貂蝉(ちょうせん)は三国志演義から出た、架空の人物だと思っている人が多い様に思います。
しかし、貂蝉の名前は民間伝承である三国志平話で、既に名前が登場していた事が分かっています。
現在の三国志演義の貂蝉は、王允の養女であり、王允への恩を返す為に、董卓と呂布の仲を裂いた『孝』の精神を持った女性として描かれているわけです。
しかし、物語によっては貂蝉は不貞な悪女であり、最後は関羽に斬られる話なども存在しています。
さらに言えば、貂蝉はブスだったとする話まであります。
今回は中国四大美女の一人に数えられる事もある、様々な貂蝉を時代背景などと共に解説します。
尚、貂蝉は映画『新解釈・三国志』では、渡辺直美さんが演じた事でも有名になっています。
貂蝉の動画
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貂蝉と同じく女性キャラの董白の生意気さがよく出ている動画でもあります。
正史三国志の貂蝉
正史三国志には貂蝉のモデルになったと考えられる女性が登場します。
貂蝉が呂布と密通
正史三国志の呂布伝に下記の記述が存在します。
「呂布は董卓の侍女と密通し、露見するのを恐れ落ち着かなかった。」
上記の記述を見ると「呂布と董卓の侍女」が密通した事が書かれており、この侍女こそが貂蝉のモデルだと考えられています。
呂布は董卓に殺されかけた事もあり、同郷で司徒の王允に悩みを打ち明ける事になります。
王允は既に董卓暗殺計画を考案しており、呂布を仲間に引き入れる事となり、呂布は董卓を殺害したわけです。
史実を見ると、貂蝉のモデルになった女性が、呂布と董卓を仲違いさせる様な描写はありません。
単に呂布と董卓の侍女が密通し、呂布が董卓にバレたら不味い事になると、焦りを憶えた位の記述しかないわけです。
三国志演義同様に史実の呂布も、董卓の侍女に手を出しているわけであり、素行に問題があったとも言えるでしょう。
尚、正史三国志で呂布が手を出した、董卓の侍女の名前に関する記述は存在しません。
下邳の戦い
正史三国志の注釈である英雄記によれば、198年の下邳の戦いで、呂布は曹操に追い詰められ、自ら馬に乗り娘を袁術に届けようとしました。
しかし、呂布は曹操の見張りの兵に見つかってしまい、娘を袁術に届ける事は出来ませんでした。
この後に、呂布は下邳城を陳宮と高順に任せて、自ら曹操軍の糧道を断とうとしますが、これに反対したのが呂布の妻です。
呂布が城から出る事を心配した呂布の妻ですが、下記の言葉が残されています。
呂布の妻「私は昔、長安にいましたが、将軍(呂布)に置き去りにされた事がありました。
幸いにも龐舒が私を匿ってくれた事で、難を逃れる事が出来たのです。」
正史三国志を見ると、呂布の妻が「長安で呂布に置き去りにされた。」と述べているわけです。
これを見ると、呂布の妻が長安にいた事が分かります。
この長安で呂布に置き去りにされ、龐舒に助けられた女性が貂蝉となるのではないか?とする話もあります。
三國志演義で貂蝉が董卓や王允が殺害された後も、死なずに生き残っているのは、英雄記の呂布の妻の言葉があったからの様に感じます。
これらが、正史三国志での貂蝉らしき女性の記述となります。
三國志演義の貂蝉
三國志演義の貂蝉は、王允への恩を返す為に、董卓と呂布の仲を裂くために動く存在となっています。
貂蝉の生い立ち
貂蝉は幼い頃に両親を失い、孤児として市場で売られていました。
後漢王朝の司徒となる王允は、貂蝉を買い取り引き取ったわけです。
これにより貂蝉は王允の屋敷に入る事になります。
