三国志

蔣琬(しょうえん)は幻の蜀の東征計画を立てた人物

2023年3月19日

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宮下悠史

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名前蔣琬(しょうえん) 字:公琰
生没年生年不明ー246年
時代後漢末期、三国志、三国時代
主君劉備劉禅
一族子:蔣斌、蔣顕 従弟:劉敏、潘濬
年表230年 丞相長史となる
235年 大将軍、録尚書事、安陽亭侯となる
239年 大司馬となる
画像©コーエーテクモゲームス

蔣琬は正史三国志に登場する人物であり、諸葛亮の後継者となった事で有名な人物です。

蔣琬は諸葛亮、費禕、董允らと共に蜀の四相に数えられています。

蔣琬は荊州零陵郡湘郷県の出身であり、一般的には蜀の荊州派に属した人物とされています。

蔣琬は諸葛亮の後任となり、劉禅を補佐し北伐を行いますが、諸葛亮とは違った方法での魏打倒を目指しました。

蔣琬は荊州方面から、魏に侵攻する蜀の東征計画を考えた人でもあります。

ただし、荊州方面から東進し、魏を攻撃する蔣琬の北伐は賛否両論があり、現実的ではないと非難され費禕や姜維にも反対されたと伝わっています。

それでも、蔣琬は漢中に駐屯し幕府を開き、滞りなく政務を行ったと言えるでしょう。

今回は諸葛亮亡き後に、北伐を志した蔣琬の解説をします。

因みに、呉の孫権に仕えた潘濬は、蔣琬の妹を妻としています。

潘濬は「剛」の人でもありますが、蔣琬はどちらかと言えば「柔」の人だと言えるでしょう。

劉備の入蜀

先にも述べた様に蔣琬は、荊州零陵郡湘郷県の人であり20歳の時に外弟の劉敏と共に名が知られていたとあります。

赤壁の戦い後に荊州を劉備が支配する事になり、この時に蔣琬も仕官したのではないか?とも考えられています。

正史三国志の記述によれば、劉備は州の書佐として劉備に随行し、蜀に入ったとあります。

この記述を見る限りでは、劉備の入蜀の時に龐統らと共に、劉備に付き従い蔣琬も蜀に入ったという事なのでしょう。

ただし、蔣琬が劉備の入蜀に付き従ったと言っても、どの様な活躍をしたのかは記述がなく分かっていません。

それでも、劉璋との戦いでは劉備軍は各地で劉璋の兵を圧倒しており、蔣琬も何かしらの功績はあったように感じています。

劉備は蜀を奪取すると、蔣琬を広都の長に任命しました。

仕事を放置し泥酔

正史三国志によれば、劉備が遊覧帰りに突如として広都県に訪れると、蔣琬は仕事を殆ど放置しており、泥酔していたとあります。

広都県は蜀漢の本拠地である成都のすぐ近くでもあり、劉備は蔣琬の様子を見に行ったのでしょう。

劉備は仕事が溜まり泥酔している蔣琬に腹を立て、処刑しようとしました。

ここで軍師将軍の諸葛亮が懇請し、次の様に述べています。

※正史三国志 蔣琬伝より

諸葛亮「蔣琬は国家の社稷を治める大器であり、百里四方を治める才ではありません。

彼の政治は住民を安定させる事を根本としており、地積をあげ飾り立てる事を先にしてはいけないのです。

願わくばご主君は、その点を十分にみて検討して下さいますよう」

諸葛亮は蔣琬に変わり弁明したわけです。

劉備は諸葛亮の事を敬っており、処罰を加えず免職に留める事にしました。

劉備は過去に仕事を滞らせた龐統を罰しようとしますが、魯粛が「龐統は大器」と述べ助け舟を出した話があります。

劉備は似たような経験を蔣琬で再びした事になるでしょう。

