
晋の哀公は春秋戦国時代の晋の君主です。
晋の出公が出奔し亡くなった事で、晋の君主となりました。
史記での晋の哀公は晋の昭公の曾孫であり、知伯に擁立された事になっています。
しかし、近年の研究では史記に記録された晋の出公の出奔した年が、間違っている事が指摘されており、趙襄子、韓康子、魏桓子らにより擁立されたと考えられる様になってきています。
さらに、竹書紀年や晋の趙世家の記述により、晋の哀公ではなく、懿公が正しいのではないかとも考えられる様になってきました。
晋の哀公の時代の晋の公室は相変わらず弱体化しており、趙、魏、韓が強勢ではありましたが、正卿の趙襄子が大きな戦いも行っておらず、皇室は比較的平和だったとも考えられます。
史記の晋の哀公
史記の晋の哀公の記述
史記の晋世家によると、晋の出公が斉に出奔し亡くなると、知伯が晋の昭公の曾孫の姫驕を擁立したとあります。
この姫驕が晋の哀公です。
晋の昭公の末子である戴子の系統に、晋の公室は継承される事になったと言えるでしょう。
戴子の子が忌であり、知伯と親しかったが早くに世をさり、知伯は晋の全土を手に入れようと考えていましたが、時期尚早と考えたのか忌の子の姫驕を立て晋の君主として擁立したと言います。
史記では知伯が晋の政治を全て取り仕切っており、晋の哀公はどうする事も出来なかったと記録しました。
史記の記述を見る限りでは、知伯が晋の哀公を擁立した事になっているのは明らかでしょう。
晋の哀公の4年に晋陽の戦いが勃発し、趙襄子、韓康子、魏桓子が結託し、知伯を破り、その領地を全て奪ったとあります。
史記では晋の哀公は、その18年に没し最後を迎えています。
後継者は晋の幽公となりました。
史記の記述を見る限りでは、何の違和感もない様に思うかも知れませんが、問題点もあるわけです。
史記の晋の哀公の問題点
史記では晋の哀公の一代前の出公は、知伯や趙、韓、魏が范氏や中行氏の領地を全て自分達のものにしてしまった事で、憤り斉に出奔して亡くなった事になっています。
しかし、実際には晋陽の戦いの後で、知伯の領地を趙、韓、魏が自分達のものにしてしまい、晋の出公が楚に出奔したと考えられています。
出奔先で晋の出公が亡くなった事で、晋の哀公が立ったのが実情なのでしょう。
史記では晋の哀公を擁立したのは、知伯となっていますが、実際には晋の哀公を擁立したのは、趙襄子を中心とした韓康子と魏桓子だったのではないでしょうか。
ここで、晋の出公に近い人物を擁立してしまえば、変な行動を起こされ趙、魏、韓は危機に陥る可能性もあったはずです。
晋の哀公と晋の出公は既に数世代離れた親戚の関係であり、赤の他人と言ってもよいレベルだったのではないでしょうか。
趙、韓、魏にとって危害を加えられない人物として、晋の哀公が擁立された様にも感じました。
晋の哀公としても「知伯の領地を公室に入れろ」とは言えない状況だったはずです。
実際の晋の哀侯の時代
晋の哀侯の時代は、趙襄子が正卿を務めた時代でしたが、晋陽の戦いの後に特に大きな動きは見せていません。
趙襄子は韓や魏を潰そうとしたり、周辺国に攻撃を仕掛ける様な事はしませんでした。
さらに言えば、趙襄子は魏の文公の様に政治力を発揮し、三晋を纏め上げ戦局を有利に進めるなども行っていません。
晋の哀公の時代の趙襄子は、過去に代を滅ぼした事でも分かる様に、北方への進出を目指し、中原には関わらなかったのではないでしょうか。
それと同時に、三晋は解体に向かい、晋の哀公も権威を利用される事も無く、ある意味平穏だったのかも知れません。
しかし、逆を言えば、晋の哀公は「相手にされていない」様でもあり、君主としては寂しい立場だった様に感じました。
「哀」が諡になっている君主は殺害されたり、悲劇的な最後を迎えた者が多いのですが、晋の哀公に関しては、どの様な最後を迎えたのかも記録されておらず分からない状態です。
晋の哀公と懿公
竹書紀年では晋の出公23年(紀元前452年)に、晋の出公が楚に出奔した事になっています。
竹書紀年では孫の懿公が晋君になったとありますが、史記の方が詳細な系譜が伝わっており、晋の昭公の曾孫の哀公が即位した事になっている状態です。
史記の晋世家の哀公驕の記述は、魏表の哀公忌、懿公驕を間違えて合体させてしまった結果としての記述だとも考えられています。
趙世家では、晋の出公が出奔し亡くなった後に、知伯が晋の昭公の曾孫の驕を立て「これが懿公である」と記録しました。
これらを考えると、晋の哀公ではなく、晋の懿公が正しい可能性も高いのではないでしょうか。