酒池肉林は贅沢を現わす意味がある故事成語です。
殷の紂王は妲己を喜ばせる為に酒の池と肉の林を作り、これが酒池肉林と呼ばれる様になりました。
史記の殷本紀に酒池肉林の話があり、これが世に広まり紂王=暴君にされてしまう原因でもあります。
酒池肉林は贅沢の代名詞にもなっていますが、史実の殷の紂王は決して怠惰な君主ではなかったと現在では考えられています。
現在では殷の紂王は残虐な刑罰をやめ祭祀を多く行い、軍事訓練にも積極的な君主だった事が分かっています。
殷の紂王の酒池肉林はあくまでも説話であり、現在では勝者側の周が自らの正統性をアピールする為の逸話だと考えられる様になりました。
実際の殷の紂王は真面目な人であり、酒池肉林を行うだけの時間的な余裕はなかったとも考えられています。
尚、夏王朝の桀王は浴びる程の酒を飲み末喜という女性と戯れ、酒と美女により国を滅ぼした事になっています。
夏の桀王は酒池肉林とは書かれていませんが、やっている事は酒池肉林であり、殷の紂王と同じパターンで滅んだ事になっています。
酒池肉林のあらすじ
酒池肉林の話ですが、詳しく書かれているのが司馬遷の史記の殷本紀となります。
史記によると殷王朝の最後の王である紂王は、妲己という女性を愛し溺れ政治は荒廃し佞臣が用いられる事になります。
殷の紂王は自らを諫めた比干、九侯、鄂侯を処刑し、周の姫昌を羑里に幽閉しました。
紂王は妲己を喜ばさる為に、多くの者を沙丘に集め豪遊し、酒を満たして池を作り、肉を林の様にし吊り下げ、男女を裸にさせ一晩中酒を飲み楽しみました。
多くの方がお気づきかと思いますが、殷の紂王が酒の池と肉の林を作った事で、酒池肉林の言葉が生まれました。
酒池肉林の宴会が一日で終わればよかったのですが、連日の様に続いたとされています。
殷の最高権力者である紂王が、この様な退廃的な生活をしていたら、当然の如く世は乱れる事になり、周の武王により滅ぼされました。
史記では殷の紂王は極めて能力が高い君主だったとされていますが、酒池肉林を行い徳を失い滅んだ事になっているわけです。
酒池肉林の意味
現在では酒池肉林は度が過ぎた贅沢の意味で使われる事が多いです。
贅沢の代名詞が酒池肉林だと言ってもよいでしょう。
ただし、男性が羨む行為として「酒池肉林」という意味で使われる事もあります。
それでも、贅沢を戒める意味で酒池肉林の話は使われる事も多く、良い言葉ではないと考える人が多いようです。
殷の紂王は酒池肉林を行ってはいなかった
最近の研究では殷の紂王は酒池肉林をするなどの遊び惚けていた様な君主ではなく、極めて真面目な君主だという事が分かってきました。
それにも関わらず、殷の紂王が暴君だとされてしまうのは、歴史の勝者である周が紂王は暴君だったと喧伝したと言うのが大きいのでしょう。
周の康王の時代の金文には「殷の人々は皆が酒に溺れたから国が滅んだ」とするものがあります。
ここから分かるのは周の康王の時代には既に「殷が酒で滅んだ」と解釈されており、しかも酒に酔っていたのは紂王だけではなく殷の人々という事になっています。
戦国時代末期の韓非子でも紂王が肉の畑と酒の池を作り、炮烙の刑を実行し酒糟で作った丘の話があり、戦国時代の末期には殷の紂王の酒池肉林の話が伝わっていた事が分かるはずです。
戦国時代の末期には殷の紂王一人の個人的な荒廃した生活により、殷は滅んだとも考えられていたとみる事が出来ます。
さらに、前漢の武帝の時代の司馬遷の史記により、酒池肉林伝説は完成したと言えるでしょう。
しかし、紂王の時代の甲骨文を見ると、殷の紂王は祭祀に熱心な人物であり、狩りも2日に1回のペースで行おうと予定を立てていた事も分かってきました。
狩りを行ったと言えば遊んでいた様に思うかも知れませんが、軍事訓練の意味もあり、重要な事だったわけです。
殷の紂王の祭祀や狩りのスケジュールを見る限りでは、過密日程が組まれており、とてもじゃないが酒池肉林を行っている余裕はないと考えられる様になってきました。
確かに、殷の紂王は即位7年目に首都近辺の盂が反旗を翻し、盂の反乱は何とか鎮圧しましたが、殷王朝はボロボロになったとされています。
盂が反乱を起こす辺りは、殷の紂王の政治のバランス感覚を問われる部分ではありますが、決して酒池肉林を行った事で国が傾いたという事はないでしょう。
盂の反乱で致命的な打撃を受けた殷に対し、周が諸侯の受け皿となり勢力を高め殷を倒してしまったと言うのが実情だと考えられています。
周は殷の一諸侯でしたが、殷を滅ぼしたとなれば主君を弑逆した事になり、自らの正統性を立てる為に、殷の紂王を暴君として貶める為に、酒池肉林の話を考案したのは確実でしょう。
甲骨文を見る限りでは妲己なる女性も登場せず、妲己自体が架空の人物だと考える事が出来ます。