名前 | 徐福(じょふく) |
別名 | 徐巿 |
生没年 | 不明 |
主君 | 始皇帝 |
コメント | 伝説となった人物 |
徐福は始皇帝に仕えた方士で、三千人の男女を連れ海に出た事でも有名です。
日本にも徐福を祀っている神社などもあり、知名度は高い様に思います。
しかし、徐福は最後まで不老不死の秘薬を見つける事が出来ませんでした。
史記の始皇本紀だと徐福は始皇帝に大金をせしめ、口から出まかせと言った人物として描かれています。
ただし、史記の淮南衡山列伝では、徐福が平原広沢の王となった話が記載されているわけです。
尚、三国志に諸葛亮を推挙して劉備の元を去った徐庶という人物がおり、徐福を名乗っていました。
しかし、三国志の徐庶と徐福は単なる同姓同名であり、何の関係もありません。
仙人を探す旅
始皇28年(紀元前219年)に始皇帝は巡幸を行い泰山で封禅を行いました。
始皇帝が頌徳碑を建て終わると、斉人の徐福(徐巿)が次の様に述べています。
※史記 始皇本紀より
徐福「海中に三つの神山があると聞いています。
そこには蓬莱、方丈、瀛州があり、仙人がいると聞いております。
斎戒を行い童男童女数千人を連れ仙人を探したいと思います」
始皇帝は徐福の言葉を聞くと、童男童女三千人を徐福と共に海に出しました。
これにより徐福の仙人探しの旅が始まったわけです。
尚、斉の地は戦国時代に学問が盛んになり五行説や陰陽、鄒衍の五徳終始説などが盛んな地域でもありました。
神仙思想も流行しており、徐福も斉で学んだのでしょう。
ただし、徐福が本当に仙人がおり不老不死になれると思って探していたのか、始皇帝から金を巻き上げる為に嘘を言ったのかは不明です。
方士への誹謗
始皇帝は不老不死を得る為に、盧生などの方士に大金を払い仙人を探させたりもしています。
盧生は「秦を滅ぼす者は胡なり」とする預言めいた文章を提出し、結果として始皇帝は蒙恬に命じて匈奴を攻撃させました。
さらに、盧生は始皇帝に真人になる方法を教え、始皇帝が何処にいるのか明かさなくなったわけです。
盧生と侯生の逃亡に激怒しますが、始皇帝が発した言葉の中に次の文字が存在します。
※正史三国志 始皇本紀より
始皇帝「徐巿(徐福)に与えた金は巨万に値するのに仙薬を得る事も出来ず、奴らが富を貪っているという誹謗だけが毎日届く」
始皇帝の言葉から、いつになっても不老不死の秘薬を見つけ出す事が出来ない徐福らに対し、非難の声が集まっていた事が分かるはずです。
盧生らの逃亡は徐福の立場を危うくしたのでしょう。
始皇帝の大魚退治
大鮫
始皇37年に徐福の話が再び出てきます。
始皇帝は焚書坑儒を行いましたが、徐福は処罰されず生き延びていたわけです。
既に徐福が秘薬や仙人を探す様になり9年が経ちましたが、何の成果も挙げる事が出来ませんでした。
しかし、始皇帝が徐福に費やした費用は莫大であり、徐福としても「成果ゼロ」という訳には行かなかったのでしょう。
徐福は罰せられる事を畏れ偽って、次の様に述べました。
※史記 始皇本紀より
徐福「蓬莱では新薬を得る事が出来るのですが、いつも大鮫に阻まれてしまい島に行く事が出来ません。
腕の立つ射手を護衛とし、大鮫が現れたら連発の弓で射て欲しいと考えております」
始皇帝本紀だと、ここで徐福の記述は途切れますが、始皇帝は自ら海に乗り出す事になります。
海に乗り出した始皇帝
徐福の言葉を聞き終わった後に、始皇帝は海神と戦う夢を見たと言います。
始皇帝は徐福の話もあり、気になったのか夢占いの博士に問うと、次の答えが返ってきました。
博士「水神は目には見えないものです。
大魚である蛟竜が現れるのが、その兆候となります。
現在の陛下は祈祷祭祀に謹んでおられるのに、悪神が現れてしまいました。
悪神を排除する事が出来れば、善なる神が現れる事でしょう」
始皇帝は徐福や博士の言葉を信じ、海上に行く者には大魚を捕える道具を持たせ大魚が現れれば、始皇帝が自ら連発式の弓で射ようとしました。
始皇帝は大魚を倒す為に、自ら海に乗り出したわけです。
始皇帝は琅邪から労山・成山に行きますが、大魚が出る事はありませんでした。
しかし、之罘で大魚が現れ射殺する事に成功しています。
尚、始皇帝が射殺した大魚は大鮫魚の名前でも知られています。
始皇帝はこの直後に平原津まで行くと、病気となり最後が訪れる事になります。
徐福に偽の大魚の話を聞かされ、始皇帝が海に乗り出し魚を仕留め病気になる姿は、権力を極めた者の悲哀さも滲んでくるわけです。