この後に、蔣琬は取り調べを受けますが、1つの牛の頭が門前に転がり、たらたらと血を流す夢を見て趙直に相談する事になります。

趙直は蔣琬が「将来は大臣になる」とする夢だと告げました。

後に蔣琬が諸葛亮の後継者になる事を考えれば、趙直の夢占いは当たったと言えるでしょう。

尚、趙直の夢占いの内容に関しては、趙直の記事で書いています。

蔣琬から見る劉備と諸葛亮の対立

華陽国志を著した東晋の常璩によると、「劉備の入蜀が達成されると荊州人が尊ばれた」とあります。

蜀漢では尚書系を中心に荊州名士が多く登用されました。

荊州名士の筆頭が諸葛亮であり、諸葛亮が政治基盤を整える為に、多くの荊州名士を優遇したと考えられています。

劉備は諸葛亮の力が強くなりすぎても問題と考えたのか、法正を重用しました。

諸葛亮の力を抑え込みたい劉備と荊州名士の力を増大させたい諸葛亮の関係が蔣琬の対応に表れたとする説があります。

諸葛亮の力を抑えたい劉備は蔣琬を罰しようと考え、諸葛亮は自分の支持基盤である荊州名士である蔣琬を守ったという事です。

丞相府に招かれる

劉備も蔣琬の有能さを知ってか、間もなく什邡県の長官に任命しました。

仕事を滞らせ泥酔していた蔣琬を劉備は形として罰しない訳にはいかなかっただけで、劉備も蔣琬の才能を認めていたのでしょう。

後に劉備は法正黄忠の活躍もあり、定軍山の戦い夏侯淵を破り群臣の推挙により、漢中王に即位しました。

劉備が漢中王に即位すると、蔣琬は中央に呼ばれ尚書郎となります。

この後に荊州の関羽が徐晃らに敗れ捕らえられ荊州を失いました。

関羽が荊州を失った時に、蔣琬の従弟である潘濬は呉に移り孫権に仕える事になります。

劉備も夷陵の戦いで陸遜に敗れ、白帝城で崩御し、これにより蜀は完全に荊州を失っています。

諸葛亮が223年に丞相府を開くと、蔣琬を召し出し東曹掾としました。

東曹掾は官吏の任用や登用を行う役職です。

蔣琬が東曹掾になったと言えば、諸葛亮の信任が厚く出世した様に思うかも知れません。

しかし、実際の東曹掾は県長や尚書郎と同じ秩石400石なので、出世ではないとする見方もあります。

それでも、諸葛亮を蔣琬を近くに起きたいと考え、呼び出している事から高く評価されていたのでしょう。

茂才に推挙される

蔣琬は茂才に推挙される事になります。

諸葛亮としては、自分の後継者の一人として蔣琬をピックアップしており、出世コースに乗せたいと考えていたのでしょう。

しかし、蔣琬は劉邕、廖化、陰化、龐延らに譲り茂才を受けようとはしませんでした。

蔣琬が茂才を受けなかったのは劉邕・廖淳・陰化・龐延らが、同じく荊州の出身であり、自分よりも先輩の方々に譲ったという事なのでしょう。

しかし、諸葛亮は次の様に述べ蔣琬を説得しました。

※正史三国志 蔣琬伝より

諸葛亮「思うに、近しき者の期待を裏切り推挙の恩徳を無視し、その結果として百姓を滅ぼしては人々の同情を得る事が出来ない。

実際に遠くの者や近しき者に辞退したという道理を理解させる事も出来ない。

それ故に、君は過去の実績も踏まえ推挙された事をはっきりと示し、よってこの選抜の妥当さや重要さを明らかにするべきである」

諸葛亮は蔣琬に自分の意見を述べ、蔣琬を参軍に任命しました。

これにより、蔣琬も軍事に深く関わる事になります。

諸葛亮の北伐

第一次北伐

227年になると諸葛亮の第一次北伐が始まる事になります。

諸葛亮は漢中に駐屯する事になり、蔣琬は長史の張裔と共に留守を任され事務を取り仕切りました。

