
晋の懐公は春秋時代の晋の君主です。
晋の恵公と梁嬴の間に出来た子でもあります。
韓原の戦いで晋が敗れると、子圉(晋の懐公)は、秦に人質として行く事になりました。
晋の恵公が病に倒れると、子圉は不安となり勝手に晋に帰国してしまいますが、秦の穆公と不和になる事になります。
晋の懐公は即位しますが、国内を纏める事が出来ず、秦の穆公が重耳を晋に入れようと動くと敗北を喫し最後を迎えました。
姫圉の誕生
春秋左氏伝や史記に、晋の懐公(姫圉)の誕生に関する逸話が掲載されています。
晋では驪姫の禍があり、太子の申生が亡くなり、重耳と夷吾は亡命しました。
夷吾は郤芮の言葉で、秦の隣国である梁に向かいました。
梁伯は娘の梁嬴を夷吾に娶らせ、子が生まれますが、これが姫圉です。
姫圉が誕生する時の逸話があり、梁嬴は懐妊しましたが、十カ月が経過しても、出産しませんでした。
ここで、卜招父とその息子が占う事になります。
ここで息子の方が「一男一女が生まれる」としましたが、卜招父は「その通りだが、男子の方は人の臣となり、女子の方は人の妾となる」と述べました。
一男一女が生まれますが、男子は「圉」と名付け、女子には「妾」と名付ける事になります。
尚、圉には馬飼いなどの意味がありますが、家来などの意味もあります。
晋の懐公は梁で誕生しました。
姫圉が秦への人質となる
父親の晋の恵王(夷吾)は秦の穆公の後援で、里克らに迎えられ晋の君主となりました。
しかし、晋と秦の間で韓原の戦いが勃発し、秦が勝利し晋の恵公は捕虜となっています。
穆姫の言葉で、晋の恵公は帰国が許される事になりますが、太子である子圉を人質として秦に預けました。
子圉は人質として、秦に赴く事になりますが、この時に女子の妾(子圉の妹)が侍女として、子圉に同行する事になります。
尚、秦の穆公は娘の懐嬴を子圉に娶らせています。
子圉の不安
紀元前639年に秦は梁を滅ぼしました。
梁は秦に隣接する小国であり、秦と同じ嬴姓の国です。
梁は晋の恵公が亡命し、子圉の母親の梁嬴は梁の出身の女性でした。
同姓の国であり、しかも母親の実家を滅ぼした秦に対し、子圉は不安になったと考える事が出来ます。
子圉の帰国
史記によると紀元前638年に晋の恵公が、病に倒れる事になります。
晋の本国には、晋の恵公の子が数人おり、子圉は「晋の君主になれないかも知れない」と不安になりました。
子圉は夫人の懐嬴に「母親の実家の梁は秦に滅ぼされ、国外では秦に侮られ、国内では孤立無援である。もし我が君(晋の恵公)に万が一の事が起きれば、大夫たちは別の公子を立ててしまうであろう」と告げます。
子圉は懐嬴と共に晋に逃げようと告げますが、懐嬴は「自分はついて行けないが、漏らす事はしない」と述べました。
これにより、子圉は単独で晋に戻る事になります。
紀元前637年に晋の恵公が亡くなり、子圉が立ちました。
これが晋の懐公です。
晋の懐公の不安
晋の懐公は無事に晋君にはなれましたが、秦から無断帰国したわけであり、秦の穆公は快く思ってはいませんでした。
さらに、晋の国内では叔父の重耳の人気が高く不安があったわけです。
こうした中で晋の懐公は「重耳に従って逃亡した者は期日までに戻って来なければ、その家を滅ぼす」と布告しました。
狐突の子の狐毛と狐偃は重耳に従っており、戻っては来ませんでした。
晋の懐公は狐突を捕らえ「息子たちを呼び戻したら命は助ける」としましたが、狐突は「息子たちに不義を教える事になる」と述べ、断りました。
晋の懐公は狐突を殺害しています。
春秋左氏伝では晋の懐公の行いを見た卜偃が「長くは持たない」と予言した話が掲載されています。
こうした中で、秦の穆公は楚から重耳を迎え入れ、晋に入れようと画策していました。
晋の懐公の最後
晋の懐公も晋軍を使って抵抗した形跡がありますが、懐公の為に働こうとしたのは少数だった様です。
重耳は郤穀や欒枝を内応させる様に手を打ってありました。
最終的に重耳が晋軍を握り、晋の懐公は高梁に逃亡する事になります。
重耳は高梁に兵を進めて、晋の懐公を殺害しました。
重耳は晋の君主として即位し、これが晋の文公です。
晋の懐公は晋の内部を纏める事が出来ず、呆気なく滅んだと言えるでしょう。
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