春秋戦国時代

燕の易王は初代燕王

2024年2月20日

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宮下悠史

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名前燕の易王
生没年生年不明ー紀元前321年
在位期間紀元前333年ー紀元前321年
一族子:燕王噲 孫:燕の昭王
年表紀元前323年 五国相王により燕王を称す
コメント初代燕王

燕の易王はで最初に王を名乗った人物です。

紀元前323年に公孫衍の五国相王により、中山の五国が互いを王と呼び合いました。

燕は五国相王により燕王を名乗ったわけであり、僭称したわけではなく、他国にも認められて王となりました。

燕の易王は燕の文公が無くなると、後継者となりますが、いきなりに10の城を奪われてしまいます。

ここで蘇秦が斉へ行き城を取り返して来ますが、燕の易王は蘇秦を疑いました。

蘇秦と易王のやり取りが、史記の蘇秦列伝に掲載されています。

燕の易王の逸話に関しては、蘇秦との逸話くらいしか目立った話がなく、謎の部分も多いと言えるでしょう。

燕の領地が斉に奪われる

燕の易王は燕の文公の太子だった時代に、秦の恵文王の娘を妃としました。

燕の文公が亡くなると、燕の易王が後継者となりますが、世代交代の瞬間を狙ってが燕を攻撃し10の城を奪いました。

燕の易王は蘇秦に次の様に述べています。

※史記 蘇秦列伝より

燕の易王「過去に先生(蘇秦)が燕にやってきた時に、先代は費用を与えて趙に送り出している。

その結果として、遂に六国の同盟が成ったのである。

然るに現在の状況を見るに、斉は趙を攻撃するだけではなく、燕をも攻撃している。

先生の為に現在の燕は天下の物笑いの種となってしまった。

先生は燕の為に奪われた領土を取り返してくれるのであろうか」

燕の易王は蘇秦に先代の燕の文公が蘇秦を重用し、六国の合従を成立させたにも関わらず、斉がを侵略する事に文句を言ったわけです。

燕の易王は蘇秦に責任を取れと言った様なものでしょう。

蘇秦が城を取り戻す

蘇秦は燕の易王の言葉を聞くと恥じ入り「私が斉に行き城を取り戻してきます」と宣言しました。

蘇秦は燕の易王に別れを告げると、に行き斉の宣王に謁見する事になります。

斉の宣王に対し、蘇秦はいきなり慶賀の言葉を述べたと思ったら、次の瞬間にはお悔やみの言葉を述べました。

斉の宣王は驚き「なぜ立て続けに慶弔の言葉を述べるのか」と問いただすと、蘇秦は「飢えた者であっても毒を食べないのは、腹が道ても餓死するのと同じだからだ」と述べます。

