名前 | 佐竹貞義 |
生没年 | 1287年ー1352年 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:佐竹行義 母親:二階堂頼綱の娘 兄弟:長倉義綱など |
子:義篤、月山周枢、小瀬義春、義資、義直、義冬、師義 | |
コメント | 佐竹氏の勢力を拡大させた |
佐竹貞義は鎌倉時代から南北朝時代に掛けて活躍した人物です。
佐竹貞義は足利尊氏に接近する事で勢力拡大を狙いました。
中先代の乱が終わると足利尊氏から常陸守護に補任されています。
子の佐竹義篤や佐竹師義は各地を転戦するなどしていますが、佐竹貞義は大半を常陸で過ごしました。
観応の擾乱では足利尊氏を支持しますが、息子たちが直義を支持したりしており、立場は微妙なものとなります。
しかし、武蔵野合戦では嫡子の佐竹義篤が尊氏からの信頼を取り戻すなどしました。
武蔵野合戦が終わって間もない時期に、佐竹貞義は世を去っています。
佐竹貞義の時代に佐竹氏は所領が増えるなど勢力は拡大しました。
足利氏に接近
佐竹氏の本領は奥七郡でしたが、鎌倉時代には北条氏に大半を支配されていました。
後醍醐天皇の建武の新政が始まっても、足利氏や臨川寺領となり、佐竹氏の元に帰ってくる事は無かったわけです。
本来なら奥七郡を巡って佐竹氏と足利氏は対立してもよさそうなものですが、佐竹貞義は逆に足利尊氏や直義に接近しました。
尚、臨川寺は後醍醐天皇の皇子で、1330年に亡くなった世良親王を菩提を弔う為に建立した寺院です。
足利尊氏や直義は臨済宗の高僧である夢窓疎石と深く結びついていました。
佐竹貞義は子の月山周枢を夢窓疎石に弟子入りさせています。
こうして足利氏と誼を通じる事で、佐竹貞義は勢力拡大を狙ったのでしょう。
中先代の乱
1335年に北条高時の遺児である北条時行が諏訪頼重と共に中先代の乱を起こしました。
当時の関東では足利直義が成良親王を奉じて、関東の責任者として君臨していました。
北条時行は勢いに乗り攻撃を強め、足利直義は幽閉中の護良親王を殺害し鎌倉を出る所まで追い詰められています。
中先代の乱で佐竹貞義は足利直義の援軍として現れ、北条時行の兵と武蔵国鶴見において戦いました。
佐竹貞義は北条時行との戦いで子の佐竹義直を失っています。
当時の足利尊氏は京都にいましたが、後醍醐天皇の制止を振り切り、東征を開始しました。
足利尊氏は北条時行の軍に連勝し、佐竹貞義も小夜中山合戦では足利尊氏に与し備前式部太夫入道を討ち取る功績を挙げています。
中先代の乱は足利尊氏により鎮圧され、北条時行は逃亡しました。
足利尊氏と直義は後醍醐天皇の意に反し、勝手に論功行賞を行っています。
建武政権の常陸守護は小田治久でしたが、足利尊氏は佐竹貞義を常陸守護に補任しました。
常陸国内に残留
後醍醐天皇は足利尊氏を朝敵認定し、新田義貞に討伐を命じました。
足利尊氏は箱根竹ノ下の戦いで新田義貞を破ると、そのまま京都に向かって進撃しています。
佐竹貞義は本国である常陸に留まり、子の佐竹義篤と小瀬義春が足利尊氏に従軍しました。
佐竹貞義は足利直義の命令で軍勢を集め、その中には伊賀盛光もいました。
伊賀盛光は陸奥国好島西荘の預所職でしたが、佐竹貞義の軍勢催促に応じています。
佐竹貞義は常陸守護であり陸奥の武士を招集出来ないと思うかも知れませんが、陸奥国岩城郡に基盤を持っており、陸奥にまで影響力を及ぼす事が出来たわけです。
足利尊氏を支持
建武政権では楠木正成の弟ともされる楠木正家を瓜連城に入れました。
佐竹貞義は瓜連城を攻撃しますが、落とす事が出来ず子の佐竹義冬が戦死しています。
