春秋戦国時代

魏加は史実でも弓と関係していた

2024年1月12日

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宮下悠史

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名前魏加(ぎか)
生没年不明
勢力
コメントキングダムでは中華十弓の一人に選出されている

魏加は戦国策に名前が登場し、春申君を諫めた人物です。

魏加は戦国策でも一カ所しか登場せず、普通であれば全くの無名の人物となります。

しかし、春秋戦国時代の末期を題材にした漫画キングダムで中華十弓の一人として登場し、名前が知れ渡りました。

さらに、漫画キングダムでは王騎龐煖の一騎打ちの最中に弓で射るなどの活躍もしています。

結果として、魏加は李信に斬られてしまいましたが、魏加が六将の生き残りでもある王騎を討ち取るのに大きく貢献した事になります。

逆を言えば、人気キャラでもある王騎を射てしまった事で「魏加が嫌い」というアンチを生んだ結果ともなっています。

しかし、戦いは勝つ事が重要であり、魏加の弓矢で王騎を射る行為には本人の正義も含まれていたはずです。

史実の魏加ですが、臨武君を将軍に任命しようとする春申君を弓を例に取り諫めた話しがあります。

それを考えれば、キングダムの作者である原泰久さんは、戦国策の魏加の存在を知っており、弓矢の名手として戦場に立たせる役柄としたのかも知れません。

尚、史実の魏加の最後がどの様なものだったのかは記録がなく不明です。

戦場で死亡したなどの記述も存在してはいません。

今回は史実の魏加を解説します。

魏加が使者となる

魏加は戦国策の楚策に名前があります。

戦国策の魏加が登場する楚策を見ると、いきなり「天下の諸侯が合従した」から始まります。

合従というのは、以外のなどの諸国が秦に対して同盟を結び対抗する手段を指します。

戦国策の記述を見ると、天下の諸侯が合従すると趙が魏加を派遣したとあります。

この記述から魏加が趙の家臣だった可能性は極めて高いと言えるでしょう。

魏加が楚に派遣された時の合従の盟約が、いつ頃のものだったのかは分からない部分が多いです。

ただし、春申君が趙と合従した時代を考えると、次の3つが考えられます。

  • 趙の孝成王の時代に首都の邯鄲を秦に包囲され平原君が楚の孝列王を説得したとき
  • 信陵君が合従軍を率いて、秦の蒙驁を破ったとき
  • 春申君が合従軍を率いて、秦を攻めたとき

趙の孝成王の時代に平原君が食客の毛遂の活躍で合従を結んだり、信陵君が魏に帰還した時も趙と楚の間で合従の盟約が結ばれました。

趙の孝成王は後に天下の賢人を招きたいと考え、臨武君と荀子に討論を行わせたりもしており、この時の臨武君は天下に名が知れた兵法家であったと考えられます。

魏加は後に春申君に「臨武君を将軍にしてはならない」と諫めており、魏加が趙の孝成王の時代に楚に派遣されたという事はないはずです。

そうなると、魏の信陵君が合従軍を率いて蒙驁を破った時か、春申君が合従の盟約を取りまとめ秦を攻めた時の事になります。

個人的には、紀元前241年の春申君が合従軍を率いて秦を攻めた時に、趙の悼襄王が綿密な打ち合わせをする為に、魏加を楚に派遣したと考えています。

241年の函谷関の戦いの裏では、龐煖率いる合従軍の精鋭部隊が秦の咸陽の間近まで迫っていました。

龐煖率いる蕞の戦いが重要であり、春申君の役目は函谷関に秦軍を釘付けにする事だったとみる事も出来ます。

それを考えると、趙の悼襄王は軍を円滑に動かす為の打ち合わせとして、魏加を楚の宰相である春申君の元に派遣した可能性も出て来るわけです。

キングダムでは函谷関の戦いの前に魏加は李信に斬られて最後を迎えていますが、史実では函谷関の戦いの頃まで生きていた可能性は十分にあります。

弓を例に取り諫める

に到着した魏加ですが、春申君と面会すると「誰を将軍にするつもりなのか」という話題となります。

魏加は春申君に「楚の将軍は誰にするつもりなのか」と訪ねたという事です。

春申君は「臨武君を将軍にするつもりだ」と述べています。

としても合従軍を率いるにあたり、大国である楚の将軍は気になる所でもあったのでしょう。

しかし、魏加は臨武君は手負いの鳥だと述べたわけです。

魏加は臨武君は弓矢で射られた鳥の様なものであり、を防ぐための将軍にはならないと説きました。

手負いの鳥は高く跳ね上がろうとしても弓矢で射られた古傷が痛み高く羽ばたく事が出来ず、臨武君も同じ状態だと述べたわけです。

魏加の話を見ると、臨武君は過去に秦軍に敗れた事が分かります。

臨武君は過去には兵法家として名を馳せていましたが、秦軍を防ぎきる事は出来なかったという事なのでしょう。

魏加は春申君に「弓矢と鳥を例にとり臨武君を将軍にしてはならない」とはっきりと告げました。

これを考えると、龐煖率いる合従軍の精鋭部隊に、春申君は楚軍を率いて臨武君を参戦させようと考えていたのかも知れません。

函谷関の戦いの方は秦軍を率いる囮だとも考えられ、秦軍を引き付ける事が出来ればよく、卓越した統率力などは、さほど必要としないとも考えられます。

魏加は秦に手痛い敗戦をした臨武君では楚の精鋭を率いても、戦いの役には立たないと考えたのでしょう。

戦国策の楚策にある魏加と春申君の話は、魏加が「臨武君を将軍にしてはならない」とはっきりつ告げた部分で終わっています。

春申君が魏加の進言を入れて臨武君を将軍に任命したのか、しなかったのかは記録されていません。

尚、241年の函谷関の戦いは、春申君は函谷関を抜く事が出来ず、龐煖も蕞の戦いで勝利を得ることが出来ずに撤退しました。

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