春秋戦国時代

李園の史実【楚の宰相となり秦・魏を相手に機転を利かせた事もある】

2021年4月10日

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宮下悠史

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李園と言えば令尹(宰相)である春申君を暗殺した事で有名です。

しかし、史記や戦国策などには、その後の資料が無くてよく分かりません・・・。

ただし、戦国縦横家書には李園の機転を利かせた外交戦略の話しがありました。

その話や李園の史実を紹介します。

尚、この記事を書いている時点ではウィキペディアでも李園に対する記事がありませんでした・・・。

私の場合は、ウィキペディアの記事はほぼ参考にしてないので、構わないんですけどね。

妹を春申君に嫁がせる

史記によると、楚の考烈王は子が出来ずに悩んでいたそうです。

春申君もそれを気にして、子を産めそうな女子を献上していたそうですが、子が中々産まれません。

それを気に病んでいたと史記にはあります。

李園は春申君の食客だったわけですが、美人の妹がいました。

妹が美人という事は、兄である李園もイケメンだった可能性があります。

兄と妹でも似ていない場合もありますけどね・・・。

李園は、その妹を最初は春申君に紹介したわけです。

いつの時代も男は美人を好むせいか、春申君は李園の妹の事を非常に気に入ってしまいます。

そして、李園の妹は春申君の子を身ごもったとされているわけです。

李園が策を弄する

ここで李園は、ある事を思いつきます。

李園は、妹を使って春申君に、口添えするように指示しています。

李園の妹「殿様(春申君)は、楚では長い事宰相をやっていますが、考烈王が亡くなった後は宰相の位を保つ事が出来ましょうか?」

李園の妹「私は殿様の子を身ごもっています。私を考烈王に献上すれば殿様の宰相の位は安泰ではありませんか」

春申君は自分の子がの王位に就くのも悪くないと思い、考烈王に李園の娘を献上しました。

その子が後の楚の幽王です。

これにより李園は楚王室の外戚となります。

この話は呂不韋と秦王政の親子関係説とよく似た話です。

李園が春申君を暗殺

李園は春申君がいなくなれば自分が権力を握れると思うようになります。

そして、春申君を暗殺するための刺客を集めるようになっていくわけです。

春申君の食客の一人で朱英という人物が、李園の企みに気が付きます。

そして、春申君に自分を警護の役職に就ける事を進言します。

李園が下手な事をすれば朱英が斬ると言うのです。

しかし、春申君は李園の事を軽く見ていた為に、朱英の進言を取り下げています。

朱英は李園に逆恨みされると思ったのか、逃亡してしまいました。

そのうち楚の考烈王が亡くなるのですが、春申君の子だとされている幽王が即位します。

春申君は考烈王の葬儀に訪れたわけですが、の城門をくぐったところで、李園の雇った刺客により命を落としています。

李園の雇った刺客は、春申君の首を斬ると城外に投げ捨てたともされています。

この春申君の最後を見て司馬遷は「春申君老いたり」と評価しています。

若い頃は忠臣だったのに、老いて変な野望を抱くから、このような結末を迎えたと言っているわけです。

ここまでが、李園の有名な所なのですが、この後にどうなったのかは史記などには記載がありません。

しかし、戦国縦横家書に逸話が残っていました。

李園が機転を利かせて楚と魏を去らせる

楚の幽王は即位したわけですが、一説によると5歳だったともされています。

5歳の子供が政治を行うのは無理ですから、代わりに李園が楚の実権を握ったのでしょう。

紀元前235年にが四郡の兵を集めてを助けて楚を攻めたとあります。

尚、前年の紀元前236年は秦が鄴攻め(ぎょうぜめ)を行いを攻めています。

234年には桓騎が趙の平陽の戦いで、趙の扈輒を破り10万人を斬首しているわけです。

この当時の秦は趙を集中的に攻めたくて、魏と盟約を結んだのかも知れません。

魏は弱体化していましたが、秦との連衡により秦の力を背景に楚から土地を奪おうとした可能性もあります。

戦国縦横家書によると、秦の辛梧という将軍が魏と共に楚を攻めようとしたとあります。

4郡の兵を徴兵して準備をしていたわけです。

李園は秦に攻められては困りますから辛梧に楚を攻める損失を説く事にしました

かつて秦には、井忌という将軍がいて趙と共にを攻めて2城を抜きました。

燕の蔡鳥は、文信侯呂不韋に燕の河間の地である10城を賄賂として送ったのです。

これにより呂不韋は心変わりしてしまい、秦の矛先を燕から趙に変更してしまいました。

将軍だった井忌は燕を攻めた責任を取らされて秦で誅殺されています。

楚を攻めれば私が秦に賄賂を贈りますので、井忌の二の舞になりませんか?

あなた(辛梧)は、何もせずに出兵しなければ、秦と魏で重んじられる事でしょう。

この様に言ったとされています。

つまり、を攻めるのであれば、李園が秦に賄賂を贈りとの縁を切らせると宣言したわけです。

そうすると辛梧の立場は秦では微妙になって誅されると脅した事になります。

この後、辛梧がどのようにしたのかは分かりませんが、楚軍とは何もせずに帰ったか、李園と打ち合わせてパフォーマンスで少し戦った位のものでしょう。

秦は趙を攻めるのに夢中になっているわけで、魏に変な事を起こされたくないために同盟を結んだと思われます。

そのため、秦としても魏を本気で助ける気はなかったのではないかと個人的には考えています。

それでも、李園が見事に機転を利かせたエピソードです。

尚、井忌や蔡鳥などの人物は史記には登場しません。

ただし、放馬灘秦簡という秦末期の記録だと井忌という名前が見えますが、本人なのかは不明です。

李園の最後は?

