打出浜の戦いは観応の擾乱の前半戦を決める戦いでもあります。
高師直は御所巻で足利直義を失脚させていますが、足利尊氏と高師直が九州遠征を行った隙をついて足利直義が大和で挙兵しました。
足利直義は南朝に降伏するなどし、多くの武士に支持されています。
足利尊氏や高師直は武士に支持されなかった結果として、打出浜の戦いで敗れてしまったと言えるでしょう。
太平記では、打出浜の戦いの前に高師夏と河津氏明が夢の中で聖徳太子の軍に襲われています。
高一族が聖徳太子の軍勢の攻撃を受けて、馬から落ちた所で夢が覚めていますが、この夢は創作でしょう。
結論を言ってしまえば、打出浜の戦いで勝敗を分けたものは、支持される武士の数の差です。
打出浜の戦いを史実で考えると、足利尊氏と直義は参戦しておらず、後方にいたと考えられています。
戦いが終わると尊氏と直義の間で和睦が成立し、一時的な平和が訪れました。
ただし、打出浜の戦いが終わると高師直や高師泰らは殺害され、高一族は没落していく事になります。
尚、打出浜の戦いのYouTube動画も作成してあり、記事の最下部から視聴できるようになっています。
打出浜の戦い前の政治状況
観応の擾乱で足利直義と高師直の対立により、足利直義が失脚しました。
足利直冬が九州に落ち延び、高師直の存在を脅かす者になる可能性があったわけです。
既に少弐頼尚や大友氏泰も尊氏方から直冬方になっており、鎮西管領の一色道猷は苦しい立場となっています。
足利尊氏は九州遠征を決定し、高師直も同行させ足利義詮には京都を守らせました。
足利尊氏と高師直は出陣しますが、既にこの時には足利直義が京都を出ており、姿を晦ませていました。
しかし、幕府では「足利直義は何も出来ない」と軽視していましたが、直義が挙兵すると、いきなり畠山国清が直義の支持を鮮明にしています。
さらに、足利直義は南朝に降伏し南朝の勢力も直義派として戦う事になります。
この時期に京都では、足利直義が乱入すると言った情報も流れています。
全国各地で直義を支持する者が大量に現れ、足利尊氏と高師直は危機的な状況となり、九州の足利直冬討伐どころでは、なくなっていました。
足利尊氏は高師夏、南宗継、石橋和義を備後、備中、備前に配置し、九州にいる足利直冬の進撃に備えています。
高師直はこうした状況の中で関東の上杉憲顕や岩松直国に執事施行状を発行していますが、彼ら二人は直義派であり全くの無意味なものでした。
これが打出浜の戦いの前の状況であり、足利直義が多くの支持を集めるのと同時に、高師直の意味不明な執事施行状もあり、尊氏・師直陣営の混乱も分かる様な気がします。
膨張する直義派
観応二年(1351年)の正月1日には、畠山国清の軍が摂津国神崎に向かいました。
摂津国の守護は赤松範資であり尊氏・師直派でした。
畠山国清は摂津国守護代・河江円道の勢力を駆逐する事になります。
正月三日になると越中で挙兵し京都を目指していた桃井直常が近江の坂本まで進出しました。
足利尊氏は比叡山延暦寺に近江国の三箇荘を恩賞として誘いますが、比叡山の僧兵の大半は直義に味方しています。
足利尊氏と高師直の軍は摂津の西宮まで戻り、さらには瀬河宿にまで進出し、山名時氏の部隊を前に進めています。
足利尊氏は状況に応じて京都に向かうか、直義がいる河内に向かうか判断しようとしたと考えられています。
足利直義は京都の手前にある石清水八幡宮に籠城しました。
足利尊氏の軍は山城国山崎に到着し、赤松範資が直義派の軍と弓を打ち合っています。
この頃の京都では略奪が横行しており、高師直や高師泰の屋敷が放火されるなどしています。
