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沮鵠(そこく)は邯鄲を守備した将軍

2023年2月12日

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宮下悠史

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名前沮鵠(そこく)
生没年不明
時代後漢末期、三国志
勢力袁尚
一族父:沮授 叔父:沮宗
画像©コーエーテクモゲームス

沮鵠は袁紹の参謀として活躍した沮授の子で、正史三国志の武帝紀に名前が登場する人物です。

沮鵠は冀州鉅鹿郡広平県の出身となります。

正史三国志の武帝紀の記録を見ると、沮鵠は袁尚の命令で邯鄲を守備した記録が残っています。

しかし、袁譚と袁尚の争いに曹操が介入し、邯鄲を攻撃されると沮鵠は守り切れず城は陥落しました。

邯鄲が陥落した時に、沮鵠が捕虜になったなどの記録もなく、その後は行方が分からなくなっています。

今回は沮授の子で袁尚に与した沮鵠を解説します。

尚、三国志演義では張遼と沮鵠が一騎打ちをした事が描かれていますが、正史三国志を見る限りだと沮鵠と張遼が戦った記録はありません。

正史三国志の沮鵠

西暦202年に袁紹が亡くなると、長子の袁譚と袁尚の間で後継者争いが勃発しました。

袁紹が築き上げた勢力を二分し、袁譚と袁尚で争ったわけです。

袁尚派には審配逢紀らと共に沮鵠もいました。

沮鵠の父親である沮授は、袁譚が青州に派遣される時に反対した経緯があり、長子である袁譚が袁紹の後継者になるべきだと考えていたのでしょう。

しかし、子である沮鵠は袁譚ではなく袁尚に仕えた事になります。

冀州派の代表格である審配など多くの冀州出身者が袁尚に味方しており、沮鵠も冀州派の流れで袁尚に味方した様にも感じています。

曹操は袁家を滅ぼすべく動き黎陽の戦いで勝利を挙げますが、郭嘉が「袁譚と袁尚は脅威が去れば勝手に争う」と進言し、曹操は劉表を攻撃する動きを見せます。

曹操の脅威が去ると郭嘉の予想していた様に、袁譚と袁尚が争い関係は修復不能となりました。

ここで曹操は兵を北上させ袁尚の本拠地である鄴を攻撃すると、袁尚は沮鵠に邯鄲を守らせています。

邯鄲は戦国七雄の時代に、趙の首都だった場所であり、堅城として名高くの末期には、邯鄲の城に籠られてしまえば厄介だと考えた章邯に破壊された過去もあります。

沮鵠が邯鄲を守備した時に、どれ程の堅城だったのかは不明ですが、邯鄲は重要拠点の一つだった事でしょう。

正史三国志には次の記述が存在します。

※正史三国志 武帝紀より

袁尚の将軍である沮鵠が邯鄲を守っていたが、これを攻撃して陥落させた。

正史三国志の記録を見る限りだと、沮鵠は邯鄲を守っていた様ではありますが、城が陥落し戦いに敗れた事になるでしょう。

沮鵠に関しての記録は、これだけであり城が陥落した後に捕虜となり処刑されたのか、城が陥落する前に脱出したのかも分かっていません。

沮鵠の人柄なども不明であり、正史三国志の記述を見る限りでは、どの様な最後を迎えたのかも不明です。

沮鵠は分からない事だらけの人だと言ってもよいでしょう。

三国志演義の沮鵠

三国志演義だと第32回に沮鵠が登場します。

袁譚と袁尚が争うと曹操は許攸の進言もあり、曹洪に鄴を攻撃させ、自らは尹楷を攻撃しました。

許褚が尹楷を討ち取ると、曹操は沮鵠が守備する邯鄲に兵を向けています。

沮鵠は曹操がやって来ると迎撃し、張遼と戦う事になります。

三国志演義の記述だと沮鵠は野戦を挑んだ事になるでしょう。

沮鵠と張遼は一騎打ちを行いますが、沮鵠の武芸の腕は張遼に大きく劣っており、三合ほど打ち合っただけで逃亡しました。

張遼は沮鵠を追いかけて、矢を放つと沮鵠に命中し、沮鵠は落馬しています。

沮鵠が敗れた事で軍は総崩れとなり、曹操軍の勝利が決まりました。

沮鵠は三国志演義では張遼の矢を受けて落馬した事は描かれていますが、その後にどうなったのかの記録がなく、ここで命を落したのかも分かっていません。

三國志演義でも父親の沮授と比べると、わき役としての要素が強いと言えるでしょう。

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