李園の最後なのですが、史記などには記載がありません。

というか、戦国策にもありませんし、戦国縦横家書にも記載がないわけです。

ただし、楚の幽王が紀元前228年に亡くなっています。

まだ、年齢は若かったように思います。

幽王が死ぬと弟の哀王が即位する事になりました。

哀王の母親が李園の妹になるため、そのまま李園が実権を握ったのではないかと思われます。

しかし、哀王は即位して2カ月ほどで庶兄の負芻(ふすう)を擁立した国人達に殺されています。

幽王が春申君の子である噂話は当時からあったようで、を正当な血筋に戻すために負芻が哀王を殺害したと言う人もいます。

しかし、幽王は春申君の子である可能性はありますが、哀王は間違いなく考烈王の子でしょう。

そうでないと、李園の妹は王に献上された後も誰かと密通を続けていた事になってしまうからです。

しかし、負芻が乱を起こした時に李園は殺されてしまったのではないかと思われます。

記録がないので想像になりますが、李園は春申君の食客から成り上がった人物なので、周りからも妬まれていたのかも知れません。

さらに、李園が春申君を殺害してしまった事で、生活に困ってしまった春申君の食客たちもいた事でしょう。

信陵君が晋鄙を殺害して軍の指揮権を奪ってを助けに行った時に、信陵君は晋鄙の食客たちの恨みを買っていた話があります。

同じように李園が春申君の食客に恨みを買っていても不思議ではありません。

そのような輩を負芻が集めて暗殺を企てた可能性もあるでしょう。

尚、紀元前226年に秦の昌平君はに移った記録があるので、負芻の黒幕が昌平君だったのかも知れません。

ただし、昌平君黒幕説は信憑性に薄いとも感じます。

その後、項燕に敗れて負芻が捕らえられてしまったが、生き延びていた項燕が昌平君を楚王にしたが王翦蒙武に攻められて楚は滅亡した可能性もあるでしょう。

尚、余談ですがキングダムの李園を見ていると、春申君よりも大物に見えるのは気のせいでしょうか?

禍燐を宰相にしたりするなど、楚に亡命した廉頗に負けない位の大物感も見え隠れしていました。

記録が少ない楚の最後にあって、キングダムの作者原泰久さんがどのように描くのかも楽しみです。

あと、廉頗藺相如列伝の記事で廉頗は「一度は楚の将軍となったが功は立てなかった」とあります。

案外、廉頗を将軍に任命してみたのは、李園だったのかも知れませんね。

真実はは闇の中ですが・・・。

列女伝の記述(追記)

列女伝は前漢の劉向が編集した書物です。

名前から分かる様に劉向が古代から列女と呼ばれる人物を多数紹介しています。

その中に李園と妹の記述があります。

列女伝によれば李燕の妹の名前は李環だとする記述があります。

列女伝の中には、李園や李環の最後も描かれており、負芻は反乱を起こした時に殺害された事になっていました。

普通に考えれば李園も李環も負芻が即位した紀元前228年までには、滅ぼされたと考えるのが妥当だと感じています。

余談ですが、列女伝を記述した劉向は戦国七雄の遊説家の記録を書いた戦国策を編集した人物でもあります。

春秋戦国時代の「戦国」の名は、劉向の戦国策から来ている説も有力です。

李園は恩知らず?

歴史上を見ると妹が后になったりした為に出世した例は多いです。

三国志の何進などは、屠殺業で羊をさばいていた人だったのが、妹が霊帝に気に入られると出世して大将軍になっています。

そこら辺の肉屋のおっさんが大将軍になってしまったと言えるでしょう・・。

普通に考えれば、こんな人を大将軍にして大丈夫か?となるわけです。

何進ほどは酷くなさそうですが、同じような事が李園にもあったのかも知れません。

妹を使って出世してしまうと周りからは「能力もないくせに」とやっかみを受ける事もあったはずです。

そういう事を考えると李園は外戚として実権は握りましたが、政治運営は大変だったのかも知れません。

しかし、李園は春申君の食客だったにも関わらず、春申君を裏切っているわけです。

それを考えれば李園は恩知らずなのかな・・とも思えてきました。

三国志の董卓丁原を殺害してしまった呂布ほどじゃないと思いますけどね。

しかし、春申君の食客は3000人もいて春申君の仇を討とうと考える人は一人もいなかったのでしょうか?

史記などの話しだと春申君の食客は平原君の所よりも待遇が良かった話があります。

それなのに敵討ちをする人がいないのは寂しくも感じます。

春申君の食客は、どうも目立った活躍をした人がいない気がするのは気のせいでしょうか・・・。

逆に李園みたいな足を引っ張る奴がいたのは皮肉なものです。

尚、史記の設定だと考烈王は子供が出来ずに、悩んでいたとされていますが、「負芻がいるじゃん!」とツッコミを入れてしまったのは私だけではないでしょう。

負芻は余程嫌われていたか、庶兄ではなく考烈王の弟だったのかも知れませんね・・・。

詳しくは分かりませんが・・・。

楚王家に関しても系譜の謎は多いと感じます。

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