こうした中で足利一門の中でも吉良と並び高い家格を持つ斯波高経が、石清水八幡宮を訪れ直義派になりました。
さらに、二階堂行珍なども京都を脱出し直義派を鮮明にしています。
上杉朝定、上杉朝房、今川範国も石清水八幡宮の直義の元に参上しました。
京都を守備する足利義詮は直義に味方した諸将の邸宅を破壊しています。
京都では須賀清秀も直義の元に向かおうとしますが、足利義詮の軍と戦闘となりますが、須賀清秀は上手く逃亡しました。
この混乱で崇光天皇は持明院殿に行幸しています。
足利直義が八幡に陣取ると、危機を感じたのか京都にいた多くの武将が直義を支持する事になったわけです。
打出浜の戦いの前に多くの武将が足利直義を支持した事が分かります。
京都に軍を進める
足利義詮は多くの諸将が離脱した事で、京都を守り切るのは不可能と判断しました。
義詮は京都を脱出し、足利尊氏の元を目指す事になります。
足利義詮が京都防衛を断念すると、下総守護の千葉氏胤も直義派に転身しました。
尊氏派が京都からいなくなった事で、高師直、高師泰、仁木頼章、仁木義長、細川頼春、佐々木道誉らの邸宅が焼かれています。
桃井直常が京都一番乗りを果たし、光厳上皇に挨拶に行きました。
足利義詮は現在の京都府向日市付近で足利尊氏と高師直の軍に合流し、京都に向かって攻め上る事になります。
足利尊氏の当初の予定は、直義がいる石清水八幡宮の攻撃にあった様ですが、作戦を変更し京都に軍を進めました。
「園太暦」や「房玄法印記」によると、足利尊氏に従ったのは高師直ら1000騎ほどだったと言います。
義詮の軍には高師重、仁木頼章、仁木義長、細川清氏、佐々木道誉らがいました。
佐々木道誉は本拠地の近江に戻ろうとしますが、園城寺の僧兵に邪魔され引き返しています。
打出浜の戦いの前哨戦とも言える京都でも市街戦が始まりました。
市街戦
京都を占拠する桃井直常と足利尊氏、義詮の戦いが始まりました。
義詮は四条河原から攻撃を仕掛け足利尊氏は二条から迂回し、佐々木道誉の部隊と協力し桃井直常の軍に攻撃を仕掛けています。
桃井直常の軍は後退しました。
足利尊氏は二条京極の吉良満義の邸宅を本陣とし、桃井直常は法勝寺を本陣としています。
太平記では京都の市街戦で高師直配下の安保直実と、桃井直常配下の秋山光政の一騎打ちが描かれています。
京都では激戦となりますが、戦いを制したのは足利尊氏であり、桃井直常は関山まで軍を退きました。
足利尊氏は京都を取り返すと千秋高範を光厳上皇の御所に派遣し、上洛の報告をしています。
ここで予想外だったのが、足利尊氏は京都を奪還したのに、武士たちは足利尊氏や高師直を殆ど支持しなかったという事です。
戦いに勝利しても武士の集まりが悪いと言うのは、打出浜の戦いで敗れた大きな原因でもあります。
やる気のない足利直義
足利直義は石清水八幡宮に相変わらず陣取っていました。
しかし、積極的に戦おうともせず傍観していたとも言えるでしょう。
足利尊氏の軍は西から京都に攻め上り桃井直常と戦ったわけですが、足利直義は横やりを入れるでもなく、近くを通った足利尊氏の軍を眺めていただけです。
桃井直常は京都の戦いで敗れましたが、ここで足利直義が動き背後を衝けば、京都の戦いでも直義派が勝利したのではないかと考える事も出来ます。
ここで注目したいのは、足利直義は打出浜の戦いを前にしても、恩賞に関する事を一切していないという事です。
足利尊氏や九州の足利直冬でさえ恩賞の約束をして、求心力を集めようとしているのに、足利直義は一切してはいません。
足利直義のやる気のなさは、花押にも現れており、御所巻の前の巨大な花押は姿を消し、元の花押に戻し、しかもバランスを欠いた花押とも指摘されています。
