優旃(ゆうせん)は、史記の滑稽列伝に名前がある人物であり、始皇帝や胡亥を諫めた人物でもあります。
始皇帝は暴君と呼ばれていますが、優旃の言葉には耳を傾けた話がありますし、暗君と呼ばれた胡亥も優旃の話を聞いたとされています。
諫めると言えば、殷の紂王に死を賭して諫めた比干の様な人物を思い浮かべるかも知れませんが、優旃はユーモアを交えて始皇帝や胡亥を諫めています。
優旃を見ると「諫める」と言うのは、真面目な顔をして堂々と意見する事がだけが「諫める」ではない事が分かるはずです。
尚、優旃の記録がある史記の滑稽列伝には、魏の文侯の時代に、鄴を大発展させた西門豹の記述も存在します。
因みに、西周時代の末期と春秋戦国時代初期に生きた、衛の武公は諫言を好んだ話があります。
優旃は始皇帝や胡亥だからユーモアを入れて諫めましたが、衛の武公の様な諫言を好んだ人物であれば、普通に諫めた様にも思いました。
始皇帝を諫める
優旃は秦に仕えたお笑い芸人の様なものだと思えばよいでしょう。
ただし、史記によれば戯言が上手く道理にかなっていたとあります。
史記の滑稽列伝によれば、二度に渡り始皇帝を諫めた事になります。
ずぶ濡れの兵士
始皇帝が祝宴を開いていた時に、雨が降り出し見張りの兵士達はずぶ濡れになっていたわけです。
優旃は兵士を憐れみ「お主らは休息がしたいか?」と問います。
勿論、寒さで凍えている兵士達は「休憩が出来れば有難い」と話をします。
優旃は「私がお前たちを読んだら『はい』と大きな声で返事をしなさい。」と兵士に言いつけたわけです。
始皇帝の祝宴が始まると、殿上では始皇帝の長寿を願って万歳が行われます。
万歳が終わると優旃は、外に向かって「兵士共よ!」と大きな声で叫びます。
これに対して兵士達は「はい!」と大きな声で返す事になります。
優旃は次の様に述べます。
優旃「お前たちは背が高く体格もよいが何の役に立つのか。雨の降る中で立っているばかりが能ではあるまい。
儂を見ろチビで弱そうなのに、しっかりと休憩しているぞ。」
優旃の言葉を聞いた始皇帝は、すぐに兵士達に命令を出し、半分ずつ休ませる様にしたわけです。
優旃はただ単に、意見を述べただけではなく、始皇帝の機嫌がいい事も察知したのでしょう。
さらに言えば、始皇帝は優旃だから許せた部分もあったように思います。
優旃は冗談を交えながらも、始皇帝に兵士を大事に扱う様に伝えたとも感じました。
大動物園の建設に反対する
始皇帝は動物を放し飼いにする場所を、東は函谷関から西は雍・陳倉まで拡大させようとした話があります。
普通に考えれば、途方もない様な動物園を作ろうとした事になります。
史記には評議したとあるので、始皇帝は本気で巨大動物園を作ろうとしたのかも知れません。
ここで優旃が次の様に述べて始皇帝を諫めています。
優旃「よろしゅうございます。その中に多くの動物を入れて置けば、東方の敵が攻めてきた時に馬や鹿が、不埒な者どもを蹴散らしてくれる事でしょう。」
優旃の話を聞いた始皇帝は、大動物園の建設を撤回させたと史記に記録があります。
始皇帝は暴君とも言われていますが、優旃の話を聞くと、人の話に耳を傾ける事が出来た人物だと言う事が分かります。
ただし、焚書坑儒や阿房宮、万里の長城の建設などは、優旃を以てしても止める事は出来なかったのでしょう。
それか、優旃はあくまでも役者であり、政治の重要決定に参加できる立場でもなかった様にも感じました。
胡亥を諫める
優旃は始皇帝だけではなく胡亥を諫めた話しもあります。
始皇帝が崩御すると、秦の国内では混乱が起き扶蘇や蒙恬、蒙毅、李斯などが亡くなっています。
秦では二世皇帝として胡亥が即位しますが、趙高の暴政が始まる事になります。
二世皇帝に即位した胡亥は、城に漆を塗る計画をしようと案を出してきます。
すると、優旃は次の様に述べた話が伝わっています。
優旃「よろしゅうございます。私も前から城に漆を塗る案を出そうと思っていた所です。
城に漆を塗れば民衆は費用の心配をしますが、さぞかし見事な物が出来上がるに違いありません。
漆の城は見事過ぎて、敵が攻めて来ても上る事は出来ないでしょう。
ただし、漆の城は塗るのは簡単ですが、乾かす部屋を作るのは困難に思いますが。」
優旃の話を聞くと二世皇帝は笑って、漆の城を作るのを撤回した話があります。
漆は塗った後に、雨に濡れない様に乾かす必要があるが、漆の城を囲う部屋を作るのは困難だと述べた事になります。
さらに、さりげなく民衆の負担を伝えた事にもなるでしょう。
優旃の話を見ると、暗君と呼ばれた二世皇帝も、それほど悪い様な人物にも感じません。
ただし、滑稽列伝には、「その後、間もなく二世皇帝は殺されて死んだ。」とあります。
「間もなく二世皇帝は殺されて死んだ」の言葉を考えると、優旃が二世皇帝を諫めた時には、陳勝呉広の乱が勃発し、秦の囚人兵を率いた章邯や秦の正規軍を率いた王離が、函谷関の外で戦っている時だった様に思います。
さらに言えば、劉封や項羽が秦の首都咸陽を目指して進軍しており、秦は危機的な状況にあったはずです。
それを考えれば、胡亥は漆の城を作るとか、かなり呑気な事を言っている様にも感じました。
優旃の最後
優旃の最後は、史記の滑稽列伝に記録があり、次の様に記載されています。
「優旃は漢朝に帰服したが、数年して亡くなった。」
これを見ると、優旃は秦が滅亡しても生き残り、漢に仕えた事になるでしょう。
劉邦が子嬰を降伏させて秦の咸陽を制圧していますが、項羽が到着すると子嬰を処刑し秦の宮殿に火を放った話があります。
優旃は栄華を誇った秦の安房宮らが焼けるのを見て、何を思ったのかは定かではありません。
しかし、心に来るものはあったように思います。
尚、優旃は漢朝に帰服したとはありますが、劉邦を諫めたなどの話は伝わっていません。
優旃は始皇帝や胡亥の贅沢を諫めた話があり、劉邦が人民を酷使して巨大建造物などを作ろうとはしなかったので、諫める事が無かったのかも知れません。
ただし、漢の宰相である蕭何は漢の為に立派な宮殿を造った話があります。
優旃は漢の時代も生きたようですが、死没した年は不明です。
呂后の時代まで生きたのかも定かではありません。