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三韓征伐の史実と虚構

2023年9月1日

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宮下悠史

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名前三韓征伐(さんかんせいばつ)
関係国倭国、新羅、百済、高句麗
コメント神功皇后が行った朝鮮遠征

三韓征伐は日本書紀や古事記に記述があり、神功皇后率いる倭国の軍が朝鮮半島の新羅、百済、高句麗を降伏させた戦いです。

三韓征伐に関しては日本では学校の勉強などで教えない部分でもあり、史実なのか虚構なのかも分からないと感じる人が多い様に感じています。

日本書紀と古事記の内容を見ると、神功皇后に神懸かり的な事が起こり、新羅を降伏させ、恐れた百済や高句麗が降伏を願いでました。

神功皇后の三韓征伐は4世紀の事だと考えられていますが、日本側の記述を見る限りでは、日本軍に新羅、百済、高句麗が降伏し圧勝した結果となっています。

しかし、三韓征伐は朝鮮の国と戦ったわけであり、朝鮮側の正史である三国史記や広開土王碑にも資料として残っています。

今回は日本側と朝鮮側の資料を見て、実際の三韓征伐の史実と虚構を考えどの様なものだったのか?という事を解説します。

三韓征伐は空白の4世紀の中期から後期に起きたのではないかと感じました。

三韓征伐の資料

三韓征伐の資料としては、日本側の古事記、日本書紀、朝鮮側の三国史記、高句麗の広開土王碑を挙げる事が出来ます。

三韓征伐の資料の年代としては古事記(712年)、日本書紀(720年)、三国史記(1145年)、広開土王碑(414年)となっています。

史書に関しては年代が古い方が正確だと考える事も出来ますが、日本側の資料である古事記や日本書紀は、春秋暦を使っているとも言われ、年表があてになりません。

三国史記は1145年の成立ですが、年代に関しては古事記や日本書紀よりも正確だと考える事が出来ます。

広開土王碑は広開土王の子である長寿王が建てた石碑であり、年代的には最も信用が出来る資料だと言えます。

ただし、碑文を残す場合は自国を有利に見せる様に記述する傾向があり、内容の全てを信じる事は出来ません。

対外戦争においては「戦いに敗れた」と書いても国や王の求心力が落ちるだけでありボロ負けしても「戦いに勝利した」と書く場合が多いです。

実際に古代オリエントではエジプト新王国とヒッタイトの間でカディシュの戦いが行われ、戦後の処理を見るとヒッタイトが勝った事は確実でしょう。

しかし、エジプト側も自国の勝利を主張しています。

戦いに負けても負けたと書かないのは、三韓征伐だけではなく世界の共通項にもなっています。

三韓征伐の日本側の内容

日本側の三韓征伐の内容を見ると、古事記、日本書紀ともに仲哀天皇の死後に神功皇后が行った事になっています。

三韓征伐の内容は古事記と日本書紀の内容が大体が同じであり、神功皇后の船が波、風、魚に運ばれて新羅まで到達した事になっています。

さらに、神功皇后の船が新羅の半ばにまで到達し、驚いた新羅王が神功皇后に降伏した内容です。

新羅王が降伏した事を聞いた百済、高句麗が恐怖して日本に降伏したとされています。

古事記や日本書紀の記述を見ると、神功皇后の神懸かり的な内容が入っており、全てが史実だとは言えないはずです。

ただし、全てが嘘というわけではなく、神功皇后は朝鮮半島に兵を出した事だけは史実とも考える事が出来ます。

実際に朝鮮側の記録にも倭人が攻めてきた記録があり、倭国が朝鮮半島を舞台に新羅、百済、高句麗などと戦った三韓征伐は史実の可能性は十分にあります。

三国史記における三韓征伐

三韓征伐の前の時代

三韓征伐ですが、新羅本紀のみに記述があり、既に122年に倭国が襲来したとあります。

この倭国が朝鮮半島南部にいた倭人を指すのか、九州の倭国を指すのかは不明です。

尚、魏志倭人伝の記録を見ると、この頃の朝鮮半島南部は馬韓弁韓辰韓の時代ですが、三国史記の百済、新羅、高句麗の記述で話を進めます。

倭国と新羅は123年に講和しますが、208年に新羅が倭国に侵攻した記述があります。

208年には既に連合国家である邪馬台国が成立していたはずであり、邪馬台国が新羅を攻撃した事にもなる様に感じています。

232年、233年にも倭国は新羅を攻撃しており、三国史記だと新羅の軍が火計などを駆使し、倭国軍を撃退した事になっています。

神功皇后よりも前の時代である卑弥呼や邪馬台国の時代であっても倭国は朝鮮に出兵した記録があり、三韓征伐でいきなり倭国が朝鮮半島への進出を企てたわけでもない様です。

三国史記によると287年に倭国が突如として新羅を攻撃し、289年に新羅は船の準備をするなど防備を固めました。

292年、294年にも倭国は新羅を攻撃し、298年には新羅王が逆に海を渡り倭国を攻めようとした記録が残っています。

300年に倭国が新羅と使者を派遣しあった話があります。

尚、邪馬台国の卑弥呼は三国志の魏を後ろ盾にして援助を得ていた話しがありますが、同様に西晋からも邪馬台国は援助されていた可能性があります。

しかし、西暦300年頃になると八王の乱がヒートアップし宮廷闘争から軍事衝突、異民族の侵入に移行しており、とても邪馬台国を援助出来るような状態ではなかったはずです。

