春秋戦国時代

荀息は忠義に殉じた謀臣

2021年12月12日

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宮下悠史

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名前荀息(じゅんそく)、別名・原氏黯
生没年生年不明ー紀元前651年
晋(春秋)
年表紀元前707年 荀に封じられる
 紀元前655年 虞を滅ぼす。(策を献策)
 紀元前651年 卓子の死により自害
コメント賢人ではあるが、忠義を優先させた事で身を亡ぼす。

荀息は晋の武公や献公に仕えた人物であり、忠義に殉じた人物とも言えます。

しかし、荀息は忠義一辺倒の人物ではなく、虞国を滅ぼした時には、見事な策略を述べ実行し、兵法三十六計の仮道伐虢の元になった話もあります。

荀息は策士でありながら、忠義に篤い人物であり、最後は負けると分かっていても、奚斉を盛り立てようとした人でもあります。

荀息を見る限りでは、晋の献公に対しての忠誠心は、かなり高く主君に対し誠実な人でもあった様に思います。

ただし、奚斉を立てようとするのは、融通が利かない人物としての一面も見る事が出来る様に感じました。

今回は春秋時代にで活躍した荀息を解説します。

余談ですが、史記に晋の霊公の時代に、「荀息」なる人物が登場しますが、これは「孫息」の間違いだと考えられています。

晋の霊公の時代は、献公の時代よりも遥かに後であり、武公の時代からの家臣である荀息が生きているはずもありません。

資治通鑑では、晋の霊公の時代の人物は孫息と記述されています。

荀に封じられる

今本竹書紀年によれば、紀元前707年に曲沃の武公が荀(国名)を滅ぼしたとあります。

荀は周王朝と同じ姫姓の国であり、曲沃の武公は同姓の国を滅ぼした事になるのでしょう。

曲沃の武公は、荀を滅ぼすと大夫の原氏黯に荀を与えたとあります。

荀を与えられた原氏黯の字が「息」だという話があり、原氏黯は荀息と呼ばれる様になったとされています。

春秋左氏伝の魯の桓公9年(紀元前703年)の記述で、下記の記述が存在します。

秋、虢仲、芮伯、梁伯、荀侯、賈伯が曲沃を攻めた。

春秋左氏伝の記述を見ると、荀侯が曲沃を攻めた事になっています。

ここでいう荀侯は荀息の事ではないと考えられています。

春秋左氏伝の荀侯が荀息になってしまうと、荀息が主君の武公を裏切り、曲沃を攻撃した事になってしまうからです。

それを考慮すると、竹書紀年の紀元前707年に曲沃の武公が荀国を滅ぼしたのは誤りだとも、春秋左氏伝の荀侯の記述が、荀息とは別の荀侯を指しているともされています。

話しの流れで考えれば、曲沃の武公が目障りな虢仲に味方した、荀国の君主をどこかの段階で報復に出て滅ぼし、荀息を封じた事になるのでしょう。

尚、曲沃の武公は紀元前679年にの本家である晋侯緡を滅ぼし、周の釐王から晋侯として認められています。

曲沃の武公は、晋の武公とも呼ばれています。

晋の武公が亡くなると、晋の献公が晋公となり、荀息は晋の献公に引き続き仕えました。

主君の命令が絶対

晋の献公は驪戎を討伐し、驪戎の娘である驪姫を手に入れています。

の大夫である史蘇は、驪姫が晋を乱すと予言しました。

当時の晋は太子の申生がおり、有力公子として重耳と夷吾がいたわけです。

晋の献公は名が通っている申生、重耳、夷吾を遠ざける様になり、驪姫が生んだ奚斉を跡継ぎにしたいと考える様になります。

晋の献公が申生を廃そうとしている事を知り、晋の大夫である荀息、里克、丕鄭が話し合う事になります。

里克が史蘇の予言が的中しそうだが、どうすればいいのか?と荀息と丕鄭に問うと、荀息は次の様に答えました。

