名前 | 曹寅(そういん) |
生没年 | 不明 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
コメント | 武陵太守になった記録がある |
曹寅は正史三国志の孫破虜討逆伝の注釈・呉録に記載がある人物です。
呉録の記述によれば曹寅は武陵太守になっていた事が分かります。
正史三国志の本文には荊州刺史の王叡が孫堅に対し礼に欠ける態度を行い、孫堅が王叡を殺害した話があります。
しかし、呉録を見ると王叡と孫堅だけの問題ではなく、武陵太守である曹寅も絡んでいた事が分かりました。
呉録を見る限りでは、王叡は曹寅の策により命を落とした部分も大きいと言えます。
今回は武陵太守になった記録がある曹寅を解説します。
尚、曹寅は曹姓であり、三国志最大の英雄である曹操と関わり合いがあるのでは?と思った方もいるかも知れません。
しかし、正史三国志を見ると曹寅と曹操の話はなく、数多くいる中の曹姓の一人だとする認識の方が当たっている様に思います。
王叡の挙兵
何進が宦官に殺害されると袁紹や袁術が宮中に乗り込みますが、この混乱を制したのが少帝と陳留王(献帝)を保護した董卓だったわけです。
しかし、董卓に関する反発も強く反董卓連合が結成されました。
こうした中で荊州刺史の王叡も反董卓連合として挙兵しています。
この時に曹寅は武陵太守をしていましたが、王叡と曹寅の仲が悪く険悪な空気が流れていました。
こうした中で荊州刺史の王叡は「手始めに王叡を殺害する」と宣言したわけです。
荊州刺史の王叡が曹寅を攻撃するのは確実であり、曹寅は危機に陥る事となります。
曹寅の策
こうした中で、曹寅は危機回生の策を考え出します。
この頃は王叡と孫堅の仲も上手く行っているとは言えず、王叡はこれを利用する事にしました。
王叡は案行使者・光禄大夫の温毅の檄文を偽作し、孫堅に送り届けたわけです。
曹寅の書いた偽書には王叡の罪状を述べ「王叡を処刑する様に」と書かれていました。
さらに、孫堅には王叡を処刑したら報告の文章を奉る様に記載があったわけです。
曹寅は孫堅に王叡を殺害してから、朝廷に報告させようとしたのでしょう。
孫堅は元から王叡を嫌っていた事もあり、曹寅の偽書を受け取ると直ぐに行動を移す事となります。
孫堅は王叡を追い詰め、王叡は最後に服毒自殺する事になりました。
王叡が亡くなった事で、曹寅は命拾いをしたとも言えます。
その後の曹寅
王叡が亡くなった後に、曹寅がどの様になったのかは分かりません。
王叡の後任ですが、劉表が荊州刺史となり荊州を治めました。
劉表の配下に劉先がおり、劉先は曹操の使者となった事があります。
曹操は劉先を荊州に帰す時に、武陵太守に任命しました。
これを考えると、劉表政権の途中か、何処かのタイミングで曹寅は武陵太守を退いたのでしょう。
それか、王叡に命を狙われたとは言え、温毅の名前を語っており、それが問題になった可能性もある様に思います。
さらに言えば、武陵の地は武陵蛮などの異民族もおり統治が難しい地域だったはずです。
曹寅が異民族統治に失敗し殺害された可能性もあるでしょう。
曹寅がその後にどうなったのかは記録がなく分かっていません。