名前 | 埴輪 |
時代 | 古墳時代 |
種類 | 人型、動物型、家形など多数 |
コメント | 古墳に設置された |
埴輪は日本書紀にも記述があり、殉死に心を痛めた垂仁天皇が野見宿禰と相談し古墳に設置される事になりました。
考古学的に見ると奈良盆地の東南部にある箸墓古墳に埴輪が設置され、後には多くの埴輪が古墳に並べられる様になり古墳列が形成される様になります。
埴輪と言えば、人型の埴輪を思い浮かべる人も多いかも知れませんが、最近の研究では人型の埴輪が誕生したのは、最も遅いと考えられています。
円筒埴輪や家、動物などの埴輪が出来て最後に人間の埴輪が出来たとされています。
埴輪は古墳に並べられた事から大和が発祥地だと考えられてきましたが、現在では吉備から大和に埴輪が伝わったと考えられる様になりました。
因みに、「埴輪と土偶の違いを知りたい」というのは、よく言われる所でもあります。
土偶は縄文時代に作られたものであり、遮光器土偶などは有名でしょう。
縄文時代の土偶に対し埴輪は古墳時代に造られ古墳の上に並べられたものであり、人型や家柄、甲冑を身に守った者や笑った人など様々な種類があると言えるでしょう。
埴輪というのは古墳時代に造られ古墳の上に並べたりもするものであり、土偶というのは縄文時代の人型などをしているものです。
土偶よりも埴輪の方が後の時代ですが、土偶の方が埴輪よりも芸術点が高いなどはよく言われる所でもあります。
日本書紀における埴輪の起源
殉死を禁止
埴輪にまつわる話が日本書記の垂仁天皇28年に記述されています。
垂仁天皇は倭彦命が亡くなると、近侍する者達を生き埋めにし殉死させました。
垂仁天皇の逸話を見るに、当時の日本では殉死が当たり前になっていたかの様に見受けられます。
生き埋めにされた者達が苦しむ様子を知り垂仁天皇は心を痛めました。
ここで垂仁天皇は大臣達に殉死を禁止させる様に詔を発したわけです。
垂仁天皇の32年に皇后の日葉酢媛命が亡くなりますが、垂仁天皇は殉死を禁止しており、代替え案を野見宿禰に相談しました。
野見宿禰は故郷の出雲に使者を派遣し、土部百人を呼び寄せ埴土(はにつち)を使い人や馬など、様々な物を作り垂仁天皇の献上しました。
これが土物(はに)であり、埴輪と名付けられて、別名として立物と呼ばれる事になります。
野見宿禰は垂仁天皇に人間の代わりに埴輪を陵墓に置くように進言し、垂仁天皇は埴輪を見ると多いに喜んだ話があります。
垂仁天皇は日葉酢媛命の陵墓に埴輪を設置し、野見宿禰を土師に任命し、土部臣としました。
日本書紀では埴輪は殉死の代わりに使われた道具となったわけです。
垂仁天皇と野見宿禰の賢明さを讃える逸話になっているとも言えるでしょう。
日本書紀の埴輪の話は本当なのか?
日本書紀における埴輪の話は非常によくできた話であり、殉死の代わりに埴輪が使われたというのは、ありそうな話でもあります。
しかし、先に述べた様に考古学で考えると、人物埴輪の登場は最も遅く、日本書紀の垂仁天皇と野見宿禰の埴輪の話は信憑性が少ないと考えられています。
日本書紀の埴輪の起源になった話はあくまでも、土師の祖先の伝承なのではないか?とされているわけです。
ただし、人物埴輪が創作されたのと出雲の工人が関わっている可能性は残っているはずです。
吉備から大和に埴輪が伝わった話がありますが、西から伝わったという事は出雲から伝わった可能性もある様には感じています。
尚、人物埴輪で最も古いのは大阪府堺市の大仙陵古墳から発掘されており、垂仁天皇よりも後の時代の埴輪となります。
大仙陵古墳に眠っているとされているのは、第16代の仁徳天皇です。
ただし、天皇陵は宮内庁の管轄であり、掘れない所も多くあり地下にはもっと古い時代の人物埴輪が眠っている可能性は多いにあると考えています。
埴輪の意味
馬の埴輪
埴輪の中で人物埴輪とセットで一番作られたのが馬の埴輪となります。
人間とセットで馬の埴輪が出土する辺りは、人間生活に馬が如何に関わっていたのかが分かるはずです。
正史三国志の東夷伝にある魏志倭人伝には邪馬台国を始め弥生時代の日本の事が書かれています。
魏志倭人伝には主に3世紀の歴史が書かれていますが、倭国に牛や馬がいないと記録されています。
卑弥呼や台与の時代に馬がいなかったのに、古墳時代に馬がいたのは倭国が朝鮮半島に出兵した事が大きいはずです。
広開土王碑には4世紀末から5世紀の初頭に掛けて、倭国が百済と手を組み高句麗や新羅と戦った話が掲載されています。
日本は高句麗とも戦っており、ここで高句麗の騎馬隊を目の当たりにし、倭国でも馬を導入したのでしょう。