第一次北伐の前には出師の表が皇帝の劉禅に出されたわけですが、蔣琬は郭攸之、費禕、陳震、張裔らと共に良臣だと述べられています。

諸葛亮の第一次北伐では馬謖張郃街亭の戦いで破れ、失敗に終わり世に言う泣いて馬謖が斬るがありました。

蔣琬は後に馬謖が処刑された話を聞くと「馬謖は得難い有能な人物」として惜しむ声を上げています。

高い兵站能力

230年になると蔣琬は張裔に代わり、長史となり撫軍将軍にも任じられています。

丞相長史は秩石は千石であり、そこまで高い地位ではありません。

それでも丞相長史の役職自体は重要であり、諸葛亮の北伐を支える事になります。

諸葛亮は何度も北伐を敢行しましたが、蔣琬は常に十分な糧食と軍兵を供給し、遠征軍を支えたとあります。

諸葛亮の北伐と言えば、木牛流馬などを開発しましたが、兵站を繋げる事が出来ず撤退しているイメージがあり、蔣琬の記述と矛盾する様に思うかも知れません。

しかし、蔣琬がいたのは益州であり、蔣琬が前線である漢中まで、十分な食料や軍兵を供給したという事なのでしょう。

蔣琬は各地の物資を集めて漢中までは滞りなく送りましたが、漢中から前線への物資の供給が上手く行かなかったのが蜀軍です。

蔣琬は230年に長史となりましたが、231年の第四次北伐では、漢中にいた李厳が長雨の関係もあり兵站を繋げる事が出来ませんでした。

尚、第四次北伐の時に、蜀軍ナンバー2の李厳が嘘を述べた事で失脚しています。

諸葛亮は蔣琬の働きを高く評価し、常に次の様に述べていたとあります。

※正史三国志 蔣琬伝より

諸葛亮「公琰(蔣琬)は忠義を行い正道を志している。

私と共に王業を支える者なり」

さらに、諸葛亮は内密に劉禅に上表して、次の様に述べました。

私にもし不幸があれば、後の事は蔣琬に託されますように

蔣琬は過去に職務を滞らせ泥酔していた過去がありますが、この時には有能な官吏になっていた事が分かります。

諸葛亮は蔣琬を高く評価し、この時点で諸葛亮の後継者が蔣琬だというのは規定路線となっていたのでしょう。

楊儀と魏延の対立

益部耆旧雑記によれば、危篤に陥った諸葛亮に李福が後継者を訪ねると蔣琬を指名し、蔣琬の次を聞かれると費禕の名前を挙げ、次を聞かれても答えなかった話があります。

諸葛亮は西暦234年に五丈原の戦いで、司馬懿と対峙している最中に没しました。

諸葛亮が亡くなると撤退する事になりますが、この時に楊儀魏延の間で対立が起き、双方から相手が叛逆したとする報告が入ります。

1日に何度も羽檄が付いた至急の知らせが成都に入りました。

蜀の皇帝である劉禅は魏延と楊儀のどちらが正しいのか?と問うと、蔣琬と董允は魏延が疑わしいと述べています。

蔣琬は事態を収める為に兵を率いて北上しました。

しかし、蔣琬が数十里行った所で魏延が、馬岱に斬られ亡くなった話を聞く事になります。

これにより蔣琬は成都に帰還しました。

尚、楊儀は自分が諸葛亮の後継者になれると考えていたのに、なる事が出来ず不満をぶちまけた事で、庶民に落され漢嘉郡に流されています。

それでも、楊儀は上書し蔣琬を誹謗した事で逮捕され、最後は自殺しました。

蜀の最高権力者

劉禅は蔣琬を尚書令に任命し、程なくして仮節、行都護を与えられ益州刺史も兼任しました。

さらに、235年には大将軍、録尚書事となり安陽亭侯に封じられています。

諸葛亮が没した時に、蔣琬が後継者になる事は決められていましたが、「抜擢された」という記述もある様に、蔣琬の役職はそれほど高くはありませんでした。

