名前 | 護良親王 |
読み方 | もりよししんのう、もりながしんのう |
別名 | 大塔宮、尊雲法親など |
時代 | 鎌倉時代→建武の新政 |
一族 | 父:後醍醐天皇 子:興良親王、陸良親王 |
兄弟:尊良、世良、宗良、恒良、成良、義良、懐良など | |
年表 | 1331年 元弘の乱 |
1333年 征夷大将軍に就任 | |
コメント | 倒幕では絶大な功績があったが非業の死を迎える |
護良親王は後醍醐天皇の第三皇子として誕生したと考えられています。
一説には第一皇子だったとする説もあります。
護良親王は倒幕において楠木正成や赤松円心と共闘し、絶大なる功績がある人物です。
建武の新政では征夷大将軍にもなりました。
しかし、足利尊氏との対立もあり、最後は政争に敗れ鎌倉にいる足利直義に預けられ幽閉されています。
北条時行や諏訪頼重による中先代の乱が起きると、足利直義は破れ鎌倉を放棄せねばならず、この時に護良親王を殺害しました。
これにより護良親王は世を去る事になります。
今回は鎌倉幕府の滅亡において重要な役割を果たした護良親王を解説します。
尚、護良親王には大塔宮、尊雲法親などの名もありますが、混乱を防ぐために、ここでは全て護良親王で記載しました。
護良親王の誕生
護良親王は1308年に誕生した事で知られています。
父親は当然ながら後醍醐天皇ですが、母親は民部卿三位です。
ただし、民部卿三位には不明な点が多々あり、謎の女生とも言うべき存在でもあります。
護良親王の母親として有力なのは北畠師親の娘とする説と、日野経光の娘である経子とする説です。
太平記では後醍醐天皇は幼い護良親王を見て自分の後継者にしようと考えていた話しがあります。
これらを考えると、護良親王は幼いながらも聡明で覇気のある人物だったのかも知れません。
ただし、太平記はあくまでも軍記物語であり、護良親王後継者説は物語を面白くする為の脚色だとも考えられています。
実際の後醍醐天皇は護良親王を後継者にするつもりは全くなかったともされています。
天台座主
護良親王は若くして比叡山に入りました。
1325年に梶井門跡となり、1327年には20歳の若さで天台座主となりました。
護良親王が比叡山の天台座主になったのは、父親の後醍醐天皇が比叡山の持つ僧兵の軍事力と宗教的な力を欲した為だと考えられています。
ただし、延々と護良親王が天台座主を務めたわけではなく、1度目は二年ほど務め、二度目は僅か4カ月ほどであり、1330年を最後に護良親王が天台座主を務めた話はありません。
尚、護良親王は僧としての修業を行うだけではなく、武芸にも励んでいたと太平記にあります。
鎌倉幕府を滅ぼす戦いにおいて、護良親王は楠木正成や赤松円心らと共に各地を転戦しており、優れた身体能力を持っていたのでしょう。
太平記にも高い身体能力と張良の兵法を会得していたと記述されています。
護良親王の策
1331年に元弘の変が起こり、後醍醐天皇と近しい関係の公家や僧が鎌倉幕府により捕縛されました。
鎌倉幕府は後醍醐天皇の倒幕計画を見抜いており、幕府は後醍醐天皇を遠国に行かせ、護良親王には硫黄島に流罪とする使者を出しています。
しかし、護良親王のキャッチしていた情報だと後醍醐天皇が島流しで、護良親王は死罪とする内容だったわけです。
護良親王は何もしなければ処刑される事は明らかであり、護良親王は後醍醐天皇に、次の進言をしました。
・後醍醐天皇が興福寺に入り影武者が比叡山に入り、比叡山の軍事力で幕府軍を抑える。
・比叡山の軍事力で幕府軍(六波羅探題)を抑えている隙に、伊賀・伊勢・大和・河内の兵を集結させ京都を制圧する。
護良親王は後醍醐天皇の影武者を比叡山にに入れ、時間稼ぎをしている間に伊賀、伊勢、大和、河内の兵を集め幕府軍を決戦を挑む様に考えた事になります。
後醍醐天皇の影武者を比叡山に入れるというのは、幕府軍を比叡山に集中させる為とする見方があります。
