名前 | 成恢(せいかい) |
時代 | 春秋戦国時代 |
コメント | キングダムで一躍有名になった人物 |
画像 | キングダム英傑烈紀より |
成恢は漫画キングダムで一躍有名になった人物です。
意外に思うかも知れませんが、成恢は実在した人物であり、戦国策の魏策と韓策に名前が登場します。
史記には登場しませんが、戦国策の方には実在の人物として、功績が描かれています。
ただし、成恢が毒を使ったとか、顔が美男子で毒の研究に熱心だったなどの記録はありません。
史実だと遊説家の一人として、活躍したと見るべきです。
それでも、戦国策における成恢の外交のスマートさを見ると、顔が美男子だったのではないか?とも思えてきます。
キングダムだと函谷関の戦いで成恢は登場しますが、史実だと成恢が春申君や李牧の合従軍に参加した記録はありません。
それどころか成恢が戦場に立った記録すらない状態です。
同じ事は汗明、臨武君などの楚の部将にも言える事であり、汗明や臨武君が紀元前241年の函谷関の戦いに出陣した記録はありません。
呉鳳明やオルドなどは架空の人物と考えられています。
今回は史実の成恢を紹介します。
向晋を周に入れる
韓が向晋なる人物を、周から追放する事に成功しました。
向晋に関しては、どの様な人物か分かっていませんが、一般的には周王の臣下だったのではないか?と考えられています。
向晋と成恢の関係は不明ですが、成恢は向晋が周に復帰する為に動く事になります。
成恢は魏王の所に行き、次の様に述べます。
成恢「周を観察してみるに、向晋を戻らせるのは必定です。
それならば魏王様が先手を打ち、周に『向晋を戻らせる様に』と伝えるのが良策となるでしょう。
そうすれば向晋は魏王様に感謝し、周の内部に向晋を持つ事になります」
魏王は成恢の言葉で、周の内部に自分の息が掛かった向晋を持てると考え了承しました。
尚、上記の話は戦国策の韓策にある話ですが、魏王とあるだけで、誰なのかはっきりとせず、一般的には魏の恵王か魏の襄王だと考えられています。
成恢は向晋を周に戻す為に、魏王の後ろ盾を得たわけです。
さらに、成恢は動く事になります。
成恢は周晋を追放させたはずの韓に行き、韓王に次の様に述べています。
成恢「魏王が向晋を周に戻そうとしております。
今のままですと、向晋を周から追放したのが韓であり、戻したのが魏になってしまいます。
それなら、韓が向晋を周に戻してやった方がよいのではないでしょうか。
このままだと魏は周の内部に向晋を持ち、韓は周の内部に向晋を失う事になります」
韓王は成恢の意見を最もだと考え、向晋が周に入れる様に後押しする事になったわけです。
尚、この時の韓王も誰なのか記録されていませんが、韓の桓恵王だったのではないか?と考えられています。
ここで物語が終わっており、成恢の活躍で向晋が周に戻る事が出来たのかは不明です。
しかし、周は既に権威も無くした弱小国であり、戦国七雄の魏と韓の意向であれば、無視する事は出来なかった事でしょう。
それを考えると、成恢の外交は成功した様に感じました。
魏を救う
戦国策・魏策によれば楚が梁(魏)の南方を攻撃し、韓が薔を包囲しました。
薔は魏の領土であり、この時に成恢が犀首(公孫衍)の為に動く事になります。
なぜ成恢が公孫衍の為に動いたのかは不明ですが、公孫衍は魏の宰相になった事があり、成恢は魏の為に動いた事となります。
成恢は韓王と面会し、次の様に述べました。
成恢「素早く薔を攻撃すると、楚軍が必ずや魏の深くまで攻め込みます。
魏は窮地に陥れば、楚に臣従する事になるでしょう。
魏が楚の命令に従うとなれば、韓が次のターゲットとなり危うくなります。
それならば韓王様は、薔の包囲を解くべきです。
薔の包囲が解かれれば魏は韓が楚に協力する気がないと悟り、楚と全力でぶつかる事となります。
魏は戦って勝てねば首都の大梁を守る事も出来ませんし、薔を保つ事が出来なくなります。
それに、魏が楚に戦って勝ったとしても魏は疲弊するのです。
そうすれば、韓王様が薔を攻め取るのは容易いと言えます」
この話ですが、戦国策には何年の事なのか記述がありません。
しかし、紀元前323年に楚の将軍・昭陽が魏の襄陵を攻撃し、八邑を奪った話があります。
そうなると、楚王は楚の懐王となり、韓王は韓の宣恵王、魏王が魏の恵王という事になるでしょう。
尚、成恢の外交は魏だけではなく、韓の為に言っているとする話もあり、キングダムの作者の原泰久さんは韓の将軍として成恢を抜擢したのかも知れません。
成恢は美男子なのか?(おまけ)
キングダムだと成恢の顔が美男子だったが、毒の実権をし過ぎて、あのような毒々しい顔になってしまったとしています。
しかし、先に紹介した戦国策の成恢の記述を見る限りでは、成恢が毒を使った記録はありません。
勿論、成恢の毒で張唐を苦しめ、桓騎に助けられた張唐に討ち取られたとする話もないです。
それでも、成恢の交渉術を見ると、かなりスマートで説得力があると感じるのではないでしょうか。
それらを考慮すると、成恢の顔が美男子で今でいうイケメンだった可能性は残っている様に思います。
それに、成恢を見る限りでは智謀の士であり、諸子百家の遊説家の一人だった可能性もあるでしょう。
美男子で頭の回転も良かった様にも感じます。
成恢の行動を見ると、決まった君主は持たず、自分を信頼してくれた人やバックアップしてくれる人の為に、忠実に行動する人物だったのかも知れません。
成恢は戦国時代に生きた策士の一人だとは言えそうです。