室町時代

佐々木道誉は時代の波を上手に乗り越えた

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宮下悠史

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名前佐々木道誉
別名高氏、峯方、京極道誉など
生没年1296年ー1373年
時代鎌倉時代ー南北朝時代
一族父:佐々木宗氏 母:佐々木宗綱の娘 養父:佐々木貞宗
子:秀綱、秀宗、高秀、赤松則祐正室、斯波氏頼室、六角氏頼

佐々木道誉はバサラ大名として鎌倉期から南北朝期に活躍した人物です。

鎌倉時代では北条高時と親しい関係にありましたが、元弘の変では最終的に後醍醐天皇に味方しています。

建武の乱では一時的に新田義貞に味方しますが、これ以降は大半が足利家の為に尽力しました。

佐々木道誉は室町幕府の足利尊氏義詮からは信頼され、近江守護にも補任されています。

近江守護は佐々木一族の惣領である六角氏が継承していましたが、例外的に佐々木道誉が就任しました。

足利義詮の時代には細川清氏斯波高経などを失脚に追い込んだ話も残っています。

それでも、足利義詮からは高い信頼を得て、足利義満の時代に亡くなっています。

尚、佐々木道誉は妙法院御所に見られる様な無法者としてのイメージもありますが、文化人としても一流であり、風流の人だとも言えそうです。

佐々木道誉の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。

佐々木道誉の出自

佐々木道誉は永仁四年(1296年)に佐々木宗氏の子として誕生しました。

後に佐々木貞宗の養子となり、京極家を継ぐ事になります。

佐々木道誉の実名は「高氏」ですが、足利尊氏は鎌倉時代には北条高時からの偏諱により高氏と名乗っていました。

さらに、公式文書では佐々木道誉も足利高氏も「源高氏」と書くのが普通であり、同姓同名という事になります。

佐々木道誉と鎌倉幕府

正中三年(1326年)に北条高時は出家していますが、この時に佐々木道誉も出家しました。

佐々木道誉の「道誉」は出家した時の名前だと言えるでしょう。

北条高時に合わせて、出家している事から、鎌倉幕府の首脳部と密接な関係にあったと考えられています。

佐々木道誉は北近江に拠点を持っており、朝廷とも関係が深く、鎌倉幕府とも良好な関係を築いていたのでしょう。

ただし、佐々木道誉は政治への関心が薄い北条高時を冷ややかな目で、見ていたのではないかともされています。

尚、元弘の乱北畠具行に対し、助命嘆願を行った話が残されています。

後醍醐天皇が楠木正成護良親王と共に倒幕運動を始めますが、最終的に佐々木道誉も倒幕に舵を切る事になります。

足利尊氏新田義貞により鎌倉幕府が滅びると、建武の新政が始まりますが、後醍醐天皇から上総国内の知行を安堵されました。

佐々木道誉と建武の乱

新田義貞に降伏

1335年に北条時行による中先代の乱が勃発し、足利尊氏が鎮圧に動きますが、この軍の中には佐々木道誉もいました。

佐々木道誉は中先代の乱の功績により、上総と伊豆の所領を足利尊氏から与えられています。

しかし、後醍醐天皇は足利尊氏が勝手に論功行賞を行った事に激怒し、新田義貞や脇屋義助を大将とする軍を派遣しました。

これにより建武の乱が始まりました。

この時に足利尊氏は浄光明寺に引き籠ってしまい、足利直義が大将として出陣しています。

佐々木道誉も足利直義と共に戦いますが、手越河原の戦いで敗れました。

新田義貞との戦いで弟の高屋貞満が命を落とし、佐々木道誉自身も負傷しています。

戦いに敗れた佐々木道誉は新田義貞に降伏しました。

箱根竹ノ下の戦いで足利軍に復帰

足利尊氏が復活し、新田義貞との間で箱根竹ノ下の戦いが勃発しました。

足利尊氏と脇屋義助が対峙しますが、脇屋義助の軍から大友貞載や塩冶高貞などが離脱し、足利軍に寝返りました。

こうした中で佐々木道誉も足利勢に寝返り、足利軍に復帰しています。

離反者が出た事で、箱根竹ノ下の戦いは、足利尊氏の勝利が決定しました。

佐々木道誉は以後は、足利氏の政権に尽力して行く事になります。

若狭守護に補任

新田義貞を破った足利尊氏は、京都に軍を進めますが、北畠顕家の援軍もあり九州に落ち延びました。

しかし、短期間で復帰し湊川の戦いでは楠木正成を自害に追い込んでいます。

足利軍は畿内に乱入しますが、佐々木道誉は美濃や尾張の軍勢と共に瀬田にいました。

さらに、足利直義は近江や伊勢の軍勢も佐々木道誉に預けています。

佐々木道誉は小笠原貞宗らと共に奮戦しました。

しかし、戦いは激戦であり佐々木氏の家臣・目賀田玄向や松岡景久らが討死しています。

佐々木道誉は朽木経氏に対し、朽木荘及び広瀬荘の領家職を兵粮料所として預け置きました。

建武の乱の功績により、佐々木道誉は若狭守護に補任されています。

足利氏は持明院統の光明天皇を擁立し、光厳上皇を治天の君とする北朝を誕生させますが、後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝を開く事になります。

