その他 三国志 後漢

劉氏(劉夫人)は狂気に満ちた女性

2023年3月5日

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宮下悠史

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名前劉氏、劉夫人(りゅうし、りゅうふじん)
生没年不明
時代後漢末期、三国志
一族夫:袁紹 子:袁譚、袁煕、袁尚
画像©コーエーテクモゲームス

劉氏(劉夫人)は袁紹の後妻になった人物であり、袁譚、袁尚の母親だとも言われています。

袁紹の次男である袁煕だけは、劉氏の子ではないとする説もありますが、この点は不明な部分が多いです。

劉氏に関しては、正史三国志袁紹伝の注釈・典論にも記載があります。

袁紹は後継者を決めずに亡くなってしまい死後に、袁譚と袁尚の後継者争いが起きました。

袁紹が後継者を長子の袁譚にすると決められなかったのは、劉氏が三男の袁尚を推していたのも大きな要因の様です。

袁紹の死後に劉氏は、袁紹の側室だった5人の女性の命を奪い、死者の頭に入れ墨までした話があり、狂気に満ちた部分も存在します。

ただし、女性として男性に好かれる眼力は持っていたのか、劉氏が甄姫と共に捕らえられた時は、甄姫が曹丕に気に入られる為の演出をしたのではないか?とも考えられています。

劉氏は狂気に満ちた女性ではありますが、女性としての武器で乱世を生き抜いたとも言えそうです。

袁尚を太子に推す

劉氏には先にも述べた様に、袁譚、袁尚の二人の子がいました。

典論によれば、袁譚は年長で恵み深い性格であり、袁尚は年少で容姿が優れていたとあります。

性格なら袁譚、容姿なら袁尚といった感じだったのでしょう。

兄弟の中で劉氏は袁尚を愛し、何度も袁紹に袁尚の才能を褒め称えたとあります。

劉氏の話を聞いているうちに、袁紹も袁尚の容貌が優れていた事もあり、後継者にしたいと考える様になりました。

親というのは、一番下の子を可愛がる傾向にあると言いますが、袁紹夫妻にも当てはまったのでしょう。

尚、官渡の戦いの前に徐州で劉備が反旗を翻すと、田豊が直ぐに曹操を攻撃する様に進言しましたが、袁尚の病気を理由に出陣を渋った話があります。

この後に田豊は激怒し、持っていた杖を地面に叩きつけるなどがあったわけですが、袁紹が出陣を拒んだのは劉氏の意向もあるのかも知れません。

因みに、袁紹の後継者候補は袁譚と袁尚だったのですが、実は真ん中の子である袁煕が一番まともだったのではないか?とする説もあります。

狂気に満ちた性格

西暦200年に官渡の戦いで袁紹は破れ、反乱討伐に忙殺される中で、202年に死去しました。

袁紹は突然死だったせいか、後継者を指名せず亡くなったと伝わっています。

袁紹が亡くなると袁譚と袁尚の後継者争いとなりますが、袁譚も袁尚も劉氏の子であり、劉氏の地位は安泰でもあったはずです。

しかし、劉氏は袁紹の側室たちに対して、恨みを抱いていました。

典論によれば「劉氏はひどいやきもち焼きだった」とあります。

袁紹が亡くなると、劉氏は直ぐに行動を起こし、袁紹が寵愛していた5人の側室を皆殺しにしました。

劉氏は袁紹の遺体を棺に入れ安置する前に、行動に移しており、それを考えると、劉氏は袁紹が亡くなると同時に、側室たちを処刑してやろうと考えていたのでしょう。

しかし、劉氏の側室たちに向けられた怒りは、命を奪うだけでは収まらなかったわけです。

劉氏は「死者に知覚があれば、地下で袁紹に再開するはずだ」と考えました。

そこで、側室5人の遺体の髪の毛を剃り坊主とし、頭に入れ墨をするなど滅茶苦茶な事をしてしまいます。

この辺りは、劉氏の狂気に満ちた部分だとも言えるでしょう。

尚、劉氏は側室5人を殺害しましたが、袁尚は死者の家族も皆殺しにしたとあります。

袁尚としてみれば、母親の劉氏が勝手にやってしまったのかも知れませんが、側室5人の一族に恨まれる事を恐れ、先手必勝で殺害してしまったとも考えられるはずです。

歴史を見ると劉氏だけではなく、前漢の劉邦の皇后となった呂后は戚夫人との間にメス豚事件があり、春秋時代末期の伍子胥も楚の平王との間に「死者に鞭打つ」などの話があります。

これらの人物は過激な人として見られがちですが、劉氏もまた似たような狂気を持っていたのでしょう。

劉氏の演出

劉氏は袁煕の妻である甄姫と共に、鄴に留まっていた話があります。

この間に、劉氏の子である袁譚と袁尚は後継者争いを繰り広げました。

袁氏の下にいた郭図逢紀らも派閥を形成し争う事となります。

西暦204年に曹操が鄴を攻撃すると、審配の甥にあたる審栄蘇由馮礼らの裏切りもあり、結局は鄴は陥落し審配は捕虜となります。

鄴が陥落した時に、曹丕は急いで袁紹の家に入りました。

魏略によれば、この時に甄姫は劉氏の膝の上に顔を伏せていたとあります。

さらに、劉氏は自分の手を両手で縛っていました。

ここで曹丕は次の様に述べています。

※正史三国志皇妃伝・注釈魏略より

曹丕「劉夫人、なぜそんな風にしているのですか。

嫁ごの顔を上げさせてください」

曹丕の言葉を聞き終わると、劉氏は甄姫を抱えて上を向かせました。

曹丕は甄姫の美貌に驚き、称賛し溜息をついた話があります。

曹丕は甄姫を望み曹操は許しました。

甄姫が生んだ子が曹叡と東郷公主です。

同じく正史三国志の后妃伝の注釈・世語だと、曹丕が劉氏と甄姫がいる屋敷に踏み込んだまでは同じです。

しかし、世語だと甄姫は髪を振り乱し、劉氏の後ろに立っていたとあります。

曹丕が甄姫について尋ねると、劉氏は「袁煕の妻」だと答えました。

この時の曹丕は立ち去りますが、劉氏は甄姫を見て、次の様に述べています。

※世語より

劉氏「殺される心配はないでしょう」

劉氏の予感は的中し、曹丕は甄姫を側室として迎え入れる事になります。

これを見ると分かる様に、劉氏は男性のツボを押さえており、甄姫を使って上手く演出させたと言えるでしょう。

劉氏が計算高い女性だった事が分かるはずです。

この後に曹操は袁紹の墓参りをしたり、袁紹の家の者に宝物を返還したなどの話もあり、劉氏は裕福に暮らせたと考えられています。

劉氏は狂気じみたサイコパスな性格でもありましたが、要領はかなり良かったと考えるべきでしょう。

尚、曹操は関羽が求めた秦宜禄の妻である杜氏を、自分のものにしてしまった話があります。

しかし、流石に曹操であっても劉氏を側室にしようとは思わなかったのではないかと感じています。

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