昌豨(しょうき)は、臧覇を首領として孫観・呉敦・尹礼らと共に仕えていました。
昌豨のボスである臧覇は、呂布と組んで曹操と戦いますが、呂布が滅ぼされると臧覇らと共に、曹操に従う事になります。
しかし、後に昌豨は、曹操に5度も反旗を翻す事になります。
4度までは許されますが、5度目は于禁により処刑されたわけです。
昌豨が処刑された事を知った曹操は、その死を惜しんだ話もあります。
今回は、反逆に武将でもある昌豨を解説します。
因みに、昌豨は別名として昌覇とも呼ばれています。
正史三国志に昌豨の伝はありませんが、于禁伝、張遼伝、呂虔伝などに記述があります。
曹操に降伏
昌豨は、呂布の同盟者である臧覇の部下を孫観・呉敦・尹礼らとやっていたわけです。
呂布は董卓を殺害し、袁紹、張楊、劉備などの群雄の間を渡り歩きますが、198年になると下邳で曹操の大軍に囲まれる事になります。
曹操配下の荀攸や郭嘉の計略が成功すると、呂布配下である侯成らが裏切り、呂布も捕らえられる事になります。
この時に呂布、陳宮、高順などが斬られ、臧覇や昌豨は曹操に降伏しています。
曹操は降伏した昌豨を厚遇し、青州や徐州の一部の統治を任せられるなど、重用した話があります。
曹操から見れば、昌豨は見所のある人物だったのでしょう。
炅母に呼応する
曹操配下の呂虔は従事に取り立てられ、兗州山陽郡湖陸の守備を命じていました。
この時に、東海郡の襄賁校尉杜松の配下の炅母(けいぼ)が反乱を起こします。
炅母に呼応したのが、昌豨でした。
これが昌豨にとっては、二度目の曹操への反逆です。
曹操は呂虔に炅母の討伐を命じています。
この時に、呂虔は策を使い、炅母ら反乱軍の首謀者を酒宴に招き、呼び寄せた所で伏兵を使い、滅ぼす事になります。
ただし、呂虔は残った配下の者達には寛大な処置を行い、服従させた話があります。
尚、呂虔伝には、炅母を壊滅させた後の昌豨の記録はありませんが、後に曹操に帰順した所を見ると降伏して許された様に思います。
劉備に呼応
199年になると、劉備が下邳で曹操に背く事になります。
東海郡にいた昌豨は劉備に呼応し、曹操に対して反旗を翻しています。
昌豨にとっては、3度目の曹操への反逆です。
曹操は劉備に対して、劉岱と王忠に命じて討伐を任せますが、劉備に敗れています。
200年になると、曹操は自ら出陣し劉備を討伐しました。
魏略によれば、曹操の旗を見た劉備は関羽も妻もおいて、一目散に袁紹の元に逃亡した話があります。
劉備が敗れると、昌豨は再び曹操に帰順する事になります。
張遼の機転
曹操は官渡の戦いで、袁紹を破りますが、この直後である201年になると、昌豨が再び曹操に対して兵を挙げる事になります。
曹操は夏侯淵と張遼に命じて、昌豨を討伐させる事にしました。
これが4度目の曹操への反逆です。
夏侯淵と張遼は数カ月に渡って、昌豨を攻撃しますが、昌豨を撃破する事が出来ません。
軍糧が少なくなってきた事で、撤退した方がよいと言う意見も出ますが、張遼は夏侯淵に次の様に述べています。
張遼「数日、私は包囲陣の見回りをしていますが、昌豨はじっと私を見つめてきますし、矢を射かける事も稀となっています。
これは昌豨の考えがぐらついており、力の限り戦おうとはしないのです。
私が上手く昌豨の気を引く事が出来れば、昌豨を降伏させる事も出来ますし、見方に引き入れる事も出来るのかも知れません。」
張遼が使者を昌豨に送ると、昌豨は張良との会談を受託します。
昌豨が城を降りると、張遼は次の様に述べています。