これにより南北朝時代が始まりました。

因みに、赤松円心の策で持明院統から院宣を引き出した足利尊氏ですが、働きかけを佐々木道誉が行ったともされています。

尚、建武式目が制定され第一条が「倹約を行はるべき事」と書かれており、バサラの禁止が謡われていました。

室町幕府の基本方針はバサラの禁止でしたが、佐々木道誉や高師直なども、特に反対した話がなく、今まで通りに行っていた様です。

佐々木道誉らは「自分達は適用外」として考えていた節があります。

近江の重要人物

北畠顕家は後醍醐天皇の要請により、奥州軍を率いて上洛軍を起こし、関東では斯波家長を破りました。

建武五年(1338年)の正月に奥州軍は鎌倉から美濃に向かい、青野原の戦いで土岐頼遠らの軍を破っています。

北畠顕家は近江を通過するかにも思えましたが、黒血川で高師泰らが徹底抗戦の構えを見せた事で、伊勢に向かいました。

青野原の戦いの後に、佐々木道誉は美濃との堺の辺りに陣を布き、甲賀郡の小佐治基氏に伊勢方面の警護に当たらせています。

さらに、佐々木道誉の子の佐々木秀綱は小佐治国氏と共に、頓宮肥後弥九郎らが籠城する鮎川城を落としました。

この時に小佐治基氏、国氏の軍忠状には佐々木道誉の証判が押されており、佐々木道誉の配下として戦った事が分かります。

佐々木道誉は近江における重要人物だったのでしょう。

近江守護に就任

佐々木道誉は一連の活躍が認められ、近江守護に補任されました。

近江守護は佐々木氏の惣領である六角氏が継承するのが普通であり、異例の事態になったと言えるでしょう。

この時点で室町幕府にとっても、佐々木道誉は重要人物になっていたわけです。

佐々木道誉の苦労

北畠顕家が石津の戦いで敗れて世を去ると、幕府は佐々木道誉に吉野の攻撃を命じました。

佐々木道誉は上洛し、朽木経氏に対し、永田四郎と共に高島郡の軍勢を率いて上洛する様に命じています。

しかし、期限が過ぎても高島郡からの軍はやって来ず、佐々木道誉は再三に渡り、軍勢催促を行いました。

佐々木道誉は「やり手」や「怪僧」などのイメージがあるのかも知れませんが、決して物事が上手くいくと言ったわけでも無かった様です。

妙法院御所の焼き討ち事件

妙法院を放火

1340年に佐々木道誉の一族の若党が紅葉狩りの帰りに、妙法院の紅葉の枝を折った事があります。

妙法院は格の高い天台宗の寺院です。

妙法院の者が若党に枝を折った事を詰めますが、若党は坊官を嘲笑い、さらに大きな枝を折ってしまいました。

妙法院の御所にいた山法師らが、若党を門の外に追い払いますが、これに激怒したのが佐々木道誉であり、三百の兵を率いて妙法院御所に向かう事になります。

太平記によると、この時の佐々木道誉の怒りは凄まじく、妙法院御所を焼き討ちにしてしまったと言います。

妙法院御所焼き討ち事件は、佐々木道誉のバサラ大名としての人間性を語る重要な、逸話にも感じた人は多いのではないでしょうか。

しかし、同時代の史料では妙法院御所と対立したのは、息子の佐々木秀綱だった事が中院一品記により分かっています。

道誉と秀綱が流罪

佐々木道誉と佐々木秀綱が妙法院と対立した事は事実であり、延暦寺は幕府に佐々木親子を罰する様に強訴しました。

これを受けて室町幕府では、問題を起こした道誉と秀綱を流罪とする処分を出しています。

佐々木道誉が出羽に流され、佐々木秀綱が陸奥への配流となったわけです。

この時に佐々木道誉の実名が高氏であり、将軍の尊氏(高氏)と同じである事から、峯方と改名されました。

