名前 | 四条隆資(しじょうたかすけ) |
生没年 | 1292年-1352年 |
時代 | 鎌倉時代ー南北朝時代 |
年表 | 1348年 四条畷の戦い |
1351年 正平一統 | |
コメント | 武闘派の公家 |
四条隆資は後醍醐天皇や後村上天皇に仕えた公家となります。
後醍醐天皇は四条隆資を側近として重用しました。
後醍醐天皇が崩御すると北畠親房や洞院実世らと共に後村上天皇に代わり政務を執る事になります。
四条隆資は公家でありながらも、軍を率いて戦場を駆け巡っており楠木正行とも四条畷の戦いで共闘しました。
室町幕府では観応の擾乱があり、この時に正平一統があり北朝が消滅しています。
四条隆資は正平一統では実務を行ったりもしますが、最終的に男山八幡の戦いで命を落としました。
四条隆資は公家でありながら武士たちにも公平であり、極めて誠実な人物だったと言えるでしょう。
四条隆資の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴出来る様になっています。
四条隆資の出自
四条隆資は正応五年(1292年)生まれであり、鎌倉時代に生まれました。
この時代の朝廷は両統迭立であり、大覚寺統と持明院統で皇位を争っていた時代でもあります。
四条隆資の父である四条隆実は若くして亡くなった事で、四条隆資は祖父の四条隆顕により育てられる事になります。
四条隆顕は本来であれば嫡流でしたが、父親の四条隆親と問題を起こし出家した事で、四条家の嫡流は四条房名の系統に移りました。
公卿補任によれば四条隆資は文保二年(1318年)に27歳で、正位五位下となり、同年四月に右少将となった事が分かっています。
九条家では20歳前後で正五位になるのが普通であり、四条隆資の出世は明らかに遅いと言えるでしょう。
四条隆資の出世が遅れた理由ですが、父親の四条隆実が若くして亡くなり、祖父の四条隆顕が嫡流から外れていた事が原因だと考えられています。
四条隆資の青年時代は順風満帆とは行きませんでした。
四条隆資と後醍醐天皇
1318年に後醍醐天皇が即位する事になります。
後醍醐天皇は兄の後二条天皇が若くして崩御した事で、後宇多上皇の意向もあり天皇として即位しました。
大覚寺統の嫡流はあくまでも後二条天皇、邦良親王であり、後醍醐天皇は傍流に過ぎなかったわけです。
大覚寺統の中で後醍醐天皇を支持するものは少なく、後醍醐天皇は自らに忠実に職務をこなしてくれるものを欲し、後醍醐天皇の目にかなったのが四条隆資でした。
日野俊基と四条隆資は重用される事になります。
後醍醐天皇は花園天皇の皇太子であった時代から、四条隆資と意思を通じており、四条隆資を正五位に推薦したのも後醍醐天皇です。
後醍醐天皇は四条隆資を1318年11月には従四位下に昇進させており、左中将、右中将となり、1327年には参議にまで昇進し、1330年には権中納言にまでなっています。
四条隆資は後醍醐天皇のお陰で道が開けたと言えるでしょう。
蔵人頭と検非違使別当
四条隆資は蔵人頭及び検非違使別当になっている事は注目されている部分です。
蔵人頭は天皇の側近として奉仕するのが普通で、検非違使別当は洛中の治安維持、警察業務、訴訟を扱う検非違使の長官となります。
後宇多上皇と後醍醐天皇は洛中支配の中枢を担う重要な役職として検非違使を重視していました。
検非違使別当には四条隆資の他にも、北畠親房、日野資朝、万里小路藤房ら後醍醐天皇から信頼が厚い人物が任命されています。
検非違使別当に任命された人物は、後醍醐天皇が皇太子だった時代から、極めて厚い信頼が置かれていたわけです。
昇進が遅かった四条隆資も後醍醐天皇のお陰で、歴代四条家の当主並みに出世できる事になりました。
四条隆資は後醍醐天皇がいなければ埋もれていた様な人でもあり、後醍醐天皇に恩を感じ忠義を尽くす事になったと考えられています。
