楚の哀王は楚の幽王の弟であり、父親は楚の考烈王・母親は李環となります。
楚の哀王の名前は史記や戦国策、列女伝に登場しますが、内容に関しては極めて薄く、楚王に即位して僅か2カ月余で、異母兄の負芻に襲撃され命を落としています。
即位して僅か2カ月で命を落とすのは、哀愁が漂っており、楚の哀王の名前に相応しくもなっています。
楚の哀王は即位してから、僅か2カ月で命を落とした事もあり、実績がなくどの様な人物なのかは分かっていません。
楚の幽王に関しては、春申君の子だとする説が残っていますが、楚の哀王に関しては、楚の考烈王の可能性が極めて高いと言えます。
それを考えれば、楚の哀王に楚の考烈王の子であり正統性は高いと感じますが、負芻により命を落としています。
楚の哀王の誕生
楚の哀王の兄である、楚の幽王の誕生に関しては、不明な部分が存在しています。
史記には李園が妹の李環の美貌を頼りに、楚王に売り込もうとしますが、楚の考烈王との間に子が出来るか不安であり、李環を宰相の春申君に嫁がせました。
李環は春申君の子を身籠った上で、楚の考烈王に献上した話があり、これが本当なら楚の幽王は、春申君の子という事になります。
しかし、楚の哀王は、楚の幽王の弟であり、母親の李環が楚の考烈王に嫁いだ後に誕生した子という事になります。
史記の春申君列伝の記録が正しいのであれば、楚の幽王と楚の哀王は異父兄弟という事になるでしょう。
楚の考烈王が亡くなると、楚の幽王が即位しますが、この時に春申君は李園に暗殺されてしまいました。
こういう事情もあり、楚の幽王が即位した時に権力を握ったのは、李園と李環の兄妹だったはずです。
尚、李園は楚の考烈王の子が生れるか自信がなく、李環を春申君に嫁がせたわけですが、結果を見えば楚の考烈王と李環の間に、楚の哀王が生まれた事になります。
それを考えれば、李園の楚の考烈王と李環の間に子が生れるかの心配は杞憂だった事にもなるでしょう。
ただし、春申君列伝には楚の考烈王には子が出来なかったとありますが、楚の考烈王の子だとされるのが負芻、昌平君、楚の幽王、楚の哀王がおり、この辺りは記述と食い違いがあります。
楚の哀王の即位
楚の幽王は紀元前228年に亡くなりました。
史記の楚世家には、次の記述が存在します。
※史記 楚世家より
楚の幽王はその10年に亡くなり、同母弟の猶が代わって立った。
これが楚の哀王である。
上記の記述から、楚の幽王が亡くなった後に、楚の哀王が即位した事が分かります。
楚世家には「同母弟」とあるので、楚の哀王の母親は李環となるでしょう。
外戚である李園や李環らの一味は、楚の哀王を即位させ、政治を再び牛耳りたいと考えていたはずです。
楚の哀王の最後
楚の哀王が楚王となりますが、史記の楚世家では、次の記述が存在します。
哀王が即位して2カ月余りで、庶兄の負芻の一味が哀王を襲撃し殺害した。
負芻が楚王となった。
楚の哀王は楚王とはなりましたが、僅か2カ月で負芻の一味に殺害されたという事です。
楚の哀王の最後がどの様なものだったのかは記録がなく分かっていません。
尚、楚の哀王が即位し亡くなる紀元前228年は既に韓は滅亡しており、趙も李牧が郭開の讒言により命を落とし、趙の幽穆王が秦の攻撃により捕虜となった年でもあります。
戦国七雄の国では秦一国で、天下の半分以上の領地を持っており、楚にとってみても、危機的な状況だったはずです。
こうした中で楚の哀王を負芻が殺害する行為は、国としてのまとまりの悪さを指摘されたりもする部分でもあります。
因みに、楚の哀王が亡くなり負芻が即位して5年目に、秦の王翦と蒙武が楚を攻撃し項燕が敗れ、負芻は捕虜となりました。
昌平君が楚王になった話もありますが、秦軍の侵攻を止める事が出来ず、結局は楚は滅亡しました。
楚の哀王が亡くなってから、史実の楚は5年で滅びたという事です。