名前 | 武田信武 |
生没年 | 1292年ー1362年 |
時代 | 鎌倉時代ー南北朝時代 |
主君 | 足利尊氏 |
一族 | 父:武田信宗 子:武田信成、氏信 |
コメント | 甲斐守護に任命される |
武田信武は安芸国の守護でしたが、足利尊氏に従い様々な戦いで功績を挙げています。
安芸が本拠地でしたが、武田信武は本拠地の安芸を離れほぼ足利尊氏に従い各地を転戦しました。
四条畷の戦いでは楠木正行とも互角に戦った記録も残っています。
武田信武は武勇に優れているだけではなく武家故実にも詳しく文武両道の武将です。
足利尊氏は武田信武を信頼し武田氏の惣領となり、甲斐守護にも任命されました。
ただし、甲斐には殆ど行った形跡がなく息子の武田信成が代官となり、甲斐の地を治めています。
武田信武は足利尊氏に最後まで付き従い亡くなった時は出家するなど、忠義の臣だとも言えるでしょう。
因みに、戦国時代の武田信玄や勝頼は有名ですが、武田信武や信成の子孫でもあります。
武田信武の動画も作成してあり、この記事の最下部から視聴する事が出来ます。
安芸武田氏
武田氏は源義光が開祖となり甲斐に勢力を根付かせました。
多くの方が知っている様にこれが甲斐の名族となるのが武田氏です。
治承・寿永の乱では源頼朝に味方し功績を挙げた事で武田信光が安芸守護に任じられました。
安芸守護に任命された武田信光の子孫が武田信武であったと言えるでしょう。
話の流れから分かる様に武田信武が所属する安芸武田氏は甲斐武田氏の分家となります。
武田氏と足利氏の関係
甲斐国志の生山系図によれば、信武の妻の一人が足利高義の娘となっています。
足利高義は足利尊氏や直義の異母兄にあたり、一時は足利家の当主となっています。
尊氏や直義の母親は上杉氏出身ですが、足利高義の母親は鎌倉幕府重鎮の金沢顕時の娘である釈迦堂殿となります。
甲斐国志の記述にある様に武田信武の妻の一人が足利高義の娘であれば、足利氏と安芸武田氏は、かなり近しい関係にあったと言えそうです。
足利尊氏の妻は北条氏と近しい関係にある赤橋登子ですが、赤橋登子の後見人になった女性が金沢尼公であり、金沢尼公が武田信武の妻だとする説があります。
因みに、武田信武自身も金沢氏と近しい関係にあり、金沢貞顕の書状に二階堂行珍(二階堂行朝)と武田信武に酒を勧めた話が残っています。
武田信武の嫡男である武田氏信の烏帽子親になったのが、足利貞氏であり、貞氏の「氏」は足利貞氏の名前に由来があると考えられています。
さらに、武田信武は足利一門ではないのに、配下の武士に所領給付を行った話もあり、単なる外様守護といった扱いではなかったのでしょう。
安芸守護・武田信武
武田信武は元弘の変では最初は鎌倉幕府側として戦った事が分かっています。
しかし、後醍醐天皇の建武の新政では安芸守護に任命されており、何処かのタイミングで朝廷軍に寝返ったのではないかと考えられています。
中先代の乱が勃発すると安芸の軍勢を率いて足利尊氏に味方しました。
武田信武の太平記での描写は極めて少ないですが、実際の武田信武は尊氏に忠義を尽くし多くの功績を残していた事が分かっています。
足利尊氏に合流
足利尊氏は中先代の乱で鎌倉を占拠した北条時行や諏訪頼重を破り鎌倉を奪還しました。
後醍醐天皇は足利尊氏を朝敵認定し、新田義貞を派遣しますが、箱根竹ノ下の戦いで勝利し、そのまま京都に向かって進撃してきたわけです。
足利尊氏が建武政権から離脱した時に、武田信武は安芸にいましたが、足利尊氏に呼応し熊谷蓮覚の矢野城を陥落させています。
矢野城を陥落させた武田信武は足利尊氏に合流する為に兵を率いて京都に向かいました。