配流先に向かう佐々木道誉は三百人ほどの共を連れ、猿皮をかけたうつぼ(矢を入れる物)を背負い、腰には猿皮が撒いてあったと言います。

猿は比叡山の神獣であり、延暦寺に対する反骨芯があった事も分かるはずです。

さらに、遊女が何人も行列に加わり、あちこちで酒宴を開き配流地を目指したと言います。

しかし、実際の佐々木道誉は近江までしか言っておらず、八か月後には足利直義の命令で、伊勢方面への出兵が命じられた事が分かっています。

佐々木道誉及び佐々木秀綱の配流は形式的なものでしか無かったのでしょう。

尚、佐々木道誉の復活が余りにもスムーズであり、妙法院焼き討ち事件は幕府の暗黙の了解の元で行われ、目的は比叡山の勢力削減にあると考える専門家もいます。

出雲守護

出雲守護の塩冶高貞が突如として、出奔する事件が起きました。

太平記には高師直が塩冶高貞の妻を奪おうとし、塩冶高貞とその妻は出雲に逃亡しますが、自害してしまった話が掲載されています。

後任の出雲守護として佐々木道誉が補任されました。

出雲守護になった佐々木道誉は、杵築大社の祭礼の興行に尽力したり、加賀荘の押領停止を足利直義から命じられるなどしています。

淀新庄の地頭職を獲得するなどし、出雲守護の座は京極氏で継承していく事になりました。

南朝との戦い

1347年になると南朝の楠木正行の動きが活発となります。

楠木正行は細川清氏山名時氏の軍勢を大破しました。

足利直義は南朝の軍を討つために、出陣命令を出しています。

佐々木道誉は甲賀郡の大野光成に、参陣要請をしました。

高師直と楠木正行の間で四条畷の戦いが勃発しますが、高師直が勝利しています。

出雲国の諏訪部信恵や貞助は幕府軍として功績を挙げており、軍忠状に佐々木道誉が証判を据えました。

高師直は吉野に進軍し焼き払い京都に帰還しています。

大和国の平田荘の付近で南朝の軍に襲撃され、佐々木道誉が負傷し、嫡男の佐々木秀宗は戦死しました。

佐々木道誉の軍では損害が大きく、高師直は多くの戦果を挙げましたが、佐々木道誉は多くの被害を受けたわけです。

観応の擾乱の始まり

観応の擾乱が勃発すると、足利直義高師直が対立しました。

高師直は御所巻を行い足利直義を政界から引退させる事に成功しています。

高師直の御所巻の時に佐々木道誉は所領がある近江にいましたが、息子の佐々木秀綱は高師直の軍に加わりました。

一般的には佐々木道誉は生粋の師直派とされていますが、高師直の専横に同じバサラ大名として反感を持っていたのではないかとする見解もあります。

他にも、息子の秀綱には高師直の軍に入らせましたが、佐々木道誉自身は足利尊氏にも直義にも弓を引かない態度を取り、状況を見極めていたとも考えられています。

観応の擾乱では、九州で足利直冬の勢力が強大化しました。

佐々木道誉の分国である出雲では佐々木信濃五郎左衛門尉、六郎左衛門尉が足利直冬を支持し、吉田厳覚の軍と高野山で戦っています。

足利尊氏は高師直と共に、九州の直冬を討ちに向かいますが、足利尊氏は佐々木道誉を通して、九州遠征の事を光厳上皇に伝えました。

佐々木道誉は観修寺経顕を通じて、光厳上皇に直冬討伐の為の院宣を要請しています。

足利尊氏と高師直は九州を目指しますが、この時に足利直義が大和で突如として挙兵し、南朝にも降伏し多くの武士たちの支持を得ています。

直義派の石塔頼房は佐々木道誉の本拠地でもある近江甲良荘の付近を焼き討ちにしました。

佐々木道誉は石塔頼房の侵攻の前に、築城して迎え撃とうとしますが、国内の政情不安から断念し、東寺で防備を固める事になります。

