春秋戦国時代

臨武君は史実でも秦に敗れていた

2021年2月19日

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宮下悠史

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臨武君は、キングダムにおいて軍の先鋒を務めて軍を攻撃した武将です。

楚軍の総大将である汗明が史実では、戦場に出た記録がありません。

それに対して、臨武君は将軍として戦場に出た事もある実在した楚の武将です。

史実では、記録が少ないですが、キングダムでの活躍も合わせて紹介します。

ちなみに、臨武君ですが、史実だと失敗を挽回する事が出来なかったようです・・・。

尚、史実の記録で奇抜な髪型をしたとか、妻が美人だったなどの記録は一切ありません。

ちなみにですが、史実では臨武君と魏加が話した内容が戦国策に掲載されています。

臨武君ですが、史実ではマイナーすぎる為か、この記事を書いている時点ではウィキペディアにすら記載がありません・・・。

臨武君は史実でも秦に敗れた記録があります。

臨武君の動画

当ブログ管理人が作った臨武君のゆっくり解説動画です。

史実の臨武君が動画で分かる様になっています。

キングダムでの臨武君

キングダムの臨武君ですが、函谷関の戦い軍の総大将である汗明に名誉ある先陣を委ねられています。

楚軍総大将・汗明より全楚兵に告ぐ!
我ら楚軍は此度の合従軍の盟主也 この大戦の栄える開戦の一刃を楚軍が承った
この戦で秦は滅ぶ!!この戦はァ 深く 歴史に刻まれること間違いない
この大戦の口火を切る誉れ高き者は 我が絶大な信頼を得る第一の猛将 臨武君貴様だァ!!