武田信武は近江で足利尊氏と合流する事になります。
八幡山の戦い
近江で足利尊氏と合流した武田信武ですが、粟田口を突破し法勝寺で戦い、西坂本を守り八幡山に入る事になります。
八幡山の戦いで武田信武は奮戦しますが、後醍醐天皇の要請により奥州の北畠顕家が上洛してきました。
奥州軍の到来は戦況を一変させ新田義貞や楠木正成により反撃が始り、足利尊氏は西宮、豊島河原で戦いに敗れ、赤松円心の言葉もあり九州に逃れる事になります。
武田信武は八幡山から退き、暫くの間は行方が分からなくなります。
再起
足利尊氏は少弐頼尚の支援により多々良浜の戦いで菊池武敏を撃破し、九州の諸将を味方に付けました。
短期間で多くの兵を動かせる様になった足利尊氏は一色道猷を後方の抑えとして上洛戦争を起こし、湊川の戦いで新田義貞を敗走させ楠木正成を討ち取っています。
武田信武も足利尊氏に呼応し摂津の吹田城を陥落させ、高師泰と共に桂川などで四条隆邦と戦い、醍醐や宇治を制圧しました。
足利尊氏は持明院統の光明天皇を即位させ光厳上皇を治天の君とし、比叡山にいた後醍醐天皇とは和議を結んでいます。
この間に、武田信武は足利尊氏から八幡路の警護を命じられています。
武田信武は足利尊氏にとって信頼できる臣下だった事でしょう。
後醍醐天皇が吉野で南朝を開く事になり、室町幕府の北朝と後醍醐天皇の南朝で南北朝時代が始まりました。
奥州軍との戦い
1338年になると、後醍醐天皇の要請に従い奥州の北畠顕家が再び上洛戦争を起こす事になります。
北畠顕家は青野原の戦いで土岐頼遠ら幕府軍を破りますが奥州軍も疲弊しており、黒血川に布陣した高師泰との決戦を避けて伊勢方面に向かいました。
この時に武田信武は高師泰と共に奥州軍の追撃を行い伊勢の雲津川で奥州軍と戦った話があります。
奥州軍は大和に入りますが、武田信武らは京都に戻り大渡・山崎を守備する事になります。
大渡や山崎は京都の入り口とも呼べる重要拠点であり、幕府首脳部からの武田信武の信頼度の高さがわかるはずです。
室町幕府では北畠顕家の動きに対処する為に、高師直を出陣させますが、この中には武田信武の姿もありました。
幕府軍は石津の戦いで北畠顕家や南部師行を討ち取る事になります。
この時に石清水八幡宮に北畠顕信が籠城していましたが、高師直と共に陥落させました。
1338年は北畠顕家だけではなく、北陸で新田義貞も戦死しており、南朝の有力武将が立て続けに世を去っています。
1339年には後醍醐天皇も崩御し、後村上天皇が即位しますが、南朝の脅威は激減したわけです。
こうした中で武田信武は伊予や石見に出陣し南朝の軍と戦いました。
1341年に石見に出陣したのは足利直義の命令であり、新田義氏の討伐を行いましたが、実際に討伐を行ったのは子の武田氏信だった事も分かっています。
武田氏惣領
これまで見て来た通り武田信武は多くの戦いに参加し功績を挙げ続けていました。
武田氏一族の中でも功績は抜群であり、武田氏惣領となり伊豆守の受領名を名乗る様になります。
多くの軍功と足利尊氏からの評価も高さもあり伊豆守を名乗ったのでしょう。
伊豆守は武田氏惣領の証ともする見解もあります。
尚、武田信武は太平記でも武田伊豆守の名前でも登場しています。
武田信武と楠木正行
楠木正行は室町幕府でも名が通った武将である細川顕氏や山名時氏を相手に連勝しました。
幕府では楠木正行を警戒し高師直を出陣させていますが、この中には武田信武の姿もあった事が分かっています。
高師直との間に四条畷の戦いが勃発しますが、太平記には武田信武と楠木正行の軍が戦った話があります。