邪馬台国が九州にあり300年まで存続していたとしても、西晋の弱体化に伴い大和王権に呑み込まれていた事でしょう。

346年の戦い

新羅王の16代訖解尼師今の時代に、倭が突如として新羅を攻撃した話があります。

三国史記によると346年に、倭兵が突如として風島を襲い辺境の民家を略奪し、さらには新羅の首都の金城を包囲したとあります。

この頃には近畿の大和王権が九州の国を呑み込んでしまったとも考えられ、346年の戦いが神功皇后の三韓征伐の可能性もあります。

346年の戦いで新羅王の訖解尼師今は戦おうとしますが、部下の伊伐飡康世が「敵は遠方より押し寄せたのであり、今は勢いがあるから敵の疲れを待つのがよい」と進言しました。

これにより訖解尼師今は守りを固め、倭国が食料が尽きて撤退を始めると、騎兵で追撃を行い倭軍を追い払ったとあります。

346年が三韓征伐だったとしても、新羅側が勝利した事になります。

364年の戦い

新羅の第17代奈勿尼師今の時代にも倭が新羅を攻めた記録があります。

※三国史記新羅本紀・奈勿尼師今の9年(西暦364年)より

倭軍の大軍が攻め寄せて来ると報告が入るが王は太刀打ちできないと考えた。

そこで千体の草人形を作り服を着せ武器を持たせ吐含山の麓に配置させ、一千人の勇士を東の野原に伏せておいた。

倭軍は数を頼んで真っすぐに進軍したので、伏兵を出動させ倭軍の不意を衝いた。

倭軍は大敗を喫し逃亡し、これを追撃し倭兵の大半を討ち取った。

364年の新羅との戦いは神功皇后の三韓征伐の可能性が高いとも言われています。

しかし、新羅側の結果をみれば分かる様に、倭軍の大群を新羅が伏兵を使って多いに打ち破った事になっています。

393年の戦い

三国史記の新羅本紀の代奈勿尼師今の38年(西暦393年)にも倭国と新羅が戦った記録があります。

西暦393年の倭国と新羅の戦いも三韓征伐なのではないか?とする説が存在します。

※三国史記新羅本紀・奈勿尼師今の38年(西暦393年)より

倭軍が侵入し金城を包囲し5日も解かなかった。

将兵らは皆が出撃を願ったが、新羅王は「現在の賊軍は船を棄てて陸地の深くまで来て死地に入り込んでいる。倭軍の鋭鋒と当たるのは難しい事だ」と述べ城門を閉じて固く守った。

賊は何も得る事が出来ず撤退した。

新羅王は最初に勇敢な騎兵二百を出撃させ、倭兵の帰路を遮断し、また千の歩兵を出し独山で追いつき挟み撃ちにして大いに破った。

倭軍を大敗させ殺したり捕虜にした者が多かった。

393年の戦いでも新羅が倭軍を破っている事になっています。

三国史記の新羅本紀の記録を見る限りでは、倭の三韓征伐は大失敗に終わったと読み解く事が出来るはずです。

405年の戦い

新羅本紀の実聖尼師今の4年(405年)に、次の記述が存在します。

※三国史記・新羅本紀・実聖尼師今の4年(405年)

倭国の軍が明活城に攻め寄せてきた。

倭兵は戦いに勝てず帰還し、新羅王が騎兵を率いて独山の南で打ち破った。

三百余兵の倭兵を討ち取った。

これを見ると405年の戦いも新羅王の活躍により、倭兵が敗れた事になっています。

尚、西暦405年の第18代新羅王・実聖尼師今の時代にも倭兵が明活城を攻撃し、新羅が勝った事になっていますが、この頃だと既に神功皇后の三韓征伐の時代ではなくなっていると考えられます。

個人的には神功皇后は388年か389年に崩御したと考えているからです。

それでも、三国史記の記録を見る限りでは、神功皇后の三韓征伐があったとしても、新羅側が全て勝利した事になっています。

広開土王碑における三韓征伐

広開土王碑にも三韓征伐かと思われる記述があります。

広開土王碑によると、391年に倭が海を渡って朝鮮半島に上陸し、新羅と百済を臣民にしたとあります。

広開土王碑の記述だと、百済と新羅は日本に臣従する前は、高句麗に臣従していた事になっているわけです。

ここから百済の離反や新羅の援軍要請もあり、高句麗軍が朝鮮半島で日本軍と激突し、倭軍は時には帯方界にある平壌付近まで侵攻しました。

倭国軍は高句麗軍に撃退されていますが、何故か北方の帯方郡にまで侵攻するなど、不可解な部分もあると言えます。

三韓征伐とは何だったのか

三韓征伐は倭国、高句麗、百済、新羅が朝鮮半島での権益を巡っての争いだった事は間違いないでしょう。

鉄資源を確保したい大和王権の思惑もあった様に感じています。

しかし、三韓征伐は全ての国で「自国が勝利した」と言っているわけであり、どの国も決定的な勝利を得る事が出来なかったのでしょう。

神功皇后の死後も朝鮮への派兵は行われた様で、倭の五王は東晋、宋、梁などの国から、朝鮮半島の領有を認めさせ権威を得たかった様に感じています。

そして、倭の五王である倭王済倭王武(雄略天皇??)の時代に、高句百済を除く朝鮮半島南部の軍権を認められる事になります。

ただし、最終的に日本は白村江の戦いで敗れた事で、朝鮮半島の領有を目指す時代は終焉を迎えました。

神功皇后から始まる三韓征伐は白村江の戦いで完全に終結したという事です。

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