祇園執行日記によると、佐々木道誉と仁木義長が赤井河原の辺りに陣を置いたとあります。

桃井直常の軍が到着すると、幕府軍との間で市街戦が勃発しました。

佐々木道誉は近江に向かうも園城寺の勢力に阻まれ、引き返して桃井軍の背後を急襲しています。

打出浜の戦いで足利尊氏は敗れ、高師直、高師泰の兄弟が世を去りますが、足利尊氏と直義は和睦しました。

佐々木道誉は最後まで足利尊氏に従い、負け戦を突き合ったとも言えそうです。

和睦が成されると、足利直義は佐々木道誉及び仁木頼章、仁木義長、土岐頼康らの所領を安堵しています。

佐々木道誉の南朝降伏

尊氏と直義の間で和睦が結ばれますが、足利直義は南朝との交渉や恩賞問題などで幕府内での居場所を無くしました。

こうした中で、突如として佐々木道誉と赤松則祐が南朝に鞍替えしています。

尚、佐々木道誉の娘婿が赤松則祐となります。

佐々木道誉の南朝降伏には様々な説がありますが、後村上天皇が尊氏や義詮直義の討伐命令を出しており、佐々木道誉が南朝に降伏したのは確実なのでしょう。

足利尊氏と義詮が佐々木道誉と赤松則祐の討伐に出向きますが、足利直義は自分を討つのが目的ではないかと考え、北陸に出奔しました。

園太暦によると、足利直義を支持する石塔頼房が伊勢より、攻め上り六角や京極勢と戦った記録が残っています。

足利直義は鎌倉に移動し、足利尊氏は南朝に降伏し、軍を率いて鎌倉を目指す事になります。

足利尊氏が南朝に降伏した事で、正平一統となり朝廷が一つになっています。

足利尊氏は関東に移動しますが、この時に足利義詮は佐々木道誉を「佐々木大惣領」とし、一族の催促を命じました。

佐々木氏の惣領は六角氏頼でしたが、六角氏頼が出家していた事から、佐々木道誉に期待したのでしょう。

後光厳天皇の即位

南朝方が京都を攻撃し、足利義詮は佐々木道誉と共に近江に逃れました。

南朝が京都を攻撃した事で、正平一統は自動的に破棄されています。

この時に足利義詮は光厳上皇、光明上皇、崇光天皇、直仁親王ら、皇族を置き去りにしたまま逃亡しました。

この時に北朝の皇族を取り返す為に交渉を行ったのが、佐々木道誉となりますが、結果は失敗に終わっています。

園太暦によると、佐々木道誉が北朝の皇族を取り返そうとした事で、皇族たちは山奥の賀名生まで拉致される結果になったと書かれています。

佐々木道誉配下の大野光成が多賀城攻撃で功績を挙げた記録も残っています。

室町幕府では北朝を復活しなければならず、後光厳天皇を即位させますが、この時に公家らとの調整役を担ったのが佐々木道誉です。

後光厳天皇は三種の神器もなく、天皇を指名する上皇もない状態での、異例の即位となりました。

佐々木道誉は観修寺経顕と共に広義門院を全精力を傾けて説得し、何とか納得させ上皇の代理としています。

それでも、普通に考えれば、後光厳天皇の践祚は、正統性に問題があったと言えるでしょう。

バサラ的な思考でいえば「権威に屈しない」というのがありますが、佐々木道誉は権威の重要性を理解しており、それ故に広義門院を説得したとみる事も出来ます。

足利義詮は京都を奪還しています。

山名師義激怒事件

山名師義が恩賞の取り次ぎを佐々木道誉に依頼した話があります。

しかし、佐々木道誉は茶会、連歌の会の最中などと理由を付けて会おうとしませんでした。

こうした態度に激怒した山名師義は、京都から出奔し父親の山名時氏の元に向かう事になります。

山名氏は南朝に鞍替えし、勢力を拡大していく事になります。

柏原城に引き籠る

足利尊氏の寵臣である饗庭命鶴丸が、尊氏に佐々木道誉と足利義詮の関係を問題視し、讒言しました。

