孫桓は三国志の呉の皇族の一人です。
孫権の勢力である呉と劉備の勢力である蜀の戦いでもある、夷陵の戦いで孫桓は陸遜と共に功績を挙げ、度量の深い人物だと思ったので、史実の実績と交えて紹介します。
ちなみに、正史三国志では、宗室伝第6の最後に孫桓伝が収録されています。
蜀の伊籍などと同様に記述は非常に短いですが、活躍が書かれています。
尚、上記は、孫桓の父親である孫河からの家系図ですが、孫河は最初は孫性を名乗っていたが、兪性に変わり孫策から再び孫姓を賜ったようです。
孫河は孫堅時代から仕えていて、戦いでは常に先陣を務めたとあるので、その事から孫姓を賜ったのでしょう。
その後も孫河の家系は皇族として優遇されたのではないかと考えています。
ただし、孫家の総本家とは、どのようなつながりがあったのかはイマイチ分かっていません。
尚、孫桓は優秀な人ですが、弟の孫俊も度量が深く文武両道の武将だったと正史三国志に書かれています。
ただし、孫俊がどのような活躍をしたのかは不明です。
優秀だと言うのであれば、活躍を知りたいところなんですけどね・・・。
皇族内の顔淵と呼ばれる
孫桓は、孫河の3男と言う事になっています。
長男の孫助は、曲阿県の長となったが若くして、亡くなったと記載があります。
次男の孫誼(そんぎ)は、海塩県の長になったとあります。
しかし、孫誼も若くてして亡くなってしまったようです。
そこで、孫河の後継者として孫桓が立てられたのでしょう。
孫権は、孫桓の事が非常に気に入っていたようです。
孫桓は、外見も容姿端麗で、さらに博学、人と議論をしたり対応などにも巧みで、孫権は大そう気に入っていた話が残っています。
孫権は、孫桓の事を皇族の顔淵だとまで言っていたそうです。
ちなみに、顔淵(顔回)は孔子の一番弟子に当たる人物で、孔子と子貢(孔子の弟子)との話の中で「1を知って10を知る」人物とまで言われています。
ただし、顔淵は、貧乏生活が続いたのか20代で白髪頭となり、30歳前に亡くなったとされています。
孔子は顔淵の事を大そう気に入っていて、自分の後継者と考えていたようです。
そのため、顔淵が亡くなった時に「天は我を見捨てたのか!」と嘆いています。
孫権も孫桓を顔淵に例えると言う事は、それだけ孫桓に対して期待していたのでしょう。
孫桓の聡明さが分かるエピソードです。
まあ、聡明と言われていても諸葛恪や孔融の様な例もありますが、孫桓はかなりまともだと言えます。
夷陵の戦いが起きる
赤壁の戦いでは、劉備も参戦していましたが、その時に孫桓と面識があったようです。
この時は、孫桓がまだまだ青年だった事もあり、熟年の劉備と比べたら青二才に映っていたようです。
赤壁の戦い後に、孫権は劉備に荊州を貸し与えたわけですが、後に劉備は益州も劉璋から奪い取っています。
孫権は荊州の返還を求めますが、劉備は中々従いませんでした。
劉備はさらに漢中を取り荊州の関羽は北伐を始めますが、ここにおいて呉は魏と結び関羽を討ち取ります。
劉備と関羽は義兄弟の契りを結んだ仲で、劉備は関羽の仇討ちのために呉に攻め寄せてきたわけです。
この時は、呂蒙も死亡していますし、陸遜が大都督となり孫桓もその下で働く事になりました。
孫桓が敵に包囲される
三国志演義だと孫桓は、李異、謝旌、譚雄の3人の猛将を推挙しますが、いずれも関興(関羽の子)と張苞(張飛の子)に破られてしまう事になっています。
しかし、史実では孫桓が3人を推挙した話もありませんし、関興や張苞に破られた話もありません。
三国志演義だと孫桓は関興や張苞の引き立て役でもありますが、史実ではないです。
夷陵の戦いでは下記の記述があります。
孫桓伝・・・劉備の軍勢は勢いがあり山や谷は兵士で満ち溢れていた。
孫桓は武器を手に取り、命を惜しまずに陸遜と力を一つに合わせて戦ったので、劉備は何も出来ずに敗走した。
ただし、陸遜伝を読むと孫桓の守っている城が劉備の大軍に包囲されて危機に陥っていた話が残っています。
陸遜伝によると、孫桓は劉備の大軍に攻められて窮地に陥り、大都督である陸遜に援軍を願いました。
しかし、陸遜は次のように述べたとされています。