始皇帝本紀では徐福は、この後には出て来ませんが、淮南衡山列伝の中に徐福と始皇帝の会話が掲載されており、徐福が海に出た事になっています。
徐福が海に出る
淮南衡山列伝で劉安と伍被の会話の中で、徐福が登場しています。
伍被によると始皇帝は徐福を遣わし東海に向かわせ、仙人及び不死の薬を探させたと言います。
しかし、徐福は見つける事が出来ず、帰還すると偽って始皇帝に「自分は海中の大神に出会った」と告げました。
淮南衡山列伝の伍被の言葉では、徐福は海の大神に出会ったと嘘を述べた事になっているわけです。
徐福は次のやり取りを捜索した事になっています。
※史記 淮南衡山列伝より
大神「お前は西の皇帝(始皇帝)の使者だというのか」
徐福「そうです」
大神「お前の求めるものはなんだ」
徐福「延年長寿の薬を望んでおります」
大神「おまえの持っている秦王からの贈り物が少なく、見せる事は出来るが持ち帰る事は許さぬ」
言い終わると、直ぐに徐福を連れて蓬莱山に行き霊芝の生えている宮殿を見せたと言います。
蓬莱山の宮殿には使者がおり、銅色で竜の形をしており、光が指して天を照らしていたと始皇帝に伝えました。
さらに、徐福は大神に次の様なやり取りがあったと始皇帝に伝えています。
徐福「どれほどの礼物を持ち献上すればよろしいでしょうか」
大神「良家の男女と百工を献ずれば得る事が出来よう」
淮南衡山列伝の伍被の言葉によれば、徐福の言葉を聞いた始皇帝は喜び、良家の男女三千人を用意し五穀の種と百工(技術者)と共に徐福を旅立たせました。
徐福は平原・大沢を手に入れ、平原広沢の王となり戻らなかったで話が閉められています。
ここでいう平原広沢は「広い平野と湿地の土地」を指し、地名ではないと考えられています。
中国にも平原と呼ばれる土地はありますが、明らかに別の場所だと言えるでしょ。
尚、徐福が王になったとされる平原大沢が何処なのかは不明です。
上記の話を伍被が劉安にしたのは「始皇帝の様な不老不死を求め方士に騙される様な君主でも謀反は成功しないのに、始皇帝よりもマシな漢の武帝を相手に謀反を起こしても成功はしない」と伝える為です。
それを考えれば、伍被は信憑性が薄い当時の徐福伝説を用いて、劉安を諫めた可能性も高いと言えるでしょう。
徐福の人物像
徐福は海に出たまま帰って来なかったとする見解が強いです。
徐福に関しても、単なる詐欺師だったとする意見もあれば、徐福自身は神仙思想に没頭しており、パトロンとして始皇帝を利用したなどの説もあります。
徐福が本気で蓬莱があると信じていたとしても、探すには莫大な費用が必要であり、天下統一し勢いがあった秦の皇帝である始皇帝を利用したとも考えられています。
ただし、現代人の感覚でみれば分かる様に、徐福は不老不死を探す事が出来ていません。
徐福が夢と浪漫を追い求めて始皇帝に近づいたのか、金目的で近づいたのかは、正確な部分は不明です。
徐福伝説
徐福は単なるペテン師だったとする見解もありますが、各地に徐福伝説があります。
正史三国志の東夷伝に、三韓と呼ばれる馬韓、弁韓、辰韓の話があります。
東夷伝に馬韓に秦の亡命者がやってきて、土地を割譲し辰韓が誕生したとする説が掲載されています。
辰韓は秦韓であり秦からの亡命者の国であり、この亡命者が徐福だったのではないか?とする説です。
他にも、韓国では徐福が済州島に辿り着いたが、目当ての薬草が見つからず秦に引き返した話も残っています。
日本に徐福がやってきて神武東征を行ったとする説もあります。
この説を採用すれば、神武天皇の正体は徐福という事になるはずです。
尚、徐福が渡来したとされる地は鹿児島県から青森県まで20カ所以上あります。
中には徐福の船が難破し、乗組員たちが流され別々の場所に漂流し、それ故に徐福が渡来したとされる地が全国に複数あるとする説も存在します。
後述しますが、日本には徐福を祀っている神社や伝承が多数ありますが、何処までが本当なのか分からない部分だとも言えるでしょう。
各地の特産品である薬草を販売する為に、徐福伝説と組み合わせて販売したのではないか?とする説もあります。
因みに、徐福はユダヤ人の失われた10の種族の一つであり、イスラエルから秦に移ってきた秦氏説もある状態です。
徐福村
1982年に江蘇省で徐阜村が発見されました。
徐阜村は過去には徐福村だったとする話もあり、徐福の伝承も多く残っていました。
その後、江西省で徐氏の家系図まで見つかったわけです。