当然ながら、饗庭命鶴丸の話の内容に激怒したのが、佐々木道誉です。

1352年の正月に佐々木道誉は、北野社参詣に行くと述べ京都を出ますが、近江の柏原城に入ったまま出なくなった事件があります。

佐々木道誉を心配したのが、足利義詮であり相原清胤と醍醐寺三宝院賢俊を柏原城に派遣しますが、佐々木道誉は面会しようともしませんでした。

足利義詮の使者と面会すらしなかったのは、佐々木道誉が欲しかったのは、足利義詮からの説得でも詫びでもなく、饗庭命鶴丸からの詫びであり、抗議だったともされています。

この後にどうなったのかは不明ですが、暫くすると佐々木道誉は政務に復帰する事になります。

佐々木秀綱の死

1352年に南朝の楠木正儀や石塔頼房らが京都に攻め上ってきました。

足利義詮は後光厳天皇と共に近江に入り、美濃にまで逃亡する事になります。

この時に和邇や堅田で戦闘が行われ佐々木道誉の嫡子の佐々木秀綱が討死しました。

武蔵野合戦で勝利した足利尊氏は、後光厳天皇の要請もあり帰京を目指し、足利義詮と共に京都を奪還しています。

足利直冬戦い

1354年に足利直冬が、山名時氏や石塔頼房と共に上洛戦争を起こしました。

足利尊氏は東坂本に移動し、京都を明渡しています。

足利義詮は佐々木道誉や赤松則祐と共に、神南山で戦いとなります。

この闘いで幕府軍は勝利を収め、山内通忠が佐々木道誉に戦功を讃えられた話が残っています。

神南山の戦いが終わると、佐々木道誉は上総国の守護に補任されました。

上総国の守護に補任されたのは、南朝との戦いの恩賞なのでしょう。

さらに、1359年には飛騨国の守護に補任されています。

佐々木道誉の機転

足利尊氏は1358年に亡くなっており、足利義詮が後継者となりました。

足利尊氏が亡くなった時に、仁木頼章が執事を引退していますが、後任の執事に細川清氏がなりました。

細川清氏の執事就任を推薦したのが、佐々木道誉です。

この頃の佐々木道誉は「武家権勢道誉法師」とも呼ばれ、幕府内でも屈指の実力者でした。

幕府執事が細川清氏となると、南朝への攻撃を画策する事になります。

関東からは鎌倉公方の足利基氏が援軍として、畠山国清を近畿に寄越しています。

南朝の楠木正儀らを破りますが撤退し、再度出兵しました。

この時に細川清氏の様子が怪しく、足利義詮は佐々木道誉を派遣し真意を問う事になります。

佐々木道誉は細川清氏らの目的が、仁木義長の排除にあると悟りました。

仁木義長は足利義詮の身柄を拘束し味方としようとしますが、佐々木道誉が機転を利かせ義詮を脱出させています。

仁木義長は幕府にいられなくなり、伊勢に逃亡し後に南朝に降伏しました。

佐々木道誉と細川清氏

佐々木道誉と細川清氏の間には、様々な対立があったとされています。

こうした中で、佐々木道誉は細川清氏を讒言した事が太平記に書かれています。

足利義詮は新熊野社で、細川清氏討伐の軍勢を集めました。

細川清氏は若狭に逃れますが、家臣の謀叛があり、南朝に身を寄せる事になります。

これにより南朝は息を吹き返しました。

佐々木道誉と楠木正儀

1361年の暮れに南朝は細川清氏、楠木正儀、石塔頼房らが京都に侵攻しました。

足利義詮は近江に逃れる事になります。

この時に、佐々木道誉は都落ちしましたが、自らの邸宅を整え、酒を用意するなど南朝の軍を接待するかの如く振る舞わせたわけです。

楠木正儀が佐々木道誉の邸宅に入りますが、余りにも見事だった事から、邸宅を破壊するのを止めた話が残っています。

尚、この逸話は楠木正儀が佐々木道誉に、出し抜かれただけとする意見もあります。

