名前 | 屠岸夷 |
生没年 | 生年不明ー紀元前645年 |
時代 | 春秋時代 |
勢力 | 晋 |
屠岸夷は晋の大臣であり、里克や丕鄭の命令で翟にいる重耳を晋君にする為に使者となった人物です。
重耳は屠岸夷の話を狐偃にしますが、狐偃が反対した事もあり実現しませんでした。
尚、蒲城午は紀元前645年の韓原の戦いで亡くなった話もあります。
東周列国志では重耳と夷吾の人間性を調べた秦の公子縶の話と重なり、ドラマチックな最後となっています。
使者となる
晋の献公が亡くなると、里克と丕鄭は反旗を翻し、後継者の奚斉を殺害しました。
さらに、驪姫や卓子なども殺害し、驪姫の息が掛かった者達を殲滅したわけです。
ここで晋の献公の公子のうち誰かが、晋君に即位する事になるのですが、諸公子は驪姫の危害が及ぶ事を恐れ、国外に逃亡していました。
里克と丕鄭は声望もある重耳を晋の君主にしようと考え、説得の為の使者を派遣します。
この使者となった人物が屠岸夷です。
屠岸夷は翟に到着すると、重耳に次の様に述べました。
屠岸夷「今の晋国は乱れ民は不安に思っています。
しかし、動乱とは国を得る機会でもあります。
不安定な民ほど支持を得るのは簡単であり、我々が貴方様の為に道を開きましょう」
屠岸夷の言葉を見るに、晋君になれるという利益を以って重耳を誘った事になります。
重耳の方も心が揺れた様ではありますが、狐偃と相談した結果として、屠岸夷の誘いに断りを入れています。
重耳の集団は徳が根本にあり、利益を以って誘うのは悪手だった様にも感じました。
しかし、狐偃は重耳が晋君になるには機が熟していないと思っていた節もあり、断らせた可能性もあるでしょう。
重耳の方でも亡命したかと思ったら「いきなり晋君になれる」という屠岸夷を怪しんだ様にも見えました。
重耳は受けず
重耳は断りを入れるわけですが、屠岸夷に次の様に述べました。
重耳「貴方は出奔して、晋の国内にいない私にわざわざ会いに来てくれたが、私は父の晋の献公に、生前は仕える事が出来なかった身だ。
父が亡くなってからも喪に服す事も出来ないでいる。
この罪は重い。
大夫(屠岸夷)が苦労してここまで来てくれた事は嬉しく思うし、感謝も気持ちもある。
しかし、晋の君主として立つ事は出来ない。
国を安定させる事が出来る者は、民衆と親しみ隣国とは善を以って付き合う事が出来る者である。
民衆の利益となり隣国の後押しを得た者に、晋の大臣達は従うべきだと思う。
私は民衆の心に背くような事は出来ない」
重耳は自分は「晋の君主に相応しくない」と述べ、屠岸夷にきっぱりと断りを入れたわけです。
重耳の意思は固かった様で、屠岸夷も諦めて秦に帰りました。
この後に、秦の穆公の後推しを得た晋の恵公が、晋の君主として即位しています。
尚、屠岸夷は重耳を説得する事が出来ませんでしたが、里克や丕鄭は晋の恵公の禍があったわけです。
それを考えると、屠岸夷が重耳を説得出来なかった事で、里克と丕鄭の命運は尽きたとも言えるでしょう。
重耳は紀元前636年に19年の亡命生活を終え、晋の文公として即位しますが、この時には屠岸夷は既に亡くなっており、見る事が出来ませんでした。
屠岸夷の死は紀元前645年だと伝わっています。