発見された家系図によれば、徐福の子孫が中国全土に散らばった事が記載されていました。
肝心の徐阜村には徐姓の者はいませんでしたが、始皇帝を畏れて皆が姓を変えてしまったと伝わっています。
しかし、見つかった家系図自体が真実だとは考えられていません。
徐阜村にいる人々の出身地を調べてみたところ、明代以降に引っ越してきた者が多い事が分かりました。
その為、徐阜村と徐福は関係が薄いともされています。
現在は徐阜村は徐福村に名前を戻している状態です。
しかし、中国全土には徐福村が何カ所もあり、徐福の名前をあやかった部分もあるのでしょう。
亶州の徐福伝説
正史三国志の呉主伝に徐福の記述があります。
孫権は西暦230年に部下の諸葛直と衛温に、武装兵1万を率いさせ亶州と夷州を捜索させています。
正史三国志の呉主伝では始皇帝が徐福に命じて童男童女数千人を率いて海を渡り辿り着いたのが、亶州だとされています。
正史三国志では徐福が亶州に留まり子孫が増えて行き数万戸にもなり、亶州の者が会稽にやってきて商売を行ったとも記載されているわけです。
孫権は陸遜の反対も押し切り亶州と夷州を捜索させますが、諸葛直と衛温は亶州は見つける事が出来ず、兵の大半を失い代わりに夷州の民衆数千を連れ帰りました。
孫権の亶州・夷州の捜索は失敗に終わりますが、当時の呉の勢力圏にあった人々が徐福が亶州に行ったと考える人が多かった事が分かります。
尚、夷州は台湾であり亶州が日本の種子島ではなかったのか?とする説もあります。
日本各地の徐福伝説
波田須
三重県熊野の波田須は過去には秦住(はたす)と呼ばれていた話もあり、徐福が上陸したとする伝説がある地です。
波田須の矢賀集落には徐福を祀る「徐福の宮」が鎮座しています。
徐福は蓬莱を目指し海に出ますが、航海の途中で嵐に遭遇し波田須に漂着し、その地に住み着いたと伝承されています。
徐福は五穀の種や技術者を連れていた事で人々に稲作、製鉄、医療などの技術を伝えたとしています。
徐福が鎮座している場所は矢賀の蓬莱山とも呼ばれました。
波田須には徐福の墓や秦の公定通貨である半両銭も見つかっている状態です。
波田須神社 | 三重県熊野市波田須町460番ノ1 460番ノ1 |
新井崎神社
京都府の伊根町に徐福に関する伝承が残っています。
意外に思うかも知れませんが、京都の北部では外国との貿易が盛んだったと言います。
徐福は京都の伊根町で不老不死の妙薬を探し出したとする話もあります。
不老不死に秘薬はヨモギであり、徐福が求めていた物こそは九節菖蒲と黒茎の蓬だったともされているわけです。
蓬を手に入れた徐福は始皇帝の元に帰ろうとしますが、海が荒れてしまい帰還する事は出来ませんでした。
徐福は村人から慕われており、徐福は京都の新井崎で亡くなったと伝わっています。
疫病が流行った時に、徐福を新井崎神社に祀ったら治まったとする伝承もあります。
新井崎神社には徐福が祀られているわけです。
新井崎神社 | 京都府与謝郡伊根町新井8−3 |
金立神社
佐賀市の諸富町に徐福がやってきたとする話もあります。
この時の徐福が海に盃を浮かべ上陸地を占いました。
これに由来する地域が佐賀市諸富町浮盃だと伝わっています。
後に徐福は金立山にあるフロフキが不老不死の妙薬だと悟りました。
しかし、徐福は想う所があり、始皇帝がいる秦には戻らず、その地に留まったと伝承されています。
尚、徐福が村を発展させ、その後に集落は吉野ケ里遺跡があったとされる吉野ケ里王国に繋がって言ったとする説も存在します。
現在では金立神社が残っており徐福が祀られています。
因みに、金立神社には保食神と岡象売女命も祀られている状態です。
保食神は月読命に斬られた話もありますが、徐福と同様に五穀豊穣の神様でもあります。
金立神社(上宮) | 佐賀県佐賀市金立町金立3415 | 電話:0952-98-1409 |
徐福が日本に稲作を伝えたのか??
徐福が日本に稲作を伝えたのではないか?とする説が存在します。
童男童女だけではなく技術者や五穀の種を持ち、徐福が船でした事も合わせて想像されたのでしょう。
徐福は紀元前3世紀の人であり、日本で稲作が始まった時期と重なると考えたわけです。
しかし、近年の研究では菜畑遺跡が見つかっており、紀元前1000年位には水田稲作があったのではないかと考えられています。
それを考えれば、徐福が日本に来たとしても、既に日本には水田稲作があった事になるでしょう。
徐福が日本に水田稲作を伝えたというのは、真実とは言えないと感じました。