
秦の哀公は春秋時代の秦の君主です。
楚の平王の要請もあり、秦の哀公は娘の伯嬴を楚に送り出しています。
ここで紆余曲折があり、伯嬴は楚の平王の后となり、後に楚の昭王を生む事になります。
楚が呉王闔閭により追い詰められると、申包胥の情に訴える行動もあり、秦の哀公は楚への援軍を決断しました。
秦は楚と共に呉を破っています。
秦の哀公の時代は、呉との戦いはありましたが、晋との戦いもなりを潜めており比較的平和な時代だったと言えるでしょう。
秦の哀公と楚の平王
史記の秦本紀に秦の哀公の時代の出来事として、紀元前529年に楚の公子弃疾が、楚の霊王を殺害し即位した事が記録されています。
公子弃疾が楚の平王です。
紀元前523年には楚の平王が太子建の為に、秦の女性を求めてきました。
この時に、秦の哀公は友好関係がある楚に気を遣ったのか、自らの娘で美貌の伯嬴を送ったわけです。
しかし、秦の哀公が送り込んだ伯嬴が美貌であった事で、楚の費無忌の言葉もあり、楚の平王が自ら娶りました。
楚の太子建に与えたはずの伯嬴が、平王の女性となり、秦の哀公がどの様な気分になったのかは記録がなく分かっていません。
ただし、後年に楚が援軍を求めて来た時に、秦の哀公は即決しておらず、苦々しく見ていた部分もあった様に感じています。
楚の混乱
秦の哀公の15年(紀元前522年)に、楚の平王が太子建を殺害しようとしました。
史記の秦本紀によると太子建は鄭に逃亡し、楚の伍子胥は呉に逃げたとあります。
伍子胥は父親の伍奢と兄の伍尚が楚の平王に殺害されており、復讐の鬼と化しました。
太子建がいなくなった事で、楚の平王と伯嬴の子である熊珍(楚の昭王)が皇太子になっています。
秦の哀公は望んだ結果ではないのかも知れませんが、自らの孫が楚の後継者になったわけです。
秦晋構想の停止
史記の秦本紀の秦の哀公15年の記述として、晋の国では公室が弱体化し六卿の力が強大になった事が書かれています。
六卿は互いに討伐する様になり、晋は秦にちょっかいを出す事も出来ませんでした。
秦の哀公の方でも、父親の景公の時代に成立した秦晋講和を継続させ、秦と晋の間に戦争が起きる事はなかったと言えるでしょう。
秦の哀公と申包胥
秦の哀公の31年(紀元前506年)に、呉王闔閭が楚に大攻勢を仕掛けました。
当時の呉は伍子胥だけではなく、孫武もおり強勢だったわけです。
呉王闔閭は楚の首都の郢を陥落させ、楚の昭王は随に逃亡しました。
楚の申包胥は、秦に危急を告げて援軍要請をしました。
秦の哀公と申包胥の話は、春秋左氏伝に詳しく書かれています。
秦と楚は秦の康公の時代からの同盟関係であり、既に100年を超える実績がありました。
随に逃亡した楚の昭王は秦の哀公の孫でもあり、申包胥は秦の援軍を引き出せると考えていたのでしょう。
申包胥は楚の無道を説きますが、秦の哀公は即決せず「協議の上で報告する」としました。
ここで申包胥は7日間に渡り一滴の水も口にせず、哭声を上げて涙を流し秦の哀公の決断を待つ事になります。
秦の哀公の方でも申包胥の行動に心を打たれたのか、秦風の無衣を歌い派兵の決断を告げました。
秦の哀公は子蒲と子虎に五百乗の兵車を指揮させ、申包胥と共に楚に向かわせています。
秦と楚の連合軍は、呉の夫概を破りました。
夫概は敗れますが、後に無断で呉に帰還し呉王となった事で、闔閭は楚から手を引き呉に戻る事になります。
秦の哀公の援軍により、楚は滅亡を免れました。
秦の哀公の最後
史記の秦本紀によると、秦の哀公は在位36年で亡くなったとあります。
秦の哀公は紀元前501年に亡くなった、事になります。
秦の哀公が長生きをし過ぎたのか、太子の夷公が既に亡くなっており、夷公の子が後継者となりました。
これが秦の恵公です。
秦の哀公の諡は「哀」であり、春秋戦国時代を見ると楚の哀王は即位して早い段階で、負芻に襲撃され最後を迎えています。
魯の哀公も臣下を制御出来ず国外に逃亡する事になり、衛や鄒を渡り歩き越で亡くなりました。
このように「哀」を諡とされる君主は、悲劇的な最後を迎えたケースが多いと言えるでしょう。
秦の哀公の場合はどの様にして亡くなったのか史記には記載されておらず、春秋左氏伝にも「秦伯卒す」と書かれているだけです。
しかし、「哀」を諡にされている事から、書かれていないだけで悲劇的な亡くなり方をした可能性があるのではないでしょうか。
それか長生きをし過ぎて、太子の夷公の方が先に亡くなってしまい「哀」としたのかも知れません。
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