荀息「君主に仕える者は精一杯努力し、政務に励むべきであり、君命には逆らわぬものだ。

主君が後継者に指名した者に、臣下は従うだけである。迷う事は何もない。」

荀息は主君である晋の献公が指名した者を君主として仰ぎ、従うと宣言したわけです。

荀息の言葉には晋の献公への忠義を感じますし、晋の献公の言葉が絶対だと考えていたのでしょう。

ただし、この時に丕鄭は「義や徳に従うべきであり、惑いには従わない。」と述べています。

里克は荀息や丕鄭の言葉に理解を示しつつも、静観を決め込む事を宣言しました。

後に、荀息と丕鄭、里克の考え方の違いが、晋の乱れに発展していく事となります。

虞の滅亡

史記に荀息が策を立て、が虞を滅ぼすのに貢献した話があります。

晋は長年の宿敵でもある虢を滅ぼそうと、晋の献公は考える様になります。

晋が虢を滅ぼすには、虞に道を借りて通る必要があったわけです。

この時に、荀息は晋の献公の宝でもある、屈地の馬と垂棘の璧を虞に贈り、道を借りる様に進言しました。

しかし、晋の献公は屈地の馬と垂棘の璧を惜しみ、難色を示しますが荀息は、次の様に述べています。

荀息「もし虞に道を借りる事が出来れば、虞には一時的に宝を預けるだけの事となります。」

荀息は晋の献公に虞が道を貸してくれれば、虞を滅ぼす事が出来るから、宝も取り返す事が出来ると述べたわけです。

しかし、晋の献公は虞には宮之奇なる賢人がいるから、この策は上手くいかないのではないか?と考えます。

荀息は宮之奇の性格を見抜いており、虞公と距離が近すぎる関係にあり、宮之奇は性格が優しく虞公を諫止する事が出来ないと述べます。

晋の献公は荀息の言葉に納得し、荀息を虞に派遣しました。

荀息の外交は成功し、虞公は屈地の馬と垂棘の璧を受け取り、晋に道を貸しただけではなく、虞国の軍隊も出し虢を攻撃した話があります。

晋は一度目の遠征で虢の副都である下陽を滅ぼし、2度目の遠征では虢の首都である上陽を占拠し、虢は滅亡しました。

晋軍は虢を滅ぼすと、虞国に侵攻し虞も滅ぼしてしまったわけです。

荀息の予定通り、屈地の馬と垂棘の璧は晋の献公の元に帰ってきました。

荀息といえば、忠臣としてのイメージが強い様に思いますが、実際には忠義だけの人ではなく謀臣でもあった事が分かるはずです。

尚、を滅ぼした時に虞公だけではなく井伯、百里奚も晋軍の捕虜になった話があります。

後に百里奚は、秦の穆公の宰相となり活躍する人物です。

最初にも述べましたが、兵法三十六計に仮道伐虢なる策があり、晋の献公、荀息、虞公の話が元になっています。

晋の宰相となる

では驪姫が優施の策を用いて暗躍し、太子申生を自害に追い込んでいます。

晋の献公は申生が亡くなると、驪姫の子である奚斉を後継者に指名しました。

この時の晋の献公は老年に達しており、献公の驪姫への寵愛だけで太子に指名した奚斉に、大臣達が従うか不安だったわけです。

晋の献公は荀息を宰相に任命しようと考え、荀息に奚斉を守ってくれるか確認すると、次の様に答えた話があります。

荀息「私は力と忠義を尽くし命令に従おうと思います。

成功したら主君の力であり、失敗したら私も後を追って自害します。」

晋の献公は荀息の言葉に満足し、何をもって約束してくれるのかと問うと荀息は次の様に述べます。

荀息「私は死者を送り新君に仕え、どちらにも二心を持って使える事はしません。

例え死者が生き返ったとしても、恥じない行動を慎んで行いたいと考えます。」

晋の献公は荀息の言葉に納得し、荀息を宰相に任命し奚斉を託しました。

晋の献公には、荀息の策謀と忠義が十分にあり、奚斉を任せられると判断したのでしょう。

荀息の言葉からも、過去に史蘇の予言に関して里克や丕鄭と話した時と、何一つ変わっていない事が分かります。