足利直義という人は非常に分かりやすい人であり、そもそも兄の足利尊氏と敵対するつもりもなく、既に政治に対する情熱も失っていたと考えられます。
打出浜の戦いまでの直義の発給した文書を見ると高師直と高師泰の誅伐は命じていますが「足利尊氏を倒せ」とは一言も言っておらず、直義は尊氏を害する気持ちは一切なかったはずです。
打出浜の戦いの本戦にも足利直義は参戦していません。
追い詰められる足利尊氏と高師直
足利直義に何処までやる気があったのかは不明ですが、直義は武士たちに指示され続けたわけです。
足利尊氏は一向に支持されず東寺に本陣を移しますが、後に丹波に向かい京都を放棄しました。
この時の足利尊氏の軍勢は500騎ほどしおらず、兵力は三分の一にまで減少しています。
尊氏は天龍寺で兵を休ませようとしましたが、夢窓疎石に拒絶された話もあります。
夢窓疎石は尊氏とも直義とも親しかったわけですが、直義を支持する姿勢を示したわけです。
足利尊氏は六波羅探題を攻め滅ぼした時の様に篠村八幡宮に入ろうとしますが、到達する事が出来ませんでした。
この時に野武士の妨害も多くあり、足利尊氏が自らの甲冑を差し出して通過を許されたとする話まで京都に流れています。
流石に、この話はフェイクだと思いますが、尊氏のこうした姿は「落武者狩り」に遭っている様でもあります。
さらに、武蔵守護代の薬師寺公義までもが、直義に与したとする情報が入りました。
薬師寺公義は高師直の重臣でもあります。
佐々木道誉の実兄である佐々木善観や千秋高範も直義派となりました。
千秋高範は先に足利尊氏が京都での戦いに勝利した時に、光厳上皇の元に派遣した武士であり足利尊氏の落胆も大きかったのではないでしょうか。
千秋高範に関しては洞院公賢は「もっとも無情か」とする感想を述べています。
さらに、信濃守護の小笠原政長も直義を支持しました。
この頃に、守護分国の信濃では諏訪直頼と部下達が激戦を繰り返していたのに、小笠原政長は直義派になってしまったわけです。
尊氏や師直の不幸は、これで終わらず山名時氏までもが直義派を鮮明にしました。
足利尊氏が放棄した京都では桃井直常、吉良満貞、斯波高経、千葉氏胤らが入京しています。
この時点で足利直義は南朝だけではなく、北朝も手中に収めたと言えるでしょう。
足利尊氏と高師直は擁立するべき権威すらも失いました。
さらに、関東では高師冬が戦死したとする情報が入ってきます。
近江の六角氏頼も足利直義の元を訪れ所領安堵されており、直義派となりました。
六角氏頼は先に石塔頼房と激しく争っていた武将であり、そんな人でさえ直義を支持したわけです。
細川顕氏は四国にいたと見られますが、石塔頼房が書状を送り上洛要請をしています。
細川顕氏は讃岐守護でしたが、大隅・薩摩守護の島津貞久の讃岐国内の所領である櫛無保の押領を止める様に石塔頼房は要請しました。
九州では島津貞久は足利直冬を支持し、子の島津師久を出陣させており、味方である島津氏に気分を害さない為の施策でもあったのでしょう。
この時点で直義のやる気はともかくとして、直義派が圧倒的に優勢であり、足利尊氏と高師直は「ここから打出浜の戦いで戦闘が出来るのか?」と言った程の状態でもありました。
高師泰の合流
高師泰は九州の足利直冬を討つために出発しますが、石見で挫折し九州遠征を諦めました。
しかし、高師泰の軍は健在であり、足利尊氏と高師直の軍に合流する事を目指します。
こうした時期に直義派になった上杉朝定が八幡から海路で備後国へ行き、高師泰の軍と討とうとしています。