「太祖(曹操)は神の如き武勇を持っており、徳義で四方を手懐け、すぐに帰順すれば大きな褒美を貰えるだろう。」
この言葉に、昌豨は心を動かし降伏する事になります。
張遼は昌豨の家に入り、妻子に挨拶し、昌豨は喜び曹操の元に出頭した話があります。
曹操は昌豨を帰らせますが、張遼には「これは大将のやり方ではない」と曹操に告げた話があります。
張遼は「昌豨を帰服させたのは、昌豨には大事を起こす勇気はないと判断したからです。」と答えています。
張遼が機転を利かせた部分もありますが、昌豨は4度も曹操と敵対し、4度許された事になるでしょう。
昌豨の最後
206年になると、曹操は冀州を平定しましたが、ここで昌豨が再び反旗を翻します。
この時に、曹操は昌豨を討伐する為に、于禁を派遣する事になります。
これが昌豨の五度目の曹操への反逆であり、最後の反逆です。
于禁は直ぐに軍を進め迅速に、昌豨を攻撃する事になります。
昌豨は于禁とは旧知の仲だったので、許されると判断し、于禁の元に出頭する事になります。
諸将は昌豨を曹操の元へ護送するべきだと主張しました。
しかし、于禁は次の様に述べています。
于禁「常令では、包囲を受けて降伏した者は許されないとある。
昌豨は旧友ではあるが、法令を破る訳にはいかぬ。」
于禁は昌豨に、別れを告げると涙を流し、昌豨を斬った話があります。
于禁が昌豨を斬るシーンは「泣いて昌豨を斬る」になるはずであり、諸葛亮が馬謖を斬った「泣いて馬謖を斬る」に似た様な感じもあったのでしょう。
これにより昌豨は命を落とす事になったわけです。
後日談ですが、曹操は昌豨に関して、次の様に述べています。
曹操「昌豨が降伏する時に、私の許ではなく于禁の所に行ったのは運命でしかない。」
この言葉から察するに、曹操は昌豨が降伏すれば許す意思があった事が分かります。
因みに、昌豨を斬った于禁は、ますます曹操に重用されます。
しかし、于禁は樊城の戦いへの救援の将となりますが、龐徳(ほうとく)が魏国の為に命を落とし、于禁は関羽に降伏した事で大きく評価を下げる結果となっています。
裴松之の非難
三国志に注釈を入れた裴松之は、于禁が昌豨を斬った事を下記の様に非難しています。
昌豨は確かに法律的には許されないが、囚人として曹操の元に昌豨を護送するのは、罪に問われない。
于禁は旧友である昌豨の万が一の幸運を期待する事もせずに、殺害し人々の意に逆らった。
最後に降伏者となり、于禁が悪い諡を与えられたのは当然の事である。
裴松之は于禁が昌豨を斬った行為は、思いやりに欠けると判断した様にも感じました。
尚、于禁の諡は厲侯であり、周の厲王の様な暗君だとされている人物に付けられる諡にされてしまったのは、当然だと裴松之は言ったわけです。
裴松之の考えでは、昌豨は処刑するべきではなく、諸葛亮が孟獲にやった様に、七縦七擒を実行させるべきだったと考えたのかも知れません。
後出師の表にも登場した昌豨
昌豨が後出師の表にも登場した話があります。
呉の政治家である張儼の黙記を引用した漢晋春秋では、次の様な文言があります。
曹操は五度に渡り昌豨を攻撃したが降す事が出来なかった。
後出師の表にも登場する事から、昌豨の話は当時から有名だったのではないか?と考えられています。
因みに、後出師の表は、第二次北伐の前に諸葛亮が劉禅に上表したとされています。
ただし、後出師の表は書いてあるのが、黙記のみであり信憑性に関して疑問を感じる人もいる状態です。
さらに言えば、于禁が昌豨を斬っているわけであり、降している事になるでしょう。