名前 | 倭種(わしゅ) |
登場 | 魏志倭人伝 |
コメント | 倭人の種族を倭種と呼ぶ |
倭種は正史三国志や三国史記による倭人の中の種族を指します。
魏志倭人伝には邪馬台国から東の海を越えて千里行くと倭種が住んでいると記述があります。
倭種は倭人の種族であり、見落とされがちな部分がありますが、この記述が邪馬台国の近畿説を否定する材料にもなったりしています。
倭種は三国史記にも書かれており、倭種の脱解が新羅王になった記述まであるわけです。
今回は魏志倭人伝や三国史記の重要なポイントである倭種を解説します。
尚、魏志倭人伝では倭種の記述の後に、小人の国である侏儒国が記載され、侏儒国の次には船で1年掛かると記録がある黒歯国と裸国が記載されています。
侏儒国、黒歯国、裸国は架空の国と考える専門家もおり、倭種の存在を否定される事もあります。
正史三国志の倭種
倭種の記述
倭種ですが、魏志倭人伝の下記の記述で登場します。
※魏志倭人伝より
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種
(女王国から東の海を渡り千余里行くと、別々の国々がある。それらの国々の民衆は皆が倭種である)
上記の様に魏志倭人伝に「倭種」の言葉が存在するわけです。
倭種というのは、倭人の種族であり、魏志倭人伝では馬韓、弁韓、辰韓などの三韓の人々や扶余、高句麗などのツングース系の民族とは、違った種族の者達が住んでいると言いたかったのでしょう。
邪馬台国畿内説の弱点
倭種の記述が邪馬台国の弱点にもなっています。
邪馬台国九州説に従い、邪馬台国が北部九州にあったとしたら、大分県の国東半島の海を渡れば、本州や四国があり魏志倭人伝の記述と一致するはずです。
しかし、邪馬台国の位置が近畿にあったとしたら、東の渡れる海が無く、倭種がいる場所が無くなってしまいます。
邪馬台国近畿説で東の海を渡るをやや強引に解釈すれば、伊勢湾を渡ると倭種がいた事にするしかなくなるはずです。
さらに言えば、魏志倭人伝では朝鮮半島の倭人の国である狗邪韓国から海を渡り対海国、一大国、末盧国と行きますが、全て千余里の記述があります。
勿論、島々の距離は違えど、ある程度の長さがある海を渡る事が分かるはずです。
九州説であれば国東半島から本州へ渡り倭種の国々がある事になるでしょう。
しかし、畿内説を採用してしまうと、東に海が無く倭種が存在出来る場所がない事になってしまいます。
正史三国志の倭種は何を意味するのか?
正史三国志を見ると、曹叡や曹芳など魏の朝廷の人々が、倭国のどれ程の地域までを把握していたのかが問題となります。
それを考えると、魏の朝廷は九州に倭人がいる事は分かっていましたが、さらに東の方にも倭人と呼ばれる種族がいた事を知ってはいましたが、本州や四国の倭人の方は情報が少なかった様に感じています。
魏の朝廷では九州から海を越えて東の地域にも倭人がいる事は分かっていましたが、余りにも情報が少なく倭種と記述したのでしょう。
正史三国志の著者である陳寿が倭種としたのは、ある意味、内容が分からず苦し紛れの記述にも見えてきます。
個人的には邪馬台国の東の海を渡った所には、大和王権があり、大和王権こそが倭種の国だと言えるでしょう。
卑弥呼が九州で狗奴国と争っていた時に、大和王権では欠史八代の時代だったと感じています。
三国史記における倭種
三国史記の新羅本紀に次の記述が存在します。
※三国史記 新羅本紀より
脱解は元は多波那国の生まれであり、その国は倭国の東北一千里の場所にある。
三国史記の文章を素直に読めば脱解は倭国(九州)の東北一千里の場所にある多波那国の出身だという事になります。
つまり、脱解は倭国の出身地ではないので倭種という事になるでしょう。
多波那国に関しては、日本の丹波とする説もあれば但馬ではないか?とする説が存在します。
脱解は四代目の新羅王であり、この記述に従えば代々の新羅王は「倭種系」という事になるはずです。
脱解は瓠公を大臣にしますが、三国史記には「瓠公は族姓は明らかではないが元倭人である」とする記述が存在します。
新羅では倭種の脱解が新羅王となり、倭人の瓠公が補佐した事になります。
瓠公が元倭人であるのならば、倭国(九州)の出身という事になるのでしょう。