呉の四大都督は周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜を一まとめにして使われる言葉でもあります。
周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜は、それぞれ荊州方面で活躍した軍人でもあります。
ただし、正史三国志や三国志演義で周瑜が都督になった記録などはありますが、呉の四大都督なる言葉は出て来てはいません。
呉の四大都督の面子を見ると、個性がありユニークな存在で、それぞれが役割は違えど呉の躍進に貢献しているわけです。
孫権の時代に呉が対外戦争で致命的な敗北を喫しなかったのは、四大都督の活躍もあったとみてよいでしょう。
尚、四大都督とは言いますが、周瑜、魯粛、呂蒙の三名は都督になってから比較的早い時期に亡くなっており、陸遜の時代が圧倒的に長いと言えます。
今回は呉の四大都督と孫権の評を紹介します。
因みに、三国志では「四」の数字を使って一まとめにする場合が多々見られ、荊州四英傑、孫堅四天王、袁術四天王、魏四天王などもあります。
ただし、これらの先に述べた様に、正史三国志や三国志演義で使われた呼称ではありません。
四大都督のメンバー
周瑜
周瑜は赤壁の戦いの時に、程普と共に大都督に任命されています。
孫策とは断金の交わりを結んでおり、孫策の時代から重用された人物でもあります。
周瑜は孫堅が亡くなり袁術の配下に身を寄せ落ちぶれてしまった孫策を助け江東平定に大きく貢献しました。
孫策が亡くなってからも張昭らと共に孫権を支え、赤壁の戦いでは曹操の大軍を破る武功を挙げています。
周瑜は三国志でも屈指の外見の良さもあり、人気のキャラでもあります。
呉の四大都督の中ではビジュアル担当とも呼べそうです。
魯粛
魯粛は赤壁の戦いの前に、劉備と同盟を結ぶなども行っています。
魯粛は四大都督のメンバーには数えられていますが、四大都督の中で唯一大戦を経験していない人物でもあります。
それ故に、魯粛の軍事能力に対しては未知数と言わざるを得ないでしょう。
ただし、魯粛は卓越した統治能力を持ち軍隊の命令も行き届いており、指揮能力が高かった話もあり、大戦が無かっただけで大戦があったとすれば卓越した統率力を見せたのではないか?とも考えられます。
三国志演義では魯粛はお人よしの人物として描かれていますが、実際の魯粛は関羽との単刀赴会でも剛毅な姿を見せるなど気概もありました。
魯粛は外交のバランスの良さなどが評価される事もあり、四大都督の中では外交担当と見る事も出来るはずです。
呂蒙
呂蒙は関羽を討ち荊州の中南部を呉の領土に加えた功績があります。
元々の呂蒙は武略一辺倒の人でしたが、孫権に学問を勧められ呉下の阿蒙の逸話でも有名です。
四大都督の周瑜、魯粛、陸遜は名士でしたが、呂蒙の出身は貧しく寒家だった事が分かっています。
それを考えれば、呂蒙は四大都督の中では成り上がり担当とも呼べるはずです。
呂蒙は努力の人だと見られる事も多いと言えます。
さらに言えば、淩統や甘寧に気持ちを汲んだ行動を見せる事もあり、呂蒙は気遣いの人でもあったわけです。
関羽を倒し荊州の中南部を手に入れたのは呂蒙の功績だと言えるでしょう。
陸遜
陸遜は四大都督の最後の一人でもあります。
陸遜は夷陵の戦いで都督となり指揮を執った事で有名です。
周瑜、魯粛、呂蒙は疫病などもあり都督になってから短期間で亡くなっていますが、陸遜だけは長生きをしています。
夷陵の戦いで陸遜は劉備を破ったわけですが、救国の英雄となったはずです。
ただし、最後は二宮の変もあり無念の最後を迎えました。
四大都督の中では唯一病死以外の亡くなり方をしている人物です。
四大都督の前の三人は孫権が名君だった時代しか知りませんが、陸遜だけは耄碌していた孫権の姿を見た事になるでしょう。
孫権の三大都督評価
正史三国志の呂蒙伝に孫権が陸遜と一緒に周瑜、魯粛、呂蒙の事を次の様に述べた話が残っています。
※正史三国志 呂蒙伝より
孫権「公瑾(周瑜)は事を成功させようとする気概があり、度胸や才能に優れ孟徳(曹操)を赤壁で打ち破り荊州への道を開いてくれた。
公瑾は遠大な志を持ち、貴方(陸遜)が引き継いでくれている。
公瑾は子敬(魯粛)を東方に招いてくれ、私の前に連れて来てくれた。
私は子敬と軽く談じたのであるが、話は直ぐに帝王や天下の大計の事になった。
子敬の話は聞いていて心地よく、後に孟徳が劉琮を降伏させ荊州の軍勢を手にして間もなく、水陸十万の軍勢が呉に進軍してくると誇張し聞かされている。
私は臣下の者達に広く意見を求めたが、誰も応えず子布(張昭)や文表(秦松)らは、曹操を迎え入れるべきだと述べた。
子敬は直ぐに「その必要はない」と言い、急いで公瑾を呼び寄せ軍勢を預け曹操との決戦を主張した事を覚えている。
子敬の言葉はここでも心地よかった。
さらに、魯粛の考える策謀は蘇秦や張儀を軽く超えるものであり、後に劉備に荊州を貸す様に進言はしたが、この1つの失策が子敬の二つの功績を消すものではない。
周公は一人の人間に万能を求めなかった聞く、故に私は周公を手本とし、子敬の落ち度を忘れ優れた点を尊重し、彼を光武帝を輔弼した鄧禹の様な人物だと考えていたのである。
子明(呂蒙)は若い頃は武勇に頼るだけの人物であったが、成人してから学問に励み能力を開花させ公瑾に次ぐ人物だと評価できる。
ただし、子明の進言は壮大さと鋭敏さが欠けており、その点では公瑾に及ばなかった。
それでも、子明が関羽を捕えた事を考えれば、子敬よりも勝るものがあった様に思う。
子敬は私への返書で「帝王が立つ時は必ず先駆けを行う者がおり、群雄を倒しています。関羽は貴方様(孫権)の先駆けであり、はばかられる事もございますまい」と述べた事があった。
私はこの返書に対し文句も言わず責める事もしなかった。
しかし、彼の軍隊の指揮ぶりは見事であり脱走兵も出さず、命令は確実に行われていた。
領内の統治は行き届き悪事をする者もおらず、道に落ちている物を着服するものでさえいなかったのである。
彼のやり方も素晴らしいと感じていた」
孫権は周瑜、魯粛、呂蒙の三名をよく観察し分析していたわけです。
陳寿は孫権の人物評が的を射ていると考え、呂蒙伝に記載したと書かれています。
四大都督最後の将である陸遜は孫権よりも先に亡くなっていますが、孫権が陸遜に対し、死後にどの様な評価を下したのかは不明です。