無礼講
後醍醐天皇は邦良親王が成長するまでの中継ぎの天皇として、位置づけられていましたが、邦良親王が1326年に若くして亡くなってしまいました。
後醍醐天皇は尊良親王を後継者にしようと考えますが、鎌倉幕府からの要請もあり、文保の和談により持明院統の量仁親王が皇太子になります。
ここで後醍醐天皇は天皇親政及び自らの子に皇位を継承させるべく、鎌倉幕府打倒を目指す事になります。
太平記によると後醍醐天皇は倒幕計画を四条隆資に相談していました。
後醍醐天皇が一人で倒幕の計画を練っても上手くいくはずがなく、信頼がおける四条隆資に相談するのは当然の流れだったのでしょう。
後醍醐天皇は身分を問わず騒ぐ無礼講を行い、その裏では日野資朝や日野俊基、四条隆資らと謀議を交わす事になります。
笠置山城の戦い
後醍醐天皇の倒幕計画ですが、鎌倉幕府にバレてしまい護良親王の意見もあり、笠置山城で挙兵しました。
笠置山城の戦いでは、朝廷軍が不利であり結局は落城し後醍醐天皇、宗良親王、千種忠顕、北畠具行、四条隆量(四条隆資の子)が捕虜になっています。
後醍醐天皇は隠岐に流され、後醍醐天皇に与した公家や武士たちも配流されたり処刑されています。
北畠具行も佐々木道誉による助命嘆願がありましたが、死罪となりました。
こうした中で四条隆資は城を脱出しており、出家し行方を晦ましています。
四条隆資は行方を晦ました事で処分を免れますが、六波羅探題は四条隆資を危険人物として認識していました。
倒幕を裏で支える
倒幕活動は護良親王を中心に継続されますが、護良親王は四条隆資の子である四条隆貞に令旨を発給させていた事が分かっています。
こうした事例から行方を晦ましていた四条隆資は、裏では護良親王とコンタクトを取り支えていたと考えられています。
楠木正成が千早城で挙兵していましたが、千早城の周辺では幕府軍の武士たちは、護良親王の令旨を獲得していたと考えられており、令旨の奉者が四条隆貞となっており、四条隆資も関与していた可能性が高いです。
四条隆資は倒幕において槍働きはありませんが、裏方として重要な役割を果たしていたと考えられています。
四条隆資と八幡への布陣
後醍醐天皇が隠岐を脱出し足利尊氏が六波羅探題を滅ぼし、新田義貞により鎌倉幕府は滅亡しました。
建武の新政が始まりますが、中先代の乱が勃発すると、足利尊氏は建武政権から離脱しています。
四条隆資はこの辺りから、軍事指揮官として戦場に立つ様になります。
足利尊氏は近畿の戦いで敗れ九州に逃れますが、短期間で大軍となり復活しました。
足利尊氏は湊川の戦いで楠木正成や新田義貞を破り、京都に侵攻しています。
京都合戦が勃発すると、四条隆資は軍事指揮官として八幡に陣取りました。
八幡(石清水八幡宮のある男山)は度々係争地となっている場所であり、交通の要衝でもあります。
京都を占領する為には、八幡を抑える必要があり重要拠点に四条隆資は配置された事になります。
四条隆資の後醍醐天皇からの信頼の厚さが分かる話でもあります。
四条隆資の敵中突破
太平記によると四条隆資は比叡山の軍と合わせて足利軍に攻撃するも、劣勢となり八幡を退いた事になっています。
四条隆資は八幡から坂本に移動し、後醍醐天皇と合流しますが、後に足利尊氏と後醍醐天皇が和睦しますが、四条隆資は再度挙兵する事も考えられ紀伊に派遣された事になっています。
しかし、近年の研究によると、四条隆資が紀伊に向かったのは、足利尊氏と後醍醐天皇の間で和睦が成立する前ではなかったかと考えられる様になってきています。
四条隆資に従軍した阿蘇品惟定の申状が残っており、四条隆資は足利軍と鴨川の河原や阿弥陀峰で戦い八幡から天王寺を経て南河内の東条に至ったとされています。
足利直義や細川顕氏が天王寺を攻撃する為に軍勢を催しており、この軍と戦ったのが四条隆資だったのでしょう。