菊池武敏との間で多々良浜の戦いが勃発しますが、佐竹貞義の子である佐竹師義が参戦しています。
多々良浜の戦いでは足利軍が勝利しました。
足利尊氏は一色道猷を鎮西管領に任命し、自らは少弐頼尚らと共に上洛軍を起こしています。
一色道猷の鎮西管領では侍所が設置されており、侍所の職員には佐竹氏の一族である佐竹重義も名を連ねました。
佐竹氏は足利尊氏の九州落ちにより、九州でも活動を始めた事になるでしょう。
足利尊氏は比叡山で後醍醐天皇を追い詰め、持明院統の光明天皇を即位させ光厳天皇を治天の君とし、建武式目を制定した事で室町幕府が成立しました。
後に足利尊氏は後醍醐天皇と和睦しますが、後醍醐天皇は納得が行かず、吉野に移り南北朝時代が始まる事になります。
佐竹貞義は当然ながら、足利尊氏を支持し北朝の武士として戦う事になります。
佐竹貞義の子の佐竹義篤は瓜連城を巡って大内義高(佐竹貞義の弟)らと南朝の小田治久や広橋経泰と戦いました
瓜連城は佐竹氏の活躍もあり、陥落し南朝は重要拠点を失いました。
佐竹貞義の子の佐竹義篤や小瀬義治は烟田時幹らと共に、小田治久や春日顕国らと戦闘を続けています。
佐竹氏の勢力拡大
後醍醐天皇は結城宗広の策により、南朝の重臣を東国に派遣しました。
これにより北畠親房や伊達行朝らと常陸合戦が勃発する事になります。
北畠親房は最初に神宮寺城に入りますが、佐竹氏らが攻撃し、さらには阿波崎城まで落としました。
戦いに敗れた北畠親房は小田治久に迎え入れられ小田城に入る事になります。
こうした活躍が認められ、佐竹氏には所領や所職が与えられました。
佐竹貞義は子の佐竹義冬も戦死しており、忠義が認められたのか、陸奥国雅楽荘や常陸国田中荘の地頭職が与えられています。
後醍醐天皇の慰霊の為の天龍寺供養では、佐竹氏の一族では佐竹師義と佐竹義長が参加しました。
佐竹義長は佐竹貞義とは別系統であり、美濃佐竹氏の人物だと考えられています。
観応の擾乱と佐竹氏
観応の擾乱が勃発すると、足利直義は高師直を解任し、高師世を新たな執事としました。
高師直は高師泰と共に御所巻を行いますが、太平記には高師直邸に集まった武士の中に、佐竹師義と佐竹義長の名が挙がっています。
観応の擾乱では佐竹貞義は都から遠い常陸にいましたが、足利尊氏や高師直を支持していた様です。
しかし、佐竹貞義の子である佐竹義篤や嫡子の義香(佐竹義宣)、小瀬義春、佐竹義長などは直義派として活動しました。
観応の擾乱では最終的に、足利尊氏が勝利し佐竹貞義は勝馬に乗った事になるでしょう。
それでも、子の佐竹義篤や孫の佐竹義宣や一族の者達が直義派として多く活動しており、足利尊氏に褒められる様な状態ではなかったわけです。
ただし、最初から足利尊氏に従った佐竹師義などは、尊氏から大きな信頼を勝ち取ったと言えるでしょう。
佐竹師義は山入師義とも呼ばれており、山入氏が後に佐竹氏の内部争いの原因にもなります。
武蔵野合戦と佐竹貞義の最後
観応の擾乱が終わった直後に、武蔵野合戦が勃発し新田義興や新田義宗、北条時行、上杉憲顕らが動き出しました。
さらには、信濃では宗良親王、陸奥では北畠顕信が活動を活発にします。
足利尊氏は新田義興らに敗れ石浜で態勢を立て直そうとしますが、ここに参上した者の中に佐竹義篤ら佐竹氏の者たちがいたわけです。
武蔵野合戦では足利尊氏が最終的に勝利し、佐竹氏も尊氏からの信頼を回復したと言えるでしょう。
しかし、武蔵野合戦が行われた年でもある文和元年(1352年)9月10日に佐竹貞義は世を去りました。
佐竹貞義は一安心したと思ったら、自分の寿命が尽きてしまったと言えそうです。