ただし、別の見方をすれば天台座主を務めた護良親王であっても、比叡山を動かす事は出来ず、影武者とはいえ後醍醐天皇の権威を必要としたのではないかともされているわけです。
さらに、護良親王は伊賀、伊勢、大和、河内から兵を集結させる見込みがあった様であり、当時の後醍醐天皇に靡く勢力がいた事も明らかでしょう。
尚、後醍醐天皇や護良親王が期待した河内の兵は楠木正成であり、伊勢でも護良親王の令旨により後醍醐天皇に味方した武士がおり、伊勢の守護代や地頭と戦った記録があります。
護良親王の策では後醍醐天皇が興福寺に入る予定でしたが、後醍醐天皇は興福寺まで到達する事が出来ず笠置山に籠城する事になりました。
護良親王は六波羅探題を攻撃したとする話もありますが、結局は六波羅探題を落す事が出来ず、後醍醐天皇も笠置山の戦いに敗れて捕虜となります。
吉野で挙兵
後醍醐天皇が隠岐に流された事で、幕府にとって最も危険な人物は護良親王となったわけです。
史実では、この頃に護良親王と名乗ったとされています。
鎌倉幕府は護良親王を「捕縛」する様に御触れを出しますが、後に御触れは「捕縛」から「誅滅」に変わった事が分かっており、如何に幕府が護良親王を警戒していたのかが分かります。
元弘の乱が終わると暫くの間は、護良親王の行方が分からなくなります。
しかし、翌年の1332年になると護良親王は令旨を発行し、味方を増やし12月には吉野で挙兵しました。
後に後醍醐天皇は吉野で南朝を開いており、皇室と吉野は深い関係にあったのでしょう。
護良親王は令旨を多く出し、各地の勢力を味方に付けるべく動きました。
護良親王が木本宗元なる武士に左衛門尉に任命した事が分かっており、護良親王は叙任権を武器にして各地の勢力を味方に付けようとしたわけです。
後醍醐天皇が叙任した説もありますが、後醍醐天皇は隠岐に流されており、護良親王が令旨を発行したとする方が自然だと言えます。
尚、護良親王が発行した令旨の中に自らを「将軍」としたものがあり、それらは寺院や地侍などに出した事が分かっています。
護良親王は征夷大将軍を望んでおり、自らを「将軍」とした説もあります。
この頃に河内の千早城で楠木正成が挙兵し、播磨の苔縄城には赤松円心が兵を挙げました。
尚、赤松円心の子である赤松則祐は護良親王の従者だった話があります。
護良親王らは山岳地帯を利用したゲリラ戦で幕府軍を翻弄し疲弊させる事になります。
吉野は陥落してしまいますが、配下の村上義光が身代わりとなり、村上義隆の奮戦により護良親王は窮地を脱しました。
征夷大将軍に就任
後醍醐天皇が隠岐を脱出し、足利尊氏が寝返り六波羅探題が倒れ、関東では新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしました。
鎌倉幕府の得宗である北条高時や執権の赤橋守時らは自害し、遺児の北条邦時は五大院宗繁の裏切りにより捕縛され処刑されています。
六波羅陥落後に護良親王は比叡山に指図するなども行っています。
護良親王の勲功は極めて高く建武政権樹立の最大の功労者と言ってもよいでしょう。
畿内では六波羅探題が滅びた事で戦いは終わるかに思えましたが、護良親王は大和の信貴山に軍勢を集結させました。
この時に護良親王が集めた軍勢は20万を超えるとする話もあります。
護良親王は鎌倉幕府が滅亡しても武装解除せず、信貴山に籠城を決め込んだわけです。
こうした行動に、後醍醐天皇も頭を悩ませる事になります。
護良親王は20万の軍勢を朝廷の直属軍にしようとしたとも言われています。
太平記によると護良親王は信貴山で、次の二点を後醍醐天皇に要請しています。
・足利高氏(尊氏)の討伐
・征夷大将軍への就任
この頃の足利尊氏は京都に奉行所を開き諸国から続々とやってくる武士たちを配下とし、京都支配を行っていると護良親王は主張したわけです。
護良親王は足利尊氏に幕府再興の意思があると考え、危険視していました。
