名前 | 孫崇(そんすう) 字:賓碩 |
生没年 | 不明 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
孫崇は正史三国志の注釈にある魏略の勇侠伝に登場する人物です。
孫崇の名よりも、勇侠伝にある孫賓碩の名前の方が、知名度は高い様にも感じています。
孫崇に関して言えば、高い義侠心を持ち逃亡中の趙岐を匿い救いました。
孫崇は義侠心から趙岐を救ったとも言えるでしょう。
趙岐は孫崇に恩を感じており、後年に荊州で奇跡的に出会うと涙を流し再開を喜んだ話があります。
作家の宮城谷昌光氏は三国志外伝の中で趙岐を主人公の一人としており、物語の中で孫崇も登場しています。
尚、孫崇(孫賓碩)が登場する魏略の勇侠伝には下記の人物が収録されている状態です。
孫崇と趙岐
梁冀は後漢王朝内で絶大なる権力を握りますが、桓帝は宦官の単超、徐璜、具瑗、左悺、唐衡らと共に梁冀を打倒しました。
これにより唐衡、徐璜、具援らは桓帝から絶大なる信任を受ける事になります。
こうした中で唐衡の弟らと趙息の間で揉め事が起こります。
唐衡は趙息を恨み趙氏を皆殺しにしようと画策しました。
これにより、趙息の叔父である趙岐にも危害が及び、逃亡生活が始まったわけです。
逃亡中の趙岐は木綿の袴を履き、市場で胡餅を売って生活していました。
胡餅を売る趙岐を見た孫崇は「常人ではない」と感じ入る事になります。
孫崇と趙岐の間で、次の様なやり取りがあったと伝わっています。
※魏略 勇侠伝より
孫崇「餅を持っているが、それを売るつもりなのか」
趙岐「勿論、売ります」
孫崇「幾らで買って、幾らで売るのだ」
趙岐「三十銭で買い、三十銭で売ります」
孫崇「貴方を見ていると、餅を売る様な方ではないと分かる。
おそらく理由があるのであろう」
孫崇は言い終わると、車の後ろの戸を開け、、連れてきた二人の騎馬の従者を振り返り、馬から降りて趙岐を助けて車に乗せました。
趙岐はこの時に、孫崇が唐衡の息が掛かった者だと思い込み、多いの驚き顔面蒼白となります。
ここで孫崇は車の後ろの戸を閉め、前の帳を下ろし趙岐には、次の様に述べています。
孫崇「貴方を見れば餅売りでない事は明らかですし、今は顔色が変わっている。
もしも大きな仇がいるのでなければ、亡命に違いない。
私は北海の孫賓碩だが、一家全部で100人はいる。
さらに、奥座敷には100歳の老母がおり、相談に乗れるし、絶対に裏切る事はない。
私に事実を話して欲しい」
孫崇は趙岐がただモノではないと判断し、救いたいと考えたのでしょう。
当時は宦官が幅を利かせており、名士らは用いられず困窮していた者も多くいました。
それ故に、孫崇は趙岐を放っておく事も出来なかったとも言えます。
趙岐を匿う
趙岐は包み隠さず状況を孫崇に伝えました。
孫崇は趙岐を車に乗せると、子牛を走らせて家に帰り、車を門の前に止めると母親に会い、次の様に述べています。
孫崇「今日は外出し、心を契る友を得まして外におります。
呼び入れて挨拶したいと思います」
孫崇は言い終わると、趙岐を家の中に招き入れ牛を殺し酒をつぎ、心行くまで歓談しました。
2日ほどすると、孫崇は趙岐を車に乗せて別の田地にある家に落ち着かせ、二重の壁の中で匿う事となります。
孫崇は厳重に趙岐を匿ったわけです。
このまま数年が過ぎると、宦官の唐衡もその弟も亡くなり、趙岐は漸く安全を確保され出身地の郡に帰りました。
孫崇は見事に趙岐を匿ったと言えるでしょう。
運命的な再開
趙岐の方は三公の役所に招聘され、様々な役職を得て郡守、刺史、太僕となり出世しました。
孫崇は東方が飢饉に陥った事で、南方の荊州に移動しました。
194年に献帝は李傕や郭汜が権力を握る長安にいましたが、洛陽に移る事になります。
洛陽は董卓の長安遷都により廃墟となっていましたが、荊州の劉表に趙岐を派遣し、洛陽を復興させる事にしました。
趙岐は使者として荊州に行きますが、ここで劉表の元に身を寄せていた孫崇と再開する事となります。
孫崇と趙岐は再開し、お互いに涙を流し喜んだとあります。
趙岐は一番つらい時期に孫崇に助けられたのであり、特別な感情を持っていたのでしょう。
尚、三輔決録によれば荊州に行った趙岐は宴席で上座から孫崇を見つけ、劉表と共に青州刺史に推挙したとあります。
青州刺史
孫崇は荊州にいましたが、劉表は孫崇を冷遇していました。
劉表はインテリであり、任侠気質の孫崇を好かなかったのかも知れません。
趙岐は劉表を説得し、二人で上表を行い孫崇を青州刺史としました。
趙岐の話を聞いた劉表は孫崇を礼遇する事になります。
趙岐は過去の孫崇に対する恩を恩で返したとも言えるでしょう。
孫崇は荊州を離れましたが、趙岐は荊州に残り、後に曹操から司空として招かれますが、趙岐は辞退し太常となりました。
孫崇の最後
孫崇の最後は何年なのかは不明です。
しかし、魏略の勇侠伝には、次の記述があります。
暫くして孫賓碩が病没すると、趙岐は南方にいたが喪に服した。
趙岐におって孫崇の恩は絶大だったとも言えます。
趙岐は201年に亡くなっており、孫崇はそれよりも前に亡くなった事は確実でしょう。