荀息の最後

里克と荀息

晋の献公が亡くなると、里克は申生、重耳、夷吾の三公子を支持していた者たちが反旗を翻すと述べます。

この時の里克は、奚斉を廃し重耳を晋君に立て様と考えていましたが、荀息の考えを確認した話があります。

荀息は三公子の徒党が反乱を起こせば、奚斉が滅びる事は明白であり、荀息は「反乱が起きたならば、自分は奚斉と共に死ぬだけだ。」と述べます。

荀息の考えを聞いた里克は「荀息が死んでも奚斉は廃されるし助からない。荀息の死は無駄になる。」と答えますが、荀息は次の様に述べます。

荀息「私は先君との約束がある。先君との約束を反故にし、我が身を救う事は出来ない。

私の死は無駄になるのかも知れないが、死を免れようとは微塵も思わない。

人は誰でも善を求め、その気持ちが私よりも劣る事も無いだろう。

私は二心を持つ事はないし、貴方に二心を持つ様に勧める事も無い。」

荀息は里克に対し、晋の献公との約束を第一とし、奚斉と共に滅びると述べた事になるでしょう。

荀息の「貴方に二心を持つ様に勧める事はない。」の言葉からは、既に里克の心が重耳にある事も分かっていたのでしょう。

里克は荀息を味方に出来ない事を悟ると、丕鄭の元に行き、里克は丕鄭と共に奚斉を殺害しました。

荀息の死

奚斉が殺害されると、荀息は自害しようとしますが、ある人が驪姫の妹の子である卓子を晋君に立てる事を進言します。

荀息は奚斉は命を落としたが、驪姫の妹の子である卓子であれば、晋の献公も納得すると思ったのか、卓子を晋君に擁立しました。

卓子を即位させると荀息は、晋の献公を正式に埋葬した話があります。

しかし、里克は驪姫の勢力の完全排除を考えており、卓子も殺害してしまいます。

卓子も死んでしまった事で、驪姫の一族で晋君として立つ者がいなくなり、驪姫も殺害されました。

荀息は晋の献公との約束を守れなかったと判断し、自害したわけです。

荀息は驪姫、奚斉、卓子を守る事は出来ませんでしたが、晋の献公との約束を守ったとは言えるでしょう。

尚、孔子の春秋だと里克が卓子と荀息を殺害した記述があり、荀息を殺害したのは里克となっています。

どちらにしろ、荀息は卓子と共に滅んだ事は間違いないのでしょう。

荀息の子孫

荀息は奚斉や卓子など驪姫に与した事で、荀息の子孫は晋の恵公や懐公の時代は没落してしまいます。

しかし、重耳が晋の文公となると、荀息の子である荀林父は重用され抜擢される事になります。

荀林父は中行氏の祖となった人物です。

荀林父は邲の戦いで、楚の荘王に敗れますが、後に挽回した人でもあります。

後にでは六卿が主君である、晋公以上の勢力を持つ様になりますが、荀息の子孫では荀氏と中行氏が六卿に名を連ねています。

ただし、荀息の子孫である荀氏と中行氏は戦国七雄に名を連ねる事はなくとの争いに敗れて滅んでいます。

尚、晋陽の戦いで趙襄子に破れ滅びた智伯なども荀息の子孫となります。

荀息の評価

晋の献公の子である申生が孝に殉じて亡くなったと言うのであれば、荀息は忠義の為に亡くなったと言えるでしょう。

荀息の言葉から推測すると、の申生、重耳、夷吾を支持していた人々が乱を起こせば、奚斉が負ける事は分かっていたはずです。

それを考えると、荀息は負けると分かっていても奚斉を補佐したと言えるはずです。

ただし、主君の命令に従うのか、民衆や臣下の輿望に従うのかは考える必要があると感じています。

尚、晋の献公は評価が分かれる君主ではありますが、申生の様な孝子と荀息の様な忠臣を持てた事は幸せだと言えるでしょう。

参考文献:史記、春秋左氏伝、今本竹書紀年など

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