミングで董卓は皇甫嵩を城門校尉に任命し、朝廷に招いたわけです。
しかし、皇甫嵩と董卓は王国討伐の時に仲違いしており、この事は梁衍も知っていた事でしょう。
董卓を討つ様に進言
皇甫嵩は城門校尉となりますが、この時に梁衍は次の様に進言しています。
梁衍「董卓は都を荒し、皇帝を廃位としました。
董卓は将軍(皇甫嵩)を召しましたが、大きければ危禍があり、小さければ困辱があるはずです。
現在の董卓は洛陽にいますが、天子が西に来た時に乗じて、皇帝を迎え入れ令により逆賊を討ち、将を集めるべきです。
袁氏(袁紹)が東から董卓に圧力を掛け、将軍が西から圧力を掛ければ董卓を捕える事が出来ます」
梁衍は皇甫嵩が3万の兵を率いており、将軍としての有能さから挟み撃ちの戦略を立てたわけです。
後漢王朝にとって害になってい董卓を袁紹と東西から、挟み撃ちにすればよいと考えたのでしょう。
梁衍は皇甫嵩が董卓の元に行けば、処刑される可能性もある事は十分に分かっていたはずです。
しかし、皇甫嵩は梁衍の意見を退け、董卓の元に赴きました。
董卓は過去の恨みから皇甫嵩を処刑しようとしますが、皇甫嵩の子である皇甫堅寿が涙を流し董卓を説得しています。
皇甫堅寿の説得により皇甫嵩は許されました。
ここで皇甫嵩が殺害されていれば、死ぬ間際に「梁衍の言う事を聞いておくべきだった」と考えた可能性はあるでしょう。
梁衍が皇甫嵩を説得出来なかった理由ですが、梁衍の説得力以前に皇甫嵩の性格による所が大きいと言えます。
皇甫嵩は過去に閻忠に大事を起こす様に言われた時も却下していますし、皇甫酈に董卓を処刑する様に進言された時も退けています。
皇甫嵩が理想とするのは後漢王朝の忠臣であり、帝を擁立する董卓に刃を向けるような事はしたくは無かったのでしょう。
梁衍の名前が確認出来るのは、皇甫嵩に策を述べた時だけであり、この後にどうなったのかは不明です。