しかし、後醍醐天皇は足利尊氏の功績を認め高氏から後醍醐天皇の一字を取り尊氏に改名させ、内昇殿を許し鎮守府将軍兼左兵衛督に任命し、弟の直義も左馬頭とし高い評価をしていたわけです。
後醍醐天皇は足利尊氏を危険だとは考えておらず、困り果ててしまい征夷大将軍に任命して宥めました。
後醍醐天皇は足利尊氏の討伐を認めず、征夷大将軍への就任だけを認めたわけです。
後に建武政権が崩壊し足利尊氏が室町幕府を開く事を考えれば、護良親王の方が先見の明があったとも言えそうですが、護良親王が一方的に足利尊氏を嫌っていたとみられる事も多いです。
護良親王の軍勢は京都に入る事になり、先頭に赤松円心、次に殿法印良忠、四条隆資、中院定平が先となり、その後に護良親王、千種忠顕が続きました。
護良親王は征夷大将軍となり畿内に入った1333年の6月13日が、人生の絶頂期だったと言えるでしょう。
尚、護良親王は既に足利尊氏を危惧しており、足利家の影響力が強い東国を弱める為に、北畠顕家を陸奥守として北畠親房が補佐する形で義良親王を奉じ陸奥将軍府を開設させた話があります。
ただし、足利尊氏の方も負けじと弟の足利直義を相模守にする様に取り計らい成良親王を奉じ鎌倉将軍府を開設しました。
因みに、後醍醐天皇は足利尊氏を幕府を開くのではないかと警戒していた話もありますが、親王将軍として征夷大将軍になった護良親王を警戒していたとも考えられています。
鎌倉時代の源氏将軍は早い段階で廃れており、親王将軍が恒常化していたからです。
護良親王の没落
護良令旨の無効化
護良親王は1333年の6月に栄華を誇っていましたが、同年の9月には既に権勢を無くしていた事が分かっています。
護良親王の令旨を見ても「将軍」の名と二品の官位が見えなくなります。
この頃になると護良親王が発行していた令旨も無効とする宣言まで出ています。
護良親王は鎌倉幕府を滅ぼす為に大量の令旨を発行しており、配下に加わった武士たちに恩賞を約束していました。
恩賞を与える事で、さらに支持される様になり、軍事力を強化する狙いがあったはずです。
後醍醐天皇は自ら綸旨を発行しており、護良親王の令旨とかみ合わない部分が多々あり、衝突する事が多い問題がありました。
後醍醐天皇が護良令旨を無効化する事で、後醍醐天皇の綸旨が絶対の効力を持ち、護良令旨を理由に所領拡大する者は「敵」とみなされる事になります。
足利尊氏が厚遇される
護良親王は足利尊氏を危険人物と考えていましたが、後醍醐天皇は足利尊氏を従五位から三階級昇進させ、従四位下とするなど厚遇しました。
さらに、後醍醐天皇は足利尊氏に全国の30カ所の地頭職を与え、弟の足利直義にも15カ国の地頭職を与えています。
地頭職だけでは済まず、さらには武蔵国の守護職も与え国司も兼任させました。
越前の守護も新田義貞の弟である脇屋義助でしたが、後には足利一門の斯波高経に代わるなど、厚遇している様にも見えます。
しかし、後醍醐天皇も朝廷の中枢には梅松論の「高氏なし」の言葉からも分かる様に、足利尊氏を排除していました。
それでも、護良親王が僅か3カ月で失脚するのに対し、足利尊氏は勢力を拡大していたとみる事も出来ます。
護良親王は令旨を無効化され求心力を失い軍事力が低下する中で、足利尊氏は力を付けていたと言えるでしょう。
部下の狼藉
護良親王が失脚した事は確実であり、足利尊氏との政争に敗れて征夷大将軍の位も剥奪されたとも考えられています。
一般的には護良親王が失脚した理由は護良親王と足利尊氏がお互いを危険視しており、自分の子を後継者にしたい阿野廉子が足利尊氏と結託し護良親王を陥れたからだとされています。
護良親王は足利尊氏を討伐する為に各地に令旨を発行し、足利尊氏が護良令旨を手に入れ阿野廉子に渡し、阿野廉子は後醍醐天皇の令旨を見せて護良親王が謀叛を企んでいると告げたとするものです。
しかし、護良親王が失脚するには明確な理由が必要であり、それが部下の狼藉だとする説があります。