王允は貂蝉を養女にして、歌や舞などの手ほどきを憶えさせ、可愛がる事になります。
貂蝉は16歳になると優れた容姿を持ち、優れた歌妓を持った女性に成長しました。
貂蝉は自分をここまで育ててくれた王允に対し、感謝の念を持つ様になります。
王允の恩に報いる
董卓が少帝を廃し、献帝を即位させるなど、後漢王朝の実権を握ると、王允は危機感を持ちます。
王允は董卓を排除しようと考え、七星刀を曹操に与え、曹操は董卓を暗殺しようとしますが、失敗に終わります。
王允は悩みますが、王允を見た貂蝉は次の様に述べています。
貂蝉「私は王允様から深い情けを掛けて頂き、様々な芸を憶えさせてくれました。
王允様は私を実の娘の様に可愛がり、礼をもって私の面倒を見てくれています。
私に出来る事があれば、死ぬことも厭いません。」
貂蝉は王允に対し、育ててくれた恩を感じており、何かに役立ちたいと自分から述べたわけです。
王允はこれにより、連環の計を貂蝉に授け、貂蝉は董卓と呂布の仲を裂くために動く事になります。
王允が貂蝉に授けた連環の計は美女連環の計とも呼ばれ、同じく三国志演義の赤壁の戦いで、龐統が曹操に使った連環の計と分けられる事も多いです。
董卓と呂布の仲を裂く
王允は呂布を自邸に招き貂蝉を紹介します。
呂布が貂蝉に夢中になった事を見た王允は呂布に対し「貂蝉を側室として嫁がせる」と約束します。
数日後に王允は董卓を自邸に招き、董卓が貂蝉を気に入ると「侍女として献上する。」と述べて、直ちに送り届けました。
呂布は貂蝉が董卓の侍女になった事を知ると、怒って王允に詰め寄ります。
王允は呂布に対し「董卓は自分の手で、貂蝉を呂布に嫁入りさせると言い連れ帰った。」と述べたわけです。
呂布は納得し帰りますが、翌日に董卓と貂蝉が一緒に休んでいる事を知ります。
呂布は驚き奥に入りますが、貂蝉は悲しみの表情を浮かべており、呂布の心は揺れます。
董卓が病気になった時は、貂蝉は健気に看病をし、呂布の前では涙を見せました。
董卓は貂蝉を気に入り、呂布は董卓が無理やり貂蝉を自分の侍女にしたと考え、呂布の心はかき乱されます。
董卓が政務を行っている最中に呂布は貂蝉に会うと、貂蝉は呂布に対し次の様に述べています。
貂蝉「当代随一の英雄と思っていた将軍が、董卓の言いなりになっておられるとは。」
貂蝉の言葉に呂布は心に火を灯しますが、董卓が呂布と貂蝉が親しげにしている所を見てしまいます。
董卓は呂布に対し矛を投げつけました。
董卓にとってみれば、呂布が自分の女に手を出している様にしか見えなかったのでしょう。
李儒の葛藤
董卓の参謀でもある李儒は、董卓と呂布が貂蝉で揉めている所を冷ややかに見ていました。
李儒はこのままでは、董卓が滅びると考え、董卓に貂蝉を呂布に与える様に説得しています。
李儒が巧みに意見を述べた事で、董卓も納得し貂蝉を呂布に嫁がせようと考えます。
しかし、董卓が貂蝉を呂布に嫁がせ様とすると、貂蝉は次の様に述べます。
貂蝉「呂布の元に行く位なら死んだ方がマシです。」
これにより董卓は、呂布に貂蝉を嫁がせるのを止めさせたわけです。
李儒には貂蝉により、呂布と董卓の仲が破滅に追いやられると悟り、天を仰ぎ次の様に述べています。
李儒「我等は女の手に掛かって全員が死ぬ事になるのか。」
李儒は嘆きますが、李儒の予感は的中する事になります。
呂布が董卓を殺害
呂布や董卓が貂蝉の事で嫉妬に燃え上がる中で、王允は呂布に董卓暗殺計画を打ち明けます。
王允が作った偽詔で董卓を呼び出し、呂布に暗殺させたわけです。
さらに、李儒も捕らえられて処刑されています。