備後は高一族の南宗継が長年に渡り守護を務めており、大旗一揆の活躍もあり、上杉朝定の軍を大破しました。
高師泰は播磨の書写山にいた尊氏や師直に合流し、備後を守備していた高師夏も合流する事になります。
諸将に裏切られ続けた尊氏ですが、高師泰・高師夏との合流は一安心した事でしょう。
この頃に足利義詮は丹波岩屋山石龕寺におり、仁木頼章、義長の兄弟、高師茂などが従っていました。
上杉憲顕が関東に留まる
関東では高師冬が既に戦死しており、上杉憲顕は上洛すると足利直義に伝えています。
しかし、足利直義は上杉憲顕の上洛を許さず、関東に残る様に命じました。
上杉憲顕は直義派の中で最も期待出来る戦力でしたが、足利直義のやる気の無さが響いたのか関東に残る様に命じたわけです。
ただし、上杉能憲は軍を近畿に向けて発しています。
信濃の諏訪直頼も上洛軍を起こしました。
滝野光明寺城の戦い
高師泰の合流により勢いがついた足利尊氏と高師直は、石塔頼房が籠城する滝野光明寺城を攻撃しました。
しかし、石塔頼房の守備は固く、尊氏・師直軍は苦戦を強いられています。
太平記では滝野光明寺城の戦いの時に、師直の滅亡を予言する和歌が空から落ちて来た話が掲載されています。
これが真実であれば、石塔頼房の軍が尊氏・師直軍の戦意を削ぐ為にやったのでしょう。
尚、この時に赤松則祐が播磨の白旗城に無断で撤退しており、足利尊氏は苦しい立場となりました。
高師泰の合流で勢いづいたと思った足利尊氏ですが、再び打出浜の戦いを前に不安を残す結果となります。
直義派の強勢
足利直義は近江の園城寺に、東国の軍勢が上洛出来る様に船の用意を命じています。
過去に石塔頼房が橋を焼き払っており、味方の援軍が通過出来ない状態となっていました。
さらに、上杉憲顕の子(上杉能憲?)も上洛しました。
東北では直義派の吉良貞家が師直派の畠山高国、国氏親子を自害に追い込んだとする情報も入って来て、直義派は益々優勢になって行きます。
打出浜の戦いの前に、全国で直義派が圧倒し、近畿にも直義派の諸将がやって来て、直義は圧倒的な戦力を揃えたと言えるでしょう。
こうした中で、細川顕氏と細川頼春の軍勢が四国からやってきて、書写山坂本にいた尊氏・師直軍を襲撃しました。
尊氏と師直の軍は大きな損害を出しています。
足利尊氏は法華寺に籠城しました。
光明寺を救う為に足利直義は畠山国清、小笠原政長らを派遣しています。
この頃に亡くなった上杉重能の子である上杉重季も上洛しています。
打出浜の戦いと聖徳太子
太平記の第二十九巻に、打出浜の戦い前夜の話が掲載されています。
この時に高一族の高師夏と重臣の河津氏明が同じ夢を見たと言います。
夢の中で高一族の大軍が寡兵の足利直義の軍勢と戦っていたら、なぜか突然、聖徳太子が現れたと言います。
聖徳太子は蘇我馬子らを従え、金剛蔵王権現の連合軍が現れたました。
聖徳太子の軍勢は高一族目掛けて弓を放つと、矢が高師直、高師泰、高師世、高師夏らの眉間に命中します。
高一族の軍勢は矢を受けて落馬しますが、ここで夢から覚めました。
太平記では高一族が聖徳太子廟や吉野行宮を焼き払ったりした事への報いが、打出浜の戦いに現れた事を示すとされています。
当然ながら、この夢の話は真実ではないと考えられています。
打出浜の戦いの本線
足利尊氏は摂津国兵庫に移動し、打出浜の戦いが勃発しました。
足利尊氏は打出浜の戦いに参加せず、十数キロ後方にある兵庫にいたわけです。
足利直義も山城の石清水八幡宮からは動いておらず、部下達が打出浜の合戦を行いました。
高師直が軍を指揮しますが、事実上の総大将である高師直自身が股を負傷し、高師泰も頭や胸を負傷しています。