日本でも馬の調教師を招き、日本でも馬が飼育される様になったと考えれています。
古代オリエントではミタンニのキックリなる人物がヒッタイトに馬の飼育法を教えた話しがありますが、キックリと似た様な人物を招き馬の飼育を覚えさせたのでしょう。
馬の生産は東国や南九州で活発に行われ畿内に集めて運用した事も分かってきました。
東国では多くの馬具も発見されており、多くの馬の埴輪も見つかっています。
馬の導入は軍事、農耕、運搬、伝達など様々な面で活用され、生産性の向上に大きく役立ったわけです。
馬の埴輪が古墳に並べられたのは、被葬者が貴重な動力源である馬を保有していた事を顕示する為だと考えられています。
実際に日本などでは動物も家族として扱う事が多く、馬好きの人が馬の埴輪と共に埋葬された可能性もあるでしょう。
尚、牛の埴輪も数は少ないですが、実在しており近畿を中心に分布している状態です。
武人埴輪
埴輪の中には甲冑を纏い勇ましい姿のものも存在しています。
武人埴輪は大和王権から軍事司令官に任命された者の姿だったのではないかともされています。
埴輪の著者で有名な若狭徹氏は武人埴輪を「王権の軍事力を支えた東国首長の業績を表彰したもの」だと考えました。
日本の歴史だと神功皇后の三韓征伐や三国史記、広開土王碑などには倭国が朝鮮半島で百済や任那と共に新羅や高句麗と戦った話が掲載されています。
日本書紀の記述でも東国の上毛野氏が将軍となり、新羅と戦った事が記述されているわけです。
関東から多く見つかる武人埴輪は朝鮮半島で勇壮に戦った東国の人々を表しているのではないかともされているわけです。
尚、秦の始皇帝の陵墓には兵馬俑が置かれており、武人埴輪にも通じるものがあるのかも知れません。
家形埴輪
4世紀の中頃になると、古墳の墳頂部に家形埴輪を置くスタイルが出て来る様になります。
墳頂部には複数の建物からなる埴輪郡が置かれ、王の住まいをモデルにしたのではないかと考えられています。
王が亡くなった後の住まいとして家形の埴輪が造られ、玉座や高坏もセットになっている場合があります。
同時に器財埴輪や盾なども設置されたりしており、埴輪で己の権力を誇示していたとも言えるでしょう。
埴輪と古墳の関係
円筒埴輪の誕生
埴輪ですが、最初から人型や動物、家などの様な形をしていたわけではなく、最初は円筒埴輪から始まったと考えられています。
円筒埴輪は土管の様な長細い形の埴輪だと思えばよいでしょう。
繰り返しますが埴輪は大和が発祥地ではなく、考古学的には吉備地方において弥生時代後期以来の特殊器台が発達し、それが埴輪の起源となったわけです。
日本最古の前方後円墳である箸墓古墳の後円部にも円筒埴輪が使われていました。
宮内庁の方でも箸墓古墳の特殊埴輪を公開するなどもしています。
その後に、箸墓古墳だけではなく、大和東南部の前期古墳で、特殊器台埴輪が確認される例が増加し、埴輪成立の過程が明らかになってきます。
箸墓古墳で使用されていた埴輪を調査すると、吉備より導入された特殊埴輪だけが使われている事が分かりました。
箸墓古墳から出土したのは特殊埴輪であり、名前の如く手間をかけた特殊器台で作った特殊な埴輪となります。
箸墓古墳に後続する古墳が墳丘長230メートルの西殿塚古墳となり、ここでは吉備系の特殊埴輪を目にする事が出来ず、無紋の円筒埴輪が使われていました。
さらに、西殿塚古墳では古墳時代前期でも後半期に一般化する普通円筒埴輪が僅かですが出土しています。
西殿塚古墳において、複数の種類の埴輪が出土した事で注目を集めました。
複数の種類の埴輪があるのは、付近にある中山大塚古墳でも見られる現象であり、埴輪の移り変わりの時期に造られた古墳だと読み取る事が出来るはずです。
古墳を造営している最中に埴輪の種類も変わってきたのでしょう。
埴輪列の誕生
箸墓古墳で埴輪が置かれた場所は古墳の後円部に墳丘だけに限られていました。
箸墓古墳は古墳の全体に埴輪が置かれたわけではありません。
箸墓古墳で埴輪が一部にしか置かれなかったのに対し、西殿塚古墳ではかなりの部分に埴輪を巡らせている事も分かりました。
西殿塚古墳から埴輪を多く使った埴輪列が誕生したとも考えられています。
古墳に埴輪列を誕生させるとなると、大量の埴輪が必要になります。
大量な埴輪が必要になれば特殊埴輪の様な手間暇が掛かる様なものは作られなくなり、シンプルな無紋の埴輪が多く作られたわけです。
文様を付けるには時間が必要であり、工程が簡略化された普通円筒埴輪が多く作られました。
箸墓古墳と西殿塚古墳の比較により、特殊埴輪から量産型の埴輪への移行はかなり短時間で行われたのではないかと考えられています。