これで貂蝉は呂布に嫁ぎハッピーエンドとは行きませんでした。
董卓配下の李傕、郭汜らは、賈詡の進言により、王允らがいる長安に攻め上ってきたわけです。
これにより王允は殺害され、呂布と貂蝉は逃亡生活を送る事になります。
その後の貂蝉
貂蝉は呂布の側室となりますが、存在感は無くなっていきます。
貂蝉の見せ場と言えば、下邳の攻防戦において、呂布の正妻である厳氏と共に呂布の出陣を引き留めた位です。
普通に考えれば下邳が陥落した時に、貂蝉も捕らえられたと思いますが、その後の記録がありません。
下邳の戦い終了後は、陳宮の最後を曹操が泣きながら見送り、高順が斬られ、張遼が呂布を叱責するなどのシーンもありましたが、貂蝉に出番はないわけです。
三國志演義で呂布の最後は描かれましたが、董卓の最後で強烈なインパクトを残した、貂蝉の最後のシーンは描かれませんでした。
三國志演義では貂蝉の役目は、董卓が亡くなった所で終わっていたとも言えるでしょう。
様々な貂蝉
物語によって貂蝉の設定は変わっており、様々な貂蝉を解説します。
三國志平話の貂蝉
貂蝉は明の時代に出来た三国志演義のオリジナルキャラクターに思うかも知れません。
しかし、明の時代に出来た三國志平話には、既に貂蝉が登場していた事が分かっています。
王允は悩みながら歩いていると、香をたきながら想いに耽ける女性を見つけます。
王允は女性に声を掛けると、次の様に述べています。
貂蝉「私の夫は呂布であり、私の姓は『任』、幼名を『貂蝉」と申します。
夫の呂布と離れ離れになってしまい、夫との再会を祈っていたのです。」
貂蝉は王允の屋敷で世話になり、董卓とも関係を持ちました。
三国志平話では、この後の董卓と呂布の話はほぼ同じであり、貂蝉が董卓と呂布をの仲違いをした結果として、董卓が命を落としています。
注目すべきは、三国志平話の設定だと貂蝉は呂布の妻であり、『任』という姓も持っていた事になります。
三国志平話だと貂蝉は呂布の妻でありながら、董卓とも関係を持った不貞の人物として描かれているのです。
民間伝承である三国志平話だと、貂蝉は悪女としての要素も入れられているわけです。
関羽に斬られる悪女な貂蝉
明の時代に出来た風月錦囊の中に、三国志大全があり、呂布死後の貂蝉が描かれています。
三国志大全の貂蝉は呂布が亡くなった後に、呂布の悪口を言い始め関羽や張飛に媚び始めるわけです。
こうした貂蝉の姿を見た関羽は『貂蝉が呂布を誤らせた。』と述べる事になります。
関羽は貂蝉が不貞を働き呂布を裏切ったと考え、貂蝉を不義の人物として考えました。
結果として、関羽は貂蝉を生かしておいたら、禍の元になると考え関羽は貂蝉を斬ったわけです。
物語の中では、貂蝉は劉備にまで言い寄る話もあります。
貂蝉が関羽に斬られる場合は、必ずと言ってよい程、貂蝉は呂布の妻という設定になっており、悪女として描かれます。
当時の女性の中で罪深いとされていたのが「嫉妬」と「不貞」であり、貂蝉が関羽に斬られる場合は、必ず呂布の妻となり不貞を働いているのが特徴です。
因みに、物語の中では、曹操と関羽が貂蝉を掛けて争う話まで存在しています。
ブスだった貂蝉
三國志演義を筆頭に大半の貂蝉は美人として描かれています。
しかし、貂蝉がブスだった設定にした話も存在しています。
貂蝉は董卓に両親を殺されてしまい、孤児となったわけです。
孤児になった貂蝉を王允が迎え入れる事になります。
貂蝉は親の仇でもある董卓を憎み、王允も董卓を排除しようと考えていました。
この時に、王允は連環の計を思いつく事になります。
