
趙の烈侯は春秋戦国時代の趙の当主です。
この時代は魏の文侯の全盛期でもあり、魏の文侯の要請により趙の烈侯や韓の景侯も協力し、斉を討伐するなどしました。
三晋連合による斉の討伐が終わると、功績により周の威烈王から魏、趙、韓は諸侯として認められる事になります。
趙の烈侯の時代から趙は諸侯として正式に認められました。
史記では公仲連との逸話も掲載されており、人の良さが伺える人物でもあります。
趙の烈侯の時代の出来事
史記の趙世家によると、即位元年に魏の文侯が中山国を討ち、太子撃(魏の武侯)に守備させたとあります。
趙の烈侯の時代の主役は魏の文侯であり、呉起を任用し秦から河西の地を奪い終わっており、勢いがあったと言えるでしょう。
史記の趙世家には記録されていませんが、紀元前404年に魏、韓、趙は斉を討ち大勝しました。
この戦いで魏の文侯は正卿の立場で晋の烈公を奉じ、周の威烈王の命令で、斉を攻めたわけです。
趙の烈侯としてみれば、魏の文侯の動きは目障りではありましたが、趙と斉は隣接国であり、共に衛を攻略しようと狙っていた間柄でもあり、出兵に関してはしやすかった可能性もあります。
三晋連合軍は斉に大勝し、紀元前403年に魏、韓、趙は褒美として、周の威烈王から諸侯として認められました。
趙の烈侯は諸侯として認められると、父親の趙の献侯に「侯」の身分の追諡を行っています。
趙の烈侯の末年である紀元前400年に、魏、韓、趙の三晋連合は楚を攻撃しました。
三晋連合は楚との戦いでも兵を出していますが、北方にある趙にとっては、楚は隣接国でも無く、楚への出兵はメリットが少なかったはずです。
しかし、晋の烈公や周の安王を奉じる、魏の文侯の命令に断る事が出来なかったのでしょう。
紀元前400年に趙の烈侯が亡くなっていますが、後継者は太子の趙章ではなく、弟の武侯が後継者となりました。
趙の烈侯と公仲連
史記に趙の烈侯と相国の公仲連の逸話が掲載されています。
趙の烈侯は音楽を好み、相国の公仲連に鄭の歌人である槍と石の二人に「田1万畝を与える様に」と命じました。
公仲連は「分かりました。」とは言いましたが、理由を付けて槍と石の二人に、田を与える事はなかったわけです。
公仲連は歌人らに領地を与えるつもりはなく、最終的に病気と称して参内しなくなりました。
この時に番吾の君が「牛畜、荀欣、徐越の三名を推挙する様に」と公仲連に進言しました。
再び公仲連が参内すると、趙の烈侯は槍と石の土地の事を訪ねますが、公仲連は牛畜、荀欣、徐越の三名を推挙する事になります。
趙の烈侯は牛畜、荀欣、徐越の話に感化され、重用しました。
それと同時に、公仲連には「歌人たちの土地の話は保留にする様に」と命じました。
趙の烈侯の愚鈍さと同時に、人柄の良さも分かる逸話になっていると感じた次第です。
「朱に交われば赤くなる」に通じる逸話でもあります。
| 先代:献侯 | 烈侯 | 次代:武侯 |