
| 名前 | センウセレト3世 |
| 時代 | エジプト中王国 |
| 王朝 | エジプト第12王朝 |
| 一族 | 父:センウセレト2世 母:クネメトネフェルヘジェト1世 |
| 妻:メリレト、サート・ハトホル、クネメトネフェルヘジェト2世 | |
| 子:アメンエムハト3世 | |
| コメント | 対外遠征に成功し中央集権化も進めた |
センウセレト3世はエジプト新王国時代のファラオです。
エジプト第12王朝の五代目ファラオとなります。
センウセレト3世は体格がよく、その身長は2メートルを超えていたとされています。
さらに、ヌビアや西アジアへの遠征も成功させ、国内では世襲貴族の力を削ぎ、中央集権化を進めました。
マネトーも絶賛するほどの英主がセンウセレト3世だと言えるでしょう。
ヌビア遠征
センウセレト3世が第12王朝の第五代ファラオに即位すると、ヌビアの諸部族を討つために、治世の8年、10年、16年目に軍事遠征を行っています。
センウセレト3世は軍事遠征の成果を挙げて、第2カタラクトのセムナを国境としました。
第二代ファラオの時代のブーヘンから、国境が少し南に移動したことになります。
センウセレト3世はセムナの周辺に強固な要塞郡を建設し、領土の南端を保持しようと努めました。
この時にセンウセレト3世は「私が勝ち取ったこの国境を、維持できぬ者は我が息子ではない」とする石碑を立てた話があります。
センウセレト3世は永続的な支配を望んだのでしょう。
中央集権化
さらに、センウセレト3世は西アジアへの侵攻を行いました。
ヘロドトスの『歴史』にはアジアからヨーロッパにまで進軍した伝説のエジプト王・セソストリスが登場しますが、セスストリスのモデルがセンウセレト3世である可能性が指摘されています。
ヘロドトスの時代に、センウセレト3世は有名だったらしく、記述があります。
ただし、ヘロドトスの記述に誤りがあるとも指摘されている状態です。
センウセレト3世の時代になると中央集権化が進み、地方豪族は次第に力を失い、大規模な墓を造営しなくなりました。
これは、センウセレト3世が豪族に対して世襲制の廃止などの強い制限を加えたためです。
しかし、世襲制を廃止するだけではなく、センウセレト3世は有能な人材を次々に登用していきました。
その結果、豪族たちは従来のような巨大な墓を建てることができず、王のピラミッドの近くに小規模な墓を造るようになったとされています。
センウセレト3世は、さらなる中央集権化を目指しエジプト全土を下エジプト、中エジプト、上エジプトの行政区に分けて治めようと考えます。
行政区には「ワレト」と呼ばれる地方行政監視の為の部局を設置し、宰相の管轄下に置くことにします。
さらに、特定の部署や官僚などに権力が集中してしまわないように、一つの決定にも複数の部局の承認を必要とする監査方式を採用しました。
部署内の対立などで意見がまとまらない場合には、宰相に最終決定権が与えられることになります。
こうした改革によって、エジプトでは官僚国家体制が整えられていきました。
エジプト中王国時代の特徴の一つが官僚機構だと言われています。
エジプト第12王朝では、王の権力が集中した事で、官僚国家体制が出来上がりました。
パワフルな君主
センウセレト3世は優秀な人材を積極的に登用し、行政改革にも取り組むなど、非常に精力的な君主だったとされています。
しかしその評価とは対照的に、彼の彫像はどれも表情が暗く、疲れ切ったような顔つきをしている点が特徴的です。
センウセレト3世は身長2メートルほどの堂々たる体格を持ち、マネトーからも偉大な戦士として称賛されていますが、彫像の姿にはその威厳とは大きなギャップが見られます。
アビドスで彼の墓が発見されているものの、中身は空であったとも言われています。
治世の終盤には、アメンエムハト3世が後継者に選ばれ、センウセレト3世との共同統治が始まりました。
現代の日本では知名度はかなり低いですが、センウセレト3世は対外遠征に勝利し、中央集権化を進めるなど卓越した手腕を評価した歴史家も多かったのでしょう。
| 先代:センウセレト2世 | センウセレト3世 | アメンエムハト3世 |