こうした事情から段階を踏み、蔣琬に政治や軍事における様々な役目を負わせ、権力を集中させる必要があったわけです。

蔣琬が大将軍、録尚書事になった時には、蜀の中での劉禅を除けば、臣下の中での最高権力者は間違いなく蔣琬となっていました。

蔣琬は段階的に出世し、蜀の最高権力者となったわけです。

逆を言えば、諸葛亮の後継者は蔣琬と決まっていましたが、蔣琬が出世する前に諸葛亮が亡くなってしまい、こうした形で権力を握る事になったのでしょう。

人々を心服させる

正史三国志の蔣琬伝によると、蜀は諸葛亮を失った事で遠くの者も近しき者も危惧の念を抱いたとあります。

諸葛亮は夷陵の戦いで劉備陸遜に敗れ壊滅的な打撃を受けたにも関わらず、短期間で復活し北伐まで行わせた抜群の手腕を持っていました。

その諸葛亮を失い人々は、蜀の未来を危ぶんだという事なのでしょう。

こうした中で後継者となった蔣琬は、悲しむ様子も無ければ、喜びの色もなく、態度もいつもと変わらなかったとあり、言動も常日頃と変わらなかったとあります。

蔣琬の態度を見た者は次第に落ち着きを取り戻し、蔣琬に心服する事となります。

蔣琬は諸葛亮死後の蜀漢を纏め上げる事に成功したとも言えるでしょう。

劉禅の詔

西暦238年に魏に反旗を翻した公孫淵を討伐する為に、曹叡司馬懿に軍を率いらせ遼東に向かわせました。

こうした中で劉禅は蔣琬に詔を降す事になります。

※正史三国志 蔣琬伝より

戦果は未だに収まらず、曹叡は驕慢で凶暴な男である。

遼東の三郡は暴虐に苦しみ離反し、魏は大軍を動員してこれを攻撃している。

昔、秦が滅んだのは陳勝や呉広の反乱が口火となっており、今の状態は天が与えた好機なのである。

君は諸軍を統率し、漢中へ赴き呉の動きに合わせ東西から呼応し、敵の隙に乗じる様にせよ。

劉禅は詔で魏が北方の公孫瓚討伐に行っている隙に、呉の孫権と連携して魏を討てと命令しました。

諸葛亮の意思を継ぎ蔣琬に北伐を命令した事にもなるでしょう。

劉禅はの末期に起きた陳勝呉広の乱と同じ様に、強者の魏を滅ぼすチャンスだと述べた事になります。

劉禅は呉と連携して魏を討つ様に詔をしたわけですが、呉では呂壱事件がおり、孫権は呉の群臣たちの信任を失っており、遠征には不利な状態でした。

それでも、蔣琬は兵を率いて、その年の11月から漢中に駐屯する事となります。

劉禅は239年には蔣琬を大司馬に任命しました。

蔣琬は大将軍になっていましたが、大司馬が軍事の最高司令官とする場合もあり、蔣琬の場合は、さらに出世したという事なのでしょう。

尚、大将軍と大司馬は、その時々により、どちらが上なのかは変わります。

楊戯の性格

蔣琬は漢中に駐屯すると楊戯を東曹掾に任命しますが、楊戯は大まかな性格をしていたとあります。

蔣琬と楊戯は議論をしていると、楊戯は返事をしない事が何度もありました。

ある人が楊戯を陥れようと考え、蔣琬に次の様に述べています。

※正史三国志 蔣琬伝より

公が楊戯に話しかけているのに、返事もしないのは目上の者に対し、失礼極まりない事です。

楊戯の蔣琬に対する態度を問題視したわけです。

しかし、蔣琬は次の様に答えました。

蔣琬「人の心が同じでないのは、各々の顔が違うのと同じだ。

人と向かい会っている時は従い、後で文句を言うのは、古人の戒める所である。

楊戯が私の意見に賛成しようと思えば、彼の本心に違う事になり、私の言葉に反対すれば、私の非が明らかになると考え、それで沈黙していたのだ。

これが楊戯の快い所なのである」

蔣琬は楊戯の態度を評価していたわけです。