蘇秦はは弱小国ではあるが、燕の易王の妻は秦の恵文王の娘であり、燕はにとってみれば娘婿の国になると告げました。

蘇秦は斉の宣王に斉は燕から10の城を奪ったが、それが原因で強大な力を持つ秦の仇になったと告げます。

ここで弱い燕から土地を奪っても、強秦の精鋭を招く結果になると告げます。

蘇秦の言葉を聞いた斉の宣王は恐怖し「どうすればいいのか」と問うと、蘇秦は燕に城を返還すれば燕も秦も喜び事は収まると告げました。

斉の宣王は了承し、蘇秦は燕に戻り易王に報告する事になったわけです。

燕の易王と蘇秦

役に立つ臣下とは

蘇秦が斉の宣王に対し、弁舌を振るっていた頃に、燕の易王に向かって次の様に述べる者がいました。

※史記 蘇秦列伝より

蘇秦はあちこちで国を売り、心に表裏あり、いずれは乱を起こすであろう。

讒言を真に受けた燕の易王は、蘇秦が戻って来ても、元の官には就かせませんでした。

蘇秦は燕の易王に讒言した者がいた事を悟り、燕の易王に謁見を願い出る事になります。

蘇秦は燕の易王に「私は斉の軍隊を退け10の城を取り戻し厚遇されてもいいはずなのに、冷遇するのは何故か」と訪ねました。

蘇秦は自分の悪臣だと告げた者が燕の易王に讒言したとも考え、孝行息子の曽参、廉潔な伯夷、誠実なる尾生の様な臣下がいれば満足なのかとも問います。

燕の易王は曽参、伯夷、尾生の様な人物が臣下に出来れば満足だと答えました。

燕の易王に対し、蘇秦は曽参の様な孝行息子が親に心配をかける様な弱いに仕えたりはしないし、伯夷の様な頑固者で周の武王に仕える事も出来ず餓死する様な者では、斉から10の城を取り戻す事は出来ないと告げます。

さらに、尾生の様な融通の利かない者に、の兵を退かせる事は出来ないと述べました。

蘇秦は燕の易王に曽参、伯夷、尾生の様なものでは、燕の役には立たないと告げた事にもなります。

良い事をしたのに罪を得る理由

燕の易王は蘇秦の言葉を聞いても納得せず、次の様に述べました。

燕の易王「其方(蘇秦)が忠義の臣でないからこそ罪を受けるのである。

忠信を持ち罪を得るものがあろうはずがない」

燕の易王は忠義の臣であれば、罪を受けないと考えていた事になるでしょう。

蘇秦は物語を例に出し、燕の易王を諭す事にしました。

蘇秦は家の主人が役人となり遠方に行っている間に、妻が他の男と密かに通じ、家の主人が返ってくると、妻は愛人と相談し毒を盛る事にしました。

この時に妾は毒酒が用意されている事を知りますが、毒薬が入っているとばらせば妻が罰せられ、告げなければ主人が殺されてしまう状態だと悟ります。

妾は主人も妻の方も生かしたいと考え、わざと転び毒酒をこぼさせました。

妾のファインプレーにより主人も妻も救われたと言えるでしょう。

しかし、酒をこぼした事に激怒した主人が妾を鞭で50回も打ちました。

蘇秦は妾を例に出し忠義の心があっても、罪を受ける事はあると燕の易王に諭したわけです。

燕の易王は蘇秦の言葉に納得し、元の官に戻し優遇しました。

燕の易王と蘇秦の会話を見ていると、燕の易王は卓越した君主に見えないと感じた人が多いのではないでしょうか。

ただし、燕の易王の時代である紀元前323年に公孫衍の五国相王により、中山が同盟を結び互いに王と呼び合う事になります。

燕の易王の時代から燕も王を称する事になりました。

易王の母親と蘇秦

史記の蘇秦列伝によると、易王の母親は文公の夫人であり、蘇秦と私通していたとあります。

燕の易王は自分の母親が蘇秦と私通している事を知りながらも、蘇秦を厚遇したとあります。

燕の易王が何を考えていたのかは不明ですが、蘇秦を優遇した事になります。

蘇秦の方では燕の易王に誅殺される事を畏れ、罪を得た形としてへ出奔しました。

蘇秦はの為に斉で働く事になりますが、最後は刺客により斉で命を落としています。

燕の易王と蘇秦の逸話は架空の話なのか

今回の話は史記の蘇秦列伝にある燕の易王と蘇秦のやり取りですが、最近の研究では戦国縦横家書が発見された事で、蘇秦は燕の昭王の時代の人だと考えられる様になってきました。

燕の昭王は燕の易王の孫に当たる人物であり、燕の易王の時代の人ではありません。

それを考えると、燕の易王と蘇秦の話は史実ではない事になってしまいます。

さらに言えば、燕の易王の為に蘇秦がで交渉したのは、斉の宣王ではなく、時代的に考えて斉の威王だったのではないかとする説もあります。

は中原から外れており情報が極端に少なく、斉には情報の混乱があると言えるでしょう。

史記では蘇秦が斉の10の城を取り戻した事になっていますが、実際には別の人物が取り戻したのかも知れませんし、単なる説話に過ぎないのかも知れません。

この辺りは謎が多く地下からの新たなる出土物の登場を待ちたいと願う人は多い事でしょう。

先代:燕の文公次代:燕王噲

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