ヲワケの臣は稲荷山古墳出土鉄剣で名が知れ渡った人物です。
稲荷山古墳出土鉄剣には文字が書かれており、稲荷山古墳出土鉄剣を作ったのがヲワケの臣となっています。
ヲワケの臣はワカタケル大王に仕えた事も分かっており、杖刀人首をやっていたと記録されており、武官で親衛隊長だった事が分かっています。
稲荷山古墳出土鉄剣にヲワケの臣の名前が書かれている事で実在した事は確実ですが、多くは謎に包まれているわけです。
ヲワケの先祖の名前は稲荷山古墳出土鉄剣に記述されており分かっていますが、ヲワケの出身地や身分などは記録がなく分かっていません。
それでも、稲荷山古墳に埋葬されたとも考えられており、地方豪族だったのではないかと考える事が出来ます。
ヲワケの臣の出自は何処
ヲワケの臣ですが、稲荷山古墳がある地元武蔵の豪族とする説もあれば、畿内の豪族だったのではないかとする説もあります。
古代日本において鉄剣と言うのは武器として使うだけではなく、呪具としての役割もありました。
剣に銘文を刻むというのも、儀式としての役割もあったと考えられているわけです。
神功皇后の時代に百済から贈られた七支刀なども文字が刻まれています。
ヲワケの臣は稲荷山古墳出土鉄剣に先祖の名前を記し、代々に渡り杖刀人首(親衛隊長)であった事が書かれており、子孫への永続も願ったのでしょう。
ヲワケの臣が稲荷山古墳出土鉄剣に書いた願いを考えると、ヲワケの臣が地元の武蔵豪族だったと考える方が自然だとも言えます。
因みに、ヲワケの臣が畿内の豪族だと考える場合は、ヲワケの臣が武蔵出身の部下に稲荷山古墳出土鉄剣を与えた事になります。
しかし、稲荷山古墳出土鉄剣を見ると、明らかに自らの功績をアピールしており、地元豪族のヲワケの臣が自分の為に稲荷山古墳出土鉄剣を造ったとする説の方が有力でしょう。
ヲワケの系譜
下記がオワケの臣の系譜となります。
初代・オホヒコ | 2・タカリスクネ | 3・テヨカリワケ | 4・タカヒシワケ |
5・タサキワケ | 6・ハテヒ | 7・カサヒヨ | 8・ヲワケ |
ヲワケの系譜を見ると、初代のオホヒコから五代のタサキワケまでは、名前の最後に「ヒコ・スクネ・ワケ」などが付いている事が分かります。
それに対し六代のハテヒ、七代のカサヨヒ、八代のオワケの三代は名前の系統が違い個人名だと考えられています。
系譜の中で信用できる名前は六代のハテヒからオワケまでの三代までだとされているわけです。
現代の日本人であっても四世代前の人物の名前は分からない人も多く、古代日本でも同じなのかも知れません。
尚、ヲワケの系譜は天皇に仕え杖刀人の首(親衛隊長)をしていた記録でもあり、専門家の中には古代氏族の系譜は財産や祭祀権の相続ではなく王権奉仕の起源とする説もあります。
因みに、中臣氏は天照大神が引き籠った天岩戸事件で祝詞を読んだ天児屋命の子孫であり、天児屋命は瓊瓊杵尊による天孫降臨にもお供しました。
中臣氏を見ても系譜は天皇への奉仕だと見る事が出来るはずです。
尚、允恭天皇の時代に自分の子孫が瓊瓊杵尊の天孫降臨のお供をしたと名乗るものが多数おり、允恭天皇は真実を見極める為に盟神探湯を行った話があります。
稲荷山古墳出土鉄剣を制作したヲワケの臣もまた代々に渡り天皇家に仕え杖刀人の首を任されたという記録でもあります。
オワケの臣の生涯
稲荷山古墳出土鉄剣からヲワケの生涯が分かるとする説があります。
ヲワケの臣は地方豪族の家柄として生まれ、杖刀人の首と呼ばれる武官となり、都で天皇に仕えたとされています。
稲荷山古墳出土鉄剣には「吾、天皇を佐治し」という言葉が入っており、天皇の間近で親衛隊をしていたと考えられているわけです。
この事から当時の地方豪族は配下や小豪族の者達を引き連れて都に行き、天皇に仕えるのが当たり前となっていたのではないかと考えられています。
ヲワケの臣が都にいた期間がどれ位なのかは不明ですが、最終的には郷里である武蔵に戻り稲荷山古墳に埋葬されたとされています。
ヲワケの臣と共に稲荷山古墳出土鉄剣も埋葬されたとみる事が出来るわけです。
ヲワケの臣は歴史書に名前は残りませんでしたが、自らが制作した鉄剣により名が残ったと言えるでしょう。