三國志演義と同様に、王允は女性を使って、董卓と呂布の仲を裂こうと考えたわけです。
しかし、貂蝉の顔がブスであり、王允は頭を抱えてしまいます。
この時に名医として名高い華佗が王允の前に登場します。
王允は華佗に、「貂蝉を使って董卓と王允を仲違いさせたいと思うが、貂蝉が美人ではないから困っている。」と述べたわけです。
華佗は王允に対して「心配は無用」と伝え、10日後に再び華佗は王允の前に現れました。
華佗は女性の首を持っており、「墓場から西施の首を持ってきた。」と述べます。
西施とは越王勾践や范蠡が呉王夫差を惑わす為に、送り込んだとする絶世の美女です。
華佗は貂蝉の首を斬り、代わりに西施の首を接続しました。
西施の首が着いた貂蝉は7日間死んだような状態となりますが、8日目で起き上がり貂蝉は美女となって復活しています。
しかし、貂蝉は肝が小さく、董卓と呂布を美貌で惑わす事が出来るか心配だったわけです。
そこで、華佗は荊軻の肝を貂蝉に移植させて、勇気を与えたわけです。
荊軻は始皇帝を暗殺しようとした人物であり、神勇と評価される人物でもあります。
荊軻は始皇帝の暗殺に失敗した時は、五体バラバラとなりますが、固い肝だけは残っていました。
その肝を貂蝉に取り付けたという話しになっています。
美人になった貂蝉は董卓の元に訪れ、遂には復讐を成し遂げる事に成功したわけです。
滑稽な話に聞こえるかも知れませんが、華佗の力によりブサイクから美人になった貂蝉は、見事に王允の連環の計を成功させた話もあると言う事です。
毛宗崗と貂蝉
現代に伝わる三国志演義を書いたとされる毛宗崗と貂蝉に関して述べてみました。
毛宗崗本
三國志演義は羅貫中の著作だと思っているかも知れません。
しかし、現在、私達が見る三国志演義は羅貫中が書いたものではなく、多くが毛宗崗が書いた話だとされています。
実際に羅貫中が書いた頃の三国志演義は、突拍子もない話しも多かったともされているのです。
羅貫中が書いた貂蝉は悪女系だったと考える人もおり、時代の変遷により貂蝉象も変わって行ったとも考えられています。
清の時代の毛宗崗は、貂蝉を悪女ではなく、聖女として描こうとしたんじゃないかとする説があります。
貂蝉の設定の変更
毛宗崗は貂蝉を聖女として描くために、「民間伝承の呂布の妻」とする設定から、「王允に市場で買い取られた養女」に変えています。
貂蝉が呂布の妻である設定にしてしまえば、董卓と関係を持った貂蝉は不貞の人物となり、聖女にはならないからです。
しかし、王允の養女であり、王允に恩を返す為に、動いたとすれば、聖女に近づける事が出来ます。
お世話になった義父の王允の為に、身を捧げたとすれば、聖女としての貂蝉が出来上がる事になるでしょう。
毛宗崗としては、民間伝承のドロドロとした貂蝉ではなく、聖女としての貂蝉を描きたかった様にも感じました。
中国四大美女
貂蝉は中国四大美女の一人に数えられる事も多いです。
貂蝉以外の残りのメンバーは春秋時代に越の范蠡が呉王夫差に送り込んだ西施、前漢の元帝の時代に匈奴に送られた王昭君。
唐の玄宗の妃となった楊貴妃、三国志の貂蝉の4人が選ばれる事が多いです。
王昭君の代わりに項羽の夫人である虞美人が選ばれる事もあります。
中国四大美女の中で、貂蝉だけが明らかに架空の人物だと言えるでしょう。
貂蝉のモデルは正史三国志の呂布と密通を行った侍女となるのですが、侍女の方も自分がモデルになった貂蝉が、まさか中国四大美女の一人になるとは思ってはいかなったと思います。
三国志の知名度の高さが、貂蝉を中国四大美女に押し上げたとも言えそうです。