四条隆資は三木一草の名和長年や千種忠顕らが戦死する中で戦い続け、後醍醐天皇と足利尊氏の和睦成立前に敵中を突破し紀伊に下向したと考えられる様になってきました。
敵中突破などは島津義弘を連想させる所もあり、公家でありながら武勇に優れていた事が分かるはずです。
四条隆資が政務を執る
後醍醐天皇は吉野に移り南朝を開きました。
室町幕府が推戴する北朝と合わせて南北朝時代の始まりとなります。
大覚寺統では多くの者が京都に残る中で、四条隆資は後醍醐天皇の南朝を支持しました。
当然ながら北朝から四条隆資は解官されています。
南朝では既に後醍醐天皇の寵臣であった結城親光ら三木一草は全滅しており、さらに北畠顕家や新田義貞も室町幕府との戦いにより命を落としました。
南朝が始まってから僅か数年で、武の柱を失い形勢は不利となります。
さらに、吉田定房や坊門清忠も亡くなり、1339年には後醍醐天皇までが崩御してしまいました。
南朝では後村上天皇が即位しますが、四条隆資は変わらずに忠義を尽くす事になります。
この時の後村上天皇はまだ12歳であり、北畠親房が政務を行い洞院実世と四条隆資が補佐する形となります。
ただし、北畠親房は常陸合戦で室町幕府の高師冬らと激闘を繰り返しており、吉野に不在でした。
こうした事もあり、四条隆資と洞院実世が政務を執り行っています。
四条隆資は各地から寄せられた注進状を受け取り、後村上天皇に取り次ぎ、所領安堵や恩賞宛行の綸旨の副状を発行しています。
興国四年には陸奥の結城親朝に対し「後村上天皇が戦功を喜んでいる事と、鎌倉を攻撃する様に要請」する文書が残っています。
ただし、結城親朝は父親の結城宗広や兄の結城親光が南朝の為に忠義を尽くし亡くなったのとは対照的に、石塔義房の要請などもあり室町幕府に与する事になります。
九州肥後の阿蘇惟時にも四条隆資は南朝に味方する様に要請しています。
この時に懐良親王が肥後の菊池氏の所におり、四条隆資としては阿蘇惟時も菊池武光や阿蘇惟澄と同様に南朝の武将として戦って貰いたかったのでしょう。
尚、阿蘇惟時は室町幕府に接近してみたり、南朝に近づいたりと曖昧な態度を繰り返す事になります。
武士に対しても寛大
公家と武士は水と油のような存在に思われがちですが、四条隆資は武士に対しても公正な心を持っていたと考えられています。
太平記の逸話で興国二年(1341年)に、脇屋義助が越前から吉野にやってきた話しがあります。
脇屋義助は北陸で兄の新田義貞と共に共闘しますが、兄の新田義貞は戦死し脇屋義助も最終的に斯波高経に敗れて越前を失いました。
後村上天皇は南朝の為に尽くしてくれた脇屋義助を喜び、配下の者達にも恩賞を下賜しようとしています。
ここで洞院実世が「越前や美濃で敗れた脇屋義助に官位や恩賞を与えるのは、平維盛が富士川の戦いで水鳥の羽に驚き逃げ帰ったのに、平清盛が昇進させたのと同じ」と述べています。
洞院実世は越前や美濃の戦いで敗れて、参上した脇屋義助に恩賞を与える必要はないと意見した事になるでしょう。
これに対し四条隆資は孫武が呉王闔閭に「将軍は軍に入れば王の命令を聞く必要はない」とする言葉や、周の文王の軍師であった太公望(呂尚)の言葉を出し洞院実世に反論しました。
四条隆資は「古来より大将の権威が重くなれば敵を滅ぼし国は治まる」と述べた上で、後醍醐天皇は大将を通さずに子卒が直接訴えてくれば、勅裁し吉野にいるだけの者に所領を与えていたと、後醍醐天皇のやり方を問題視しています。
四条隆資は後醍醐天皇が将軍を通さずに兵士達の言う事を聞くやり方が問題であり、脇屋義助の戦い方に問題があったわけではないと述べています。
四条隆助は後村上天皇は、脇屋義介に非がない事を知っているからこその恩賞だと伝えたわけです。
後村上天皇が脇屋義助に恩賞を下賜する態度は、敗戦を自らの責任とし配下の将軍に求めなかった秦の穆公と一緒だとしました。