「孫桓の城の守りは固く、孫桓は部下に対しても人望があるから、援軍をやる必要はない。自分(陸遜)の計略が成功すれば、おのずと包囲は解ける」
この時に、陸遜の部下は「孫桓は皇族だから助けに行くべきだ」と進言したそうですが、陸遜は聞く耳を持たなかったそうです。
孫桓は、これを聞くと大そう陸遜の事を恨んだとされています。
しかし、陸遜は孫桓の事を信頼しているからこそ、言えた言葉ではないかと思えます。
人望もあり統率力が高いと評価している言葉でもあるわけです。
実際に、孫桓は城内の兵士をまとめ上げて、劉備軍の攻撃を耐えたわけです。
劉備の逃げ道を塞ぐ
夷陵の戦いは、陸遜の火計が成功すると、形勢は逆転し劉備が敗走する事になります。
すると、今度は孫桓の方が劉備を追い詰める立場となり、劉備の逃げ道を塞いだとされています。
この時に、劉備は孫桓に追い詰められ「京城(呉)にいた時は、孫桓は小童(こわっぱ)の青二才だったのに、今はこんなに追い詰められている」と嘆いたそうです。
孫桓の采配が見事で、劉備も驚いたのでしょう。
しかし、劉備の逃げ足は異常で、捕らえる事は出来ませんでした。
劉備は白帝城に到着して、呉は魏に備えるために、追撃は中止しています。
孫桓は、ここでの功績により建武将軍に任ぜられて丹徒侯に任ぜられています。
陸遜への恨みを忘れる
その後、陸遜と孫桓は顔を合わせる事になります。
孫桓は、城を包囲された時に援軍を出さない陸遜を恨んでいましたが、夷陵の戦いが終ると和解したようです。
陸遜に対して「あの時は、大変に恨んでしまったが、今になってみると、あなた(陸遜)のやり方の正しさがよく分かった」
この様に言い、陸遜の能力の高さを讃えた話が残っています。
孫桓の最後
孫桓の最後ですが、正史三国志によると下記の記述があります。
長江を下って牛渚の督に任ぜられて、横江の砦を築いている時に、思いがけずに急に死去してしまった
このような記事があるだけです。
これが何年の事なのかは分かりませんが、急死した事は間違いないでしょう。
孫桓が、暗殺されたとか、そういう話もなさそうです。
「思いがけずに」という言葉があるので、「事故死」とか「何らかの病気で急死」したのでは、ないかと感じています。
尚、孫権が悲しんだとかは記載がありませんが、孫桓にかなり期待していたようなので、孫権の悲しみは深かったのではないかと思います。
呉にとって惜しい人物と亡くしたと言えるでしょう。
孫桓は度量が深い人物だと思った
孫桓ですが、個人的に度量が深い人物だと思いました。
陸遜に救援を断られた時に、恨んだのは仕方がないと思います。
「陸遜の計略が成功すれば、おのずと包囲は解ける」と孫桓が言ったのであれば、さらにカッコイイのですが・・。
しかし、後で陸遜の計略が成功した後では、陸遜のやり方に納得して、一切を水に流したところです。
漢の景帝の時代に、呉王劉濞が中心となり呉楚七国の乱が起きました。
その時に、周亜夫(周勃の子)が反乱鎮圧にあたっています。
景帝側の梁王劉武は城を囲まれた時に、周亜夫に援軍の依頼をしましたが、周亜夫は断っています。
周亜夫は、敵の糧道を絶つ作戦に徹して、見事勝利を収めます。
この勝利により梁王劉武も助かったわけですが、劉武は援軍を寄こさなかった周亜夫に対する恨みは忘れなかったようです。
劉武は景帝に対し、周亜夫を悪く言ったりもして、さらに後継者問題などもあり、結局、周亜夫は餓死してしまう事になります。
さらに、秦末期の鉅鹿の戦いでは、張耳は趙王歇と共に秦の王離や章邯に城を囲まれてしまったわけです。
この時に、陳余が兵を引き連れて救援に来ました。しかし、陳余は秦軍に攻撃を仕掛けずに見守る立場を取りました。
項羽が到着すると、陳余は項羽に依頼して、項羽は王離を破り壊滅的な打撃を与えています。
これにより趙王歇も張耳も助かったわけですが、張耳は陳余の事を恨んで、刎頸の交わりも解消してしまったわけです。
劉武や張耳の事を考えると、孫桓の態度は度量が大きいと言えるのではないかと思いました。
自分は危機に陥ったわけですが、全体の戦略の中で勝てた事で、陸遜に対する恨みを忘れたわけですから。
それを考えると、孫桓は度量が大きく部下にも信頼されている立派な大将だと言えるでしょう。