この時の汗明の演説は見事だと思いました。

臨武君は、楚の金剛石(コミックでは剛将に変更)という異名を持って登場します。

臨武君の言うには、楚は最も人口が多いため将軍になるのも最も難しいと言うのです。

それ故に、自分は他の国の将軍よりも優れていると主張したかったのでしょう。

楚の先陣を任されて活躍はしましたが、最後はに討たれて命を落としています。

これがキングダムの臨武君です。

終ってみれば、そんな奴もいたな~という感じの人でしかありませんでしたw

尚、楚は土地は広いですが、中原の地などに比べると人口密度が圧倒的に低いわけです。

中国の南の方の人口が増えたのは三国志が終り南北朝時代になってからとされています。

そのため国土が広い事は確かですが、人口は多いとは限らないでしょう。

さらに言えば秦の方が国土も広いですし、人口も多いはずです。

尚、楚という国は貴族たちの権限が強い国だとも言われていました。

そのため将軍になるには、実力よりも家柄の方が重要だったのではないかと私は考えています。

秦ほどの実力主義ではなかったはずです。

キングダムでは臨武君は白麗や項翼とは仲良くやっているようですが、白麗や項翼などはキングダムでのオリジナルキャラのようです。

臨武君も認めた荀子

臨武君と荀子が趙の孝成王の前で議論した話が残っています。

臨武君は戦いに勝つ為に大事なのは、兵法の駆け引きだと述べています。

孫子(孫武孫臏)や呉子(呉起)などは駆け引きで巧みであり戦いに勝ち続けたと、臨武君は主張しました。

しかし、荀子は民の心を一つにする事が重要だと趙の孝成王や臨武君の述べます。

荀子の言うには、怠惰な君主であれば駆け引きを行えば勝てるが、民の心を一つにまとめあげ隙が無い君主であれば駆け引きで勝つ事が出来ないと言うのです。

荀子と臨武君は将軍の在り方などに関しても、議論しますが、最終的に臨武君も趙の孝成王も荀子の言葉に納得します。

臨武君は、自分の説に固執せずに史実だと物分かりがよい性格だったのかも知れません。

ただし、後に春申君と魏加の会話(後述)の中で、秦との戦いに敗れた記録があるので、荀子の言葉を生かしきれなかった可能性もあります。

尚、臨武君は本名ではないと思われる為、荀子と語り合った臨武君と秦に敗れた臨武君は別人の可能性も残っています。

趙王の前で荀子と議論出来る事を考えれば、臨武君は史実では、中華でも名が通っていた兵法家だったのかも知れません。

史実の臨武君の実績

史実の臨武君ですが、どこの戦いで参加したなどはよく分かっていません。

戦国策という書物に臨武君についての春申君と魏加が話した内容が残っています。

尚、魏加はキングダムではの弓の達人で中華十弓となっていますが、史実ではそのような記録も残っていません。

魏加「春申君様は、誰を楚軍の将軍になさるおつもりですか?」

春申君「私は臨武君を将軍にするつもりです」

魏加「ある所に弓の名人がいました。弓の名人は矢を撃たずに、弓を鳴らしただけで鳥を落としたそうです。なぜ鳥を落とせたかというと、鳥が手負いの傷を負った鳥だったからです」

魏加「手負いの鳥であれば弓の音が聞こえただけで、古傷が痛み落ちてしまったわけです。臨武君は過去に秦に痛めつけられているわけですから、秦を防ぐ将軍とはなりません」

このように魏加が語ったと言うのです。

尚、この春申君と魏加の会話の前に戦国策には、「天下の諸侯が合従した」という言葉が入っています。

そのため、春申君と楚の考烈王が主導した最後の合従軍を作るにあたって、から魏加が使者としてきたのかも知れません。

しかし、それだと魏加が王齮に弓を放ち龐煖(ほうけん)を勝たせた事と時代背景が会わなくなってしまいます。

キングダムでは魏加は矢を放ちますが、信に斬られているからです。

斬られた人が函谷関の戦いの前に使者としてに行く事は出来ないでしょう。

同姓同名だと言うのであれば、話は早いですがw

尚、春申君が魏加の進言を入れて臨武君を将軍にしなかったのか、どうかは分かりません。

しかし、この話が真実だとすれば、函谷関の戦いの前に臨武君は既に秦軍に敗北している事になります。

そうなるとキングダムの数々の臨武君のセリフが虚しく聞こえるのは私だけでしょうか??

臨武君は項燕などの様にを打ち破ったなどの話しも聞かないので、春申君が将軍にしなかった可能性も高いです。

失敗を挽回している人物は歴史上で意外と多い

史実では臨武君は戦場で秦に敗れて、また将軍になる事は出来なかった可能性があります。

しかし、ここで考えさせられるのは、失敗はしたけど挽回した人も歴史上で多いと言う事です。

春秋戦国時代の魯の荘公ですが、曹沫を将軍にすると最初の1回は勝ちましたが、3回ほど連続で斉に敗れています。

しかし、魯の荘公は曹沫を将軍として使い続けています。

最終的に曹沫が意地を見せて、斉の桓公に会盟の場所で刃を突き付けて脅し、自分が敗れて失った土地の返還を約束されています。

この事は史記の刺客列伝に載っています。

燕の昭王の将軍となり合従軍を率いて斉を壊滅状態にした楽毅であっても、中山国にいた頃は趙の武霊王に敗れたはずです。

さらに、キングダムの主人公である李信も項燕に敗れましたが、その後の戦いでは復帰し見事に武勲を上げているのです。

三国志でも劉備曹操に連戦連敗でしたが、最後は漢中で黄忠夏侯淵を斬り曹操から漢中を奪いました。

劉邦項羽には連戦連敗でしたが、最後は垓下の戦いで四面楚歌にして破っています。

このように歴史を見ると敗れても復活してリベンジした例もあるわけです。

ただし、袁術のように最後まで曹操に勝てなかった例もありますが・・。

それを考えれば、春申君が魏加の言う事を聞かずに、臨武君を将軍にしたら意地を見せてくれたかも知れません。

しかし、この時代は秦が圧倒的に強くは連戦連敗を重ねています。

そのため項羽くらいの将軍でなければ挽回は難しいかなとも感じている事実もあります。

それを考えれば、臨武君が挽回するのは、難しい気もしてきました・・・。

尚、史実では臨武君がどのように死んだのかは分かりません。

もちろん、に殺されたと言う事もないでしょう。

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