蔣琬の態度は奥ゆかしくも感じますが、立派な心掛けを持っていた人物だという事が分かります。

尚、蔣琬には自分を批判した楊敏がいましたが不問とし、楊敏が獄に繋がれた時も特別に罰する事もなく公正に判断した話があります。

幻の蔣琬東征計画

蔣琬は北伐を志したわけですが、諸葛亮の北伐が成し遂げられなかったのは、秦川を伺いながら険阻な道などに阻まれ食料輸送が出来なかったと考えました。

蔣琬は北を目指すのではなく、水上から東に向かい荊州から攻め上った方がよいと考えたわけです。

蔣琬はそこで多くの船舶を造り漢水や沔水を通り、魏興や上庸を攻撃しようと計画しました。

漢水や沔水を下る方向であれば、後方からの食糧支援も受けやすく、北伐で長安を目指すよりも魏を打倒しやすいと考えたのでしょう。

蔣琬は東征を行い荊州を目指そうとしますが、蔣琬は持病が何度も再発し、実行する事が出来なかったわけです。

しかも、蜀の大部分の群臣は蔣琬の東征計画に反対したとあります。

川の流れに従い東征する方法は劉備が、夷陵の戦いで陸遜に敗れた方法に非常によく似ています。

劉備が夷陵の戦いで大敗北を喫したのは、逃げる時に上流に向かうのであり、戦いに敗れれば退却が困難であったからだと言われます。

それらを考慮すれば、蜀漢の群臣たちは蔣琬が東征計画を行えば、劉備の二の舞になると危惧したのでしょう。

劉禅費禕姜維を派遣し、蔣琬には計画の中止を求める事になります。

費禕や姜維も蔣琬の東征計画には反対だったのでしょう。

尚、蔣琬が東征計画を出したのは、この頃には蜀の国力が回復しており、魏に対し戦争を行えると判断した結果なのではないかとも考えられています。

蔣琬の最後

蔣琬は劉禅、費禕、姜維の言葉もあり、東征はやめ涼州を攻撃目標とする従来の北伐プランに戻しました。

蔣琬は上疏して、過去に魏の郭淮を破った事を例にあげ、姜維を涼州刺史に任命する様に要請しています。

蔣琬は姜維が北伐を行い河右(隴西)を制したら、自らが後軍になると述べ、費禕に大将軍・録尚書事を譲りました。

さらに、蔣琬は涪が水陸両道で四方に通じていると述べ、蔣琬は後退して涪城に向かう事となります。

蔣琬は費禕に大将軍・録尚書事を譲っており、この時には体調がかなり悪化していたのでしょう。

蔣琬の東征計画に多くの者が反対した事で、精神的にも辛かった部分もあったのかも知れません。

蔣琬の病状は悪化の一途を辿り、246年に亡くなったと記述されています。

蔣琬は死後に「恭」の諡が贈られました。

蔣琬が亡くなると費禕が蜀の中心人物となりますが、北伐は控える様になり、再び北伐が再開されるのは陳祗が政務を取り、姜維が北伐を行う時代を待たねばならなくなります。

尚、蔣琬の家では蔣斌が後を継ぎますが、蜀の滅亡の後に起きた鍾会の乱の時に、弟の蒋顕と共に亡くなっています。

蔣琬の評価

陳寿は正史三国志の評の部分で、蔣琬は品性がよく言動は立派で威厳を持っていたと述べています。

蔣琬と費禕諸葛亮の方針を受け継ぎ、改める事が無かったと言います。

蔣琬の時代は辺境地帯は安定し、国家は和合したと評価しました。

しかし、陳寿は蔣琬は小さな町を治める道をわきまえてはいなかっとも述べています。

小さな町を治める事が出来なかったというのは、蔣琬が劉備の時代に政務を滞らせ泥酔していた事を指すのでしょう。

裴松之も蔣琬や費禕を国をまとめあげ、いい加減な軍事行動を起こさなかったと評価しています。

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