四条隆資は後醍醐天皇の側近を務めており、問題点を把握していたのでしょう。
四条畷の戦い
1340年代の半ばを過ぎると南朝の楠木正行の活動が活発となります。
楠木正行は幕府軍の細川顕氏や山名時氏を破りますが、室町幕府は威信を掛けて高師直に大軍を預け四条畷の戦いに挑む事になります。
この戦いの前に楠木正行は後村上天皇に謁見を願い、四条隆資はその姿を見て涙を流しました。
幕府軍は四条畷の戦いの為に用意できる全ての兵をつぎ込んだともされています。
これにより楠木正行は絶望的な戦力差で戦わねばならなくなりますが、この時に楠木正行の援軍として現れたのが四条隆資です。
幕府軍は高師直の本隊を飯盛山の部隊に分けており、楠木正行が高師直を相手とし、飯盛山の軍を四条隆資が戦う事になります。
この時の四条隆資の軍は和泉や紀伊の野伏2万ともされていますが、兵の質は悪かったとされています。
南朝側の作戦としては、四条隆資が飯盛山の別動隊を食い止めている隙に、楠木正行が高師直を討つ作戦だったのでしょう。
しかし、楠木正行は高師直を追い詰めながらも最後は討たれました。
高師直は南朝の本拠地である吉野に進撃しますが、四条隆資は後村上天皇を賀名生まで避難させています。
正平一統
室町幕府内では観応の擾乱が勃発し、高師直が亡くなり足利直義が関東に移りました。
足利尊氏は南朝に降伏し北朝が消滅し正平一統が為されています。
足利尊氏は京都の守備を足利義詮に任せ、関東に移動し直義を降伏させました。
正平一統が成立すると北朝の崇光天皇や皇太子の直仁親王が廃されるだけではなく、北朝が所持していた三種の神器も南朝に引き渡されています。
園太暦に四条隆資と洞院実世が上洛した話があり、両者により正平一統の実務が行われて行ったのでしょう。
男山八幡の戦い
正平一統ですが、南朝の首脳部は室町幕府が苦し紛れの降伏に過ぎないと見抜いていました。
後村上天皇は北畠顕能、楠木正儀、千種顕経らに京都占領の命令を下しています。
京都を守る足利義詮は油断しており、北朝の皇族たちを置き去りにしたまま逃亡しました。
これにより光厳上皇、光明上皇、崇光天皇及び皇太子だった直仁親王が捕虜となり、南朝に連れ去られています。
南朝は17年ぶりに京都を奪還しますが、義詮は直ぐに反撃に転じ京都を奪還しました。
幕府軍は後村上天皇が籠る男山八幡宮にも軍を進め、ここには四条隆資もいたわけです。
男山八幡の戦いが四条隆資最後の戦いとなります。
四条隆資の最後
男山八幡の戦いは南北朝時代屈指の激戦とも呼ばれており、一カ月半に及び続きました。
楠木正儀と赤松則祐、土岐頼康が男山の南東で戦い土岐頼康の弟の土岐康貞が、楠木家臣の和田正忠に討ち取られるなどもありました。
総大将である細川顕氏は負傷し、山名時氏も苦しむなど激しい戦いが繰り返されたわけです。
幕府軍は兵糧攻めを行うも南朝軍は兵粮の運搬に成功するなどもしています。
この激戦の中で四条隆資は阿蘇惟時に「所領安堵の件は合戦が落ち着いたら手続きを始めます」とする文書を送っており、これが現時点で発見されている四条隆資の最後の記録となっています。
この後に南朝軍の兵糧が切れてしまい北畠顕能が最も頼りにしていた湯河一族が幕府軍に投降する事になります。
こうした事態に南朝の軍は戦意を喪失し、八幡から大和に撤退しました。
当然ながら幕府軍の追撃があり、赤松則祐の軍と戦ったのが、四条隆資であり、この戦いで戦死しました。
洞院公賢は四条隆資の最後を知り「四条一本(隆資)は赤松勢により頸を取られた。随分と戦った末に討ち取られたのは気の毒だ」と述べています。
四条隆資は1352年に戦死し、享年61歳だったと伝わっています。
四条隆資の動画
四条隆資のゆっくり解説動画です。
この記事及び動画は戎光祥出版の南北朝武将列伝北朝編をベースに作成しました。