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史記の秦本紀では、秦の簡公の子で簡公が亡くなると、秦の君主になった事になっています。
しかし、竹書紀年では簡公と恵公の間に敬公がいた事が分かっており、ここでは竹書紀年の記述が正しいとして話を進めていきます。
尚、春秋時代にも秦の恵公(春秋)はいますが、今回紹介するのは戦国時代の秦の恵公です。
秦の恵公の時代も秦は魏との戦いを繰り広げました。
ただし、戦いは不利だったのではないかと感じています。
恵公が亡くなると、子の出公が秦君となりますが、僅か3歳であり母后が実権を握る事になります。
秦が魏に苦戦
竹書紀年の記述によると、秦の恵公の元年は紀元前392年となります。
秦の恵公は紀元前391年に韓を攻撃し、宜陽の六邑を占拠しました。
翌年の紀元前390年には魏と武城で戦い、陝に県をおいたとあります。
上記の記述を見ると秦が優勢に見えますが、紀元前361年に陝城を包囲した記述があり、陝は直ぐに魏に奪還されたと考えられています。
史記の六国年表によると、秦の恵公は紀元前389年には魏の陰晋を攻めた記録があります。
これらの記述を見ると、秦の恵公の時代は、魏に対しても優勢に戦いを進めた様に思うかも知れません。
しかし、恵公の後継者である出公の時代に、魏が河西を制圧した記録があり、秦は呉起に苦しめられたのか苦しい戦いを続けたのが現状でしょう。
秦の恵公の13年(史記・紀元前387年)には、秦が蜀を討伐し南鄭を取ったとあります。
戦国七雄の魏には苦しい戦いを強いられましたが、古蜀に対しては、有利に戦いを進めたのでしょう。
秦の恵公の最後
秦の恵公は紀元前387年に亡くなりました。
秦が古蜀に対し勝利の報告を聞き、亡くなったのかも知れません。
秦の恵公の後継者となる秦の出公は3歳であり、とても政治が行える様な年齢ではありませんでした。
秦は出公の母親である母后が政治を行う事になります。