春秋戦国時代

秦の恵公(戦国)は魏と戦い続けた

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宮下悠史

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名前秦の恵公(戦国)
生没年生年不明ー紀元前387年
在位紀元前392年ー紀元前387年
一族父:敬公 子:出公
コメントと戦い続けた記録がある

秦の恵公は春秋戦国時代の君主です。

史記の秦本紀では、秦の簡公の子で簡公が亡くなると、秦の君主になった事になっています。

しかし、竹書紀年では簡公と恵公の間に敬公がいた事が分かっており、ここでは竹書紀年の記述が正しいとして話を進めていきます。

尚、春秋時代にも秦の恵公(春秋)はいますが、今回紹介するのは戦国時代の秦の恵公です。

秦の恵公の時代も秦はとの戦いを繰り広げました。

ただし、戦いは不利だったのではないかと感じています。

恵公が亡くなると、子の出公が秦君となりますが、僅か3歳であり母后が実権を握る事になります。

秦が魏に苦戦

竹書紀年の記述によると、秦の恵公の元年は紀元前392年となります。

秦の恵公は紀元前391年にを攻撃し、宜陽の六邑を占拠しました。

翌年の紀元前390年にはと武城で戦い、陝に県をおいたとあります。

上記の記述を見ると秦が優勢に見えますが、紀元前361年に陝城を包囲した記述があり、陝は直ぐに魏に奪還されたと考えられています。

史記の六国年表によると、秦の恵公は紀元前389年には魏の陰晋を攻めた記録があります。

これらの記述を見ると、秦の恵公の時代は、魏に対しても優勢に戦いを進めた様に思うかも知れません。

しかし、恵公の後継者である出公の時代に、魏が河西を制圧した記録があり、呉起に苦しめられたのか苦しい戦いを続けたのが現状でしょう。

秦の恵公の13年(史記・紀元前387年)には、秦が蜀を討伐し南鄭を取ったとあります。

戦国七雄の魏には苦しい戦いを強いられましたが、古蜀に対しては、有利に戦いを進めたのでしょう。

秦の恵公の最後

秦の恵公は紀元前387年に亡くなりました。

が古蜀に対し勝利の報告を聞き、亡くなったのかも知れません。

秦の恵公の後継者となる秦の出公は3歳であり、とても政治が行える様な年齢ではありませんでした。

秦は出公の母親である母后が政治を行う事になります。

先代:敬公恵公次代:出公

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