ただし、この後に佐々木道誉と楠木正儀は急接近し、南北朝の和解に動く事になります。

楠木正儀は和平論者であり、佐々木道誉と関係を深めて南北朝和解に動きたかったのでしょう。

しかし、現実的には中々上手くいかなかった部分が多いです。

佐々木道誉と斯波高経

斯波義将が執事となり、後見人として斯波高経が立ちました。

斯波高経の三男である斯波氏頼の妻は、佐々木道誉の娘であり、佐々木道誉は斯波氏頼を推していましたが、斯波高経は四男の斯波義将を可愛がり、執事としてしまったわけです。

こうした事情もあり、佐々木道誉と斯波高経の間は険悪なものとなって行きます。

五条橋の工事では佐々木道誉が工事を任されていましたが、遅れを理由に斯波高経が完成させてしまいました。

佐々木道誉は自分の仕事を、斯波高経が完成させてしまい面目を潰されています。

佐々木道誉の腹の内は煮えくり返っていた事でしょう。

斯波高経の行いに対し、佐々木道誉も黙っておらず、斯波高経が将軍邸で花見の行事をする時に、自分も同日に大原野で盛大な花見を開催しました。

一流の文化人である佐々木道誉の花見に多くの者が参加し、今度は斯波高経が面目を潰されています。

この時の斯波高経は石橋和義の若狭守護を解任し、自ら就任するなど敵を多く作って来た時期でもありました。

足利義詮は斯波高経討伐の為の軍勢を集めると、斯波高経は斯波義植や義高らと共に越前国に落ち延びて行きました。

斯波高経は越前で籠城戦の最中に亡くなっています。

佐々木道誉の陰謀

細川清氏斯波高経は執事になりますが、いずれも佐々木道誉との対立により室町幕府を追われる事になります。

佐々木道誉は権勢ある実力者に、下の不満を掬い上げ、行動に移し巧みに相手を失脚させていた事になります。

この辺りが、佐々木道誉に怪僧のイメージを与えているのでしょう。

それと同時に、足利義詮は佐々木道誉を深く信頼していた事も分かるはずです。

関東へ下向

1367年に鎌倉公方の足利基氏が亡くなりました。

この時に、足利義詮は佐々木道誉を関東に下向させています。

佐々木道誉の関東下向は東国を佐々木道誉に任せようとしたとも言われていますが、実際には基氏の子の足利氏満に鎌倉公方の座を継承させる為だと考えられています。

東国は鎌倉公方・足利氏満と関東管領・上杉憲顕で任される事になりました。

間もなく足利義詮も亡くなり、足利義満が後継者となり、細川頼之が管領として補佐する体制となります。

佐々木道誉の最後

足利義満の時代である1373年に佐々木道誉は、78歳で亡くなった事が分かっています。

亡くなる直前に佐々木道誉は、甲良荘尼子郷を「ミま」に譲ると、嫡子の髙秀に告げた話が残っています。

菩提寺である清滝寺や西念寺には十五カ条の掟書を定めました。

愚管記の中で近衛道嗣は佐々木道誉を「前代以来の大名なり」と評しました。

佐々木道誉の評価

佐々木道誉と言えば、華美や派手、怪僧、バサラ大名などのイメージが強いのではないでしょうか。

しかし、足利尊氏足利義詮の信頼を得て、念入りな工作を行い政治力を発揮したと言えるでしょう。

先見の明があり、南北朝時代を見事に生き抜いたと言えそうです。

佐々木道誉の動画

佐々木道誉を題材にしたゆっくり解説動画となっています。

この記事及び動画は『南北朝武将列伝北朝編(光祥出版戎)』『太平記の時代、足利の時代(青林堂)をベースに作成してあります。

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