楠木正行は幕府軍1番手の白旗一揆を破る活躍を見せますが、2番手として登場したのが武田信武となります。
武田信武は楠木軍が白旗一揆との戦いで疲労があると判断し、700の兵で攻撃を仕掛けました。
これに楠木軍の第二陣の千ほどの軍が迎え撃ち包囲しようとしますが、武田信武の軍も奮戦し7,8度ほど混戦を繰り広げています。
この戦いで武田軍の多くが討たれてしまいますが、楠木軍も負傷した者が多く兵を引いています。
この後に楠木正行は総大将の高師直を目指し突き進み、佐々木道誉が策を巡らすなどもあり幕府軍の勝利に終わりました。
南北朝時代の南朝の名将というべき楠木正行と互角に戦った武田信武の采配も見事なものだったはずです。
尚、楠木正行が世を去ると高師直は一気に南朝の総本山である吉野に兵を向け、後村上天皇は賀名生に避難しました。
高師直の吉野侵攻に武田信武も同道しており金剛山の東で南朝の軍と戦ったりもしています。
将軍の直轄軍
これまでの武田信武の動きを見ていると、本国である安芸には一切戻らずに、近畿で戦い続けている事が分かるはずです。
この事から武田信武の軍は京都に駐留していたのではないかとされています。
これらの事から武田信武の軍は将軍の直轄軍の様な立場だったのではないかと考えられています。
名将として高師直や高師泰は名が通っていますが、武田信武の活躍も大きかった事でしょう。
さらに、建武の乱からの武田信武が配置された場所は、八幡や山崎であり重要拠点でもあります。
重要拠点に武田信武が配置される辺りは、足利尊氏から槍働きを評価されていたからでしょう。
観応の擾乱
室町幕府の中で執事の高師直の発言権が増大し、足利直義と対立するに至りました。
足利直義は尊氏の許可を取り高師直を解任しますが、高師直は御所巻を行い幕政復帰しました。
逆に足利直義が失脚しますが、足利尊氏と高師直が九州の足利直冬討伐に向かうと、挙兵し南朝に降る事になります。
足利直義は打出浜の戦いで足利尊氏と高師直を破りますが、後に足利義詮との対立により関東に出奔しました。
足利尊氏は南朝に降伏し東海道に進撃しますが、この軍の中に武田信武がいたわけです。
甲斐守護となる
足利直義が出奔し足利尊氏が関東へ出陣する間くらいの時期に、武田信武が甲斐守護に任命された事が分かっています。
足利尊氏は関東に遠征するわけであり、自らの腹心である武田信武を甲斐の守護に任命しておいたのでしょう。
尚、元の甲斐武田氏に関しては南朝に味方した事で弱体化したとも、甲斐武田氏の武田政義が守護代と対立した事で滅んだとも考えられています。
足利尊氏はこうした事情もあり甲斐守護を腹臣の武田信武にした可能性もあります。
ただし、武田信武は任地である甲斐には殆ど行かず、子の武田信成が甲斐に赴いています。
武田信成の子孫が戦国時代に武田信玄を輩出する事になります。
尚、足利尊氏は観応の擾乱の最終決戦で足利直義に勝利していますが、富士河原・蒲生河原での戦いで安芸の軍勢を率いた武田信武だけではなく、甲斐の軍勢を率いた武田信成も参戦していた事が分かっています。
観応の擾乱は足利尊氏が勝者となり、鎌倉公方に足利基氏、関東執事に畠山国清が任せられるなど、薩埵山体制が形成されていく事になります。
武蔵野合戦
多くの犠牲を出しながらも観応の擾乱は終わりましたが、関東では新田義興、新田義宗、北条時行ら南朝の武将が挙兵しました。
さらに、直義派の上杉憲顕も南朝の武将として参戦しています。
関東での足利尊氏と南朝の戦いを総称して武蔵野合戦と呼びます。
武蔵野合戦では当然ながら、武田信武の姿もありました。
武田信武は人見原の戦いや小手指原の戦いに参戦しています。