高師直は股に矢が刺さり、高師泰は兜の内側と鎧で覆われた胸部に矢が刺さり、流血が酷かったと言います。
打出浜の戦いは両軍合わせてかなりの犠牲者が出たとも言われていますが、高師直の軍は五百騎しかいなかった話があります。
直義の方が圧倒的に兵は多く、物量で敗れたとも言えるでしょう。
尚、打出浜の戦いで高師直の指揮下で敗れた者は、誰一人として兵庫の尊氏の陣に戻らなかった話が残っています。
打出浜の戦いで高師直側として参戦した武将は直義側に投降するか、戦死した事になります。
因みに、園太暦では打出浜の戦いの犠牲者が多かった事から「稀代の大合戦」と書かれました。
打出浜の戦いの後のお話
足利尊氏が講和を願う
打出浜の戦いで足利尊氏に従ったのは、高師直の一族と摂津播磨守護の赤松範資の軍勢500騎程度だったと言います。
最後まで尊氏派として奮戦したのも足利義詮、石橋和義、南宗継と九州の一色道猷と直氏の親子くらいでした。
足利直冬討伐に出かけた時の勢いはなく、打出浜の戦いが終わった頃には、無残な姿になっていたとも考えられています。
足利尊氏は饗庭命鶴丸を石清水八幡宮にいる直義の元に派遣し講和の使者としました。
この時に足利義詮が京都を攻撃するという噂が流れ、直義陣営では数千騎が出陣しています。
さらに、足利尊氏の土御門東洞院の屋敷が全焼するなどしました。
高一族の出家
足利尊氏と直義の和睦が成立し高師直と高師泰が出家する事で纏まっています。
高師直と高師泰の出家を講和条件とするのは、尊氏側から言ってきた事になっています。
高一族の者や被官たち120名ほどが出家しました。
太平記では薬師寺公義が高一族の出家に猛反対しますが、既に高師直の心は折れており、薬師寺公義の進言を用いませんでした。
既に薬師寺公義は直義派として活動していた記録も残っており、直義派として薬師寺公義が戦ったのであれば、この話は創作となるでしょう。
足利尊氏は京都に向かって出発しますが、高師直と高師泰が共奉がしたいと告げました。
しかし、足利尊氏は秋山光政を連絡役として「見苦しい」とし、拒否しています。
高師直と高師泰は尊氏よりも三里ほど後方を歩きました。
この時の高師直や高師泰はすっかりと覇気を失くしていたともされていますが、実際には出家しても足利直義の様に大逆転した例もあり、反撃の機会を伺う事にしたのではないかとも考えられています。
鷲林寺で暗殺
高師直らは摂津国武庫川鷲林寺の前まで来ました。
ここで上杉修理亮の軍勢が待ち伏せており、高師直らに襲い掛かりました。
上杉修理亮は上杉能憲とも上杉重季だとも言われています。
下記の人物が討たれた事が分かっています。
高一族の中心にいる者達意外にも、庶流や被官なども討たれており、高一族は立ち直れない程の大打撃を食らったわけです。
さらに、高一族の忠臣として名を馳せていた大旗一揆の河津氏明も切腹しました。
打出浜の戦いが決め手となりましたが、観応の擾乱の前半戦は足利直義の大勝利で終わった事になります。
ただし、足利直義は石清水八幡宮から動いてはおらず、そもそもやる気があったのかさえ疑問視される程であり、勝利の味を噛み締める様な事は出来なかったのかも知れません。
打出浜の戦いが起きた頃に、実子の如意丸も夭折し、むしろ悲しみの方が多かった可能性もあります。
打出浜の戦いの動画
打出浜の戦いを題材にしたゆっくり解説動画です。
前半が打出浜の戦い前の内容で、後半が本戦付近の解説となっています。
前半の動画『尊氏の絶望』
後半の動画『打出浜の戦い』
この記事及び動画は亀田俊和先生の観応の擾乱を元に作成しました。