武蔵野合戦では板垣、一条、逸見などの甲斐源氏の名前が多くあり、尊氏軍の重要な戦力となっていたのでしょう。
武蔵野合戦では一時は鎌倉を占拠されるなどもありましたが、足利尊氏が巻き返し勝利しました。
ここでも武田信武は活躍しています。
武蔵野合戦が行われた時期に近畿地方では後村上天皇や北畠親房の意向により正平の一統を破棄し、京都を攻撃し足利義詮を駆逐しています。
この時に南朝は北朝の皇族を拉致し、直ぐに京都を奪還した足利義詮は後光厳天皇を三種の神器もない状態で即位させました。
後光厳天皇の即位は天皇を指名する上皇も不在であり、現代にまで遺恨を残す事になります。
足利尊氏は関東を足利基氏を頂点とする体制を作り、近畿に戻りますが、武田信武も同行しました。
近畿に戻ってからも武田信武は南朝の軍と戦い続けた事が分かっており、足利尊氏を支え続けています。
武田信武の最後
主君である足利尊氏は足利直冬との戦いである東寺合戦の後に世を去りました。
足利尊氏は1358年に亡くなったわけですが、この時に武田信武は出家をし、次の歌を詠みました。
戎光祥出版・南北朝武将列伝北朝編383頁より
梓弓もとの姿は引かへぬ入べき山のかくれ家もなき
武田信武は足利尊氏の死を悼んだわけです。
足利尊氏の死から4年後の1362年に武田信武は亡くなりました。
武田信武の墓は法泉寺にあり、法泉寺には武田氏の最後の当主である武田勝頼の菩提寺でもあります。
名前 | 住所 | 電話番号 |
法泉寺(甲府観光ナビ) | 山梨県甲府市和田町2595 | 055-252-6128 |
文化人でもあった武田信武
天龍寺建立
武田信武の生涯を見ると戦いの連続であり、槍働きだけの人の思うかも知れません。
しかし、武田信武は武家故実に通じた人物として足利尊氏に重用されています。
足利尊氏は後醍醐天皇の死を悼み天龍寺を建立しました。
天龍寺供養が行われるわけですが、足利尊氏と直義は源頼朝の東大寺供養に従い数百騎の武士と共に天龍寺に向かいました。
行列が余りにも豪勢であり道には人が溢れ北朝の光厳上皇も密かに見物したほどです。
武田信武は天龍寺供養では隋兵の先頭となり、次位に小笠原政長がいました。
武田信武と小笠原政長は武家故実に精通しており、儀礼用の具足を所持していた為と言われています。
武田菱の籠手と脛当
武蔵野合戦が終わった足利尊氏は後光厳天皇の要請に従い鎌倉を出立し京都に戻る事になりました。
ここで足利尊氏は源頼朝が上洛した時の様に、威儀を整えようとしますが、籠手と脛当が無く困っていたわけです。
足利尊氏は武田信武が武家故実に精通した人物だと思い出し、信武に使者を派遣しました。
武田信武は武田菱が入った百壇磨きの籠手を脛当を献上し、足利尊氏は多いに喜びました。
喜んでいる尊氏を見て饗庭命鶴丸が「この具足は保元・平治の頃の田舎の「イカ物猿楽」に過ぎない代物」と述べて酷評しますが、尊氏は意に介さず「お前は故実を知らない」と述べた話があります。
足利尊氏は武田信武から借用した籠手などを身にまとい後光厳天皇に謁見し、退出した後には「鎌倉を出発した後に籠手と脛当の用意が出来ていなかったら困る所だった」と述べた話があります。
足利尊氏が如何にして武田信武を信頼していたのかが分かる話でもあります。
それと同時に武田信武が優れた教養を持った人物だという事が分かるはずです。
武田信武は決して槍働きだけの人物ではありません。
故実にも精通した文武両道の武将だと言えるでしょう。
武田信武の動画
武田信武のゆっくり解説動画となっています。
この記事及び動画は戎光祥出版の南北朝武将列伝北朝編をベースに記載しました。