太平記に殿法印良忠の配下の者が京都の土倉を襲撃し強盗行為を行いますが、足利尊氏の軍勢により鎮圧された話が残っています。
後醍醐天皇の建武の新政を皮肉る言葉でも「都で流行したもの。夜討、強盗、偽の綸旨」とあり、都の治安は悪かったのでしょう。
さらに、高札には「護良に仕える殿法印良忠の配下が強盗を行ったので処刑した」と書かれました。
殿法印良忠も護良親王に報告した事で、ここにおいて護良親王と足利尊氏の対立は決定的になったとも考えられています。
殿法印良忠の部下の狼藉を足利尊氏の配下の者が取り締まっており、足利尊氏は京の警察権を掌握していたと考える事が出来るはずです。
足利尊氏は軍忠状を以って来れば、内容を確認し承認する証判を行っていた事も分かっており、軍権も多くあり、征夷大将軍の護良親王と対立していた事でしょう。
最近の研究は護良親王と足利尊氏の間で京の警察権を巡っても対立していたのではないかと考えられています。
過去に護良親王は鎌倉幕府を滅ぼす為に令旨を大量に発行しており、中には山賊の様なものまでいました。
護良親王は倒幕をするだけのパワーを集める為に、人を集めまくった結果として無法者も多く集まってしまったわけです。
無法者らが狼藉を行い護良親王は彼等を抑える事が出来ず、足利尊氏が自らの警察権により京の治安を守っていたともされています。
護良親王は配下の狼藉により評判を落とし、失脚したとみる事が出来ます。
征夷大将軍になった護良親王が短期間で失脚した事は、一時資料を見ても間違いはないでしょう。
護良親王が捕縛される
1334年の10月に護良親王は武者所の名和長年や結城親光などにより捕らえられる事になります。
同年の11月には足利直義がいる鎌倉に配流されました。
さらに、護良親王の部下数十人も処刑されています。
護良親王が配流された原因は足利尊氏を襲撃しようと画策した事や皇位簒奪計画が原因だと考えられてきました。
しかし、護良親王の配下の数十人が処刑されている事から、部下が法に触れる様な問題行為を行い護良親王は監督責任として罪を問われたのではないかともされているわけです。
先にも述べた様に、護良親王の部下は御家人だけではなく、荒くれ者も多く、それらの者を制御できず、護良親王は罪と問われたと考える事が出来ます。
護良親王の部下が罪を犯せば足利尊氏の部下が治安を守る様な形となり、護良親王は部下を正す事が出来ず、権勢は削がれたとみる事が出来ます。
時期は不明ですが、護良親王が兵部卿になった記録があり、征夷大将軍を剥奪された護良親王が兵部卿となり再び権勢を盛り返そうとしたのではないかと考えられています。
しかし、足利直義がいる鎌倉に配流された護良親王に再び日があたる場所に戻る事はありませんでした。
後醍醐天皇にとってみても、名声が地に堕ちた護良親王は厄介な存在でもあったのでしょう。
後醍醐天皇が護良親王を嫌っていた話がありますが、最終的に後醍醐天皇は護良親王を「用済み」としたのかも知れません。
護良親王が政争に敗れた理由
後醍醐天皇は我が子である護良親王よりも足利尊氏を選択したとも言えます。
護良親王の経歴を見れば分かりますが、護良親王は僧呂になっており、後醍醐天皇は自らの後継者に護良親王を考えてはいなかったはずです。
実際に後醍醐天皇は阿野廉子が生んだ恒良親王を皇太子としており、後醍醐天皇の後継者になったのも義良親王であり、後の後村上天皇となります。
後醍醐天皇は寵愛する阿野廉子の子を後継者にしようと考えており、護良親王を後継者にしようとは考えていなかったとみる事が出来ます。
後醍醐天皇は鎌倉幕府の滅亡直後にも護良親王に再び出家する様に勧めている事からも、護良親王を後継者にする気が無かったはずです。
阿野廉子は自らの子を天皇にしたいと考えるのは当然であり、そうなると絶大な功績がある護良親王は邪魔な存在であり、足利尊氏と繋がった事は充分に考えられます。
他にも、後醍醐天皇は天皇親政を考えており、護良親王は鎌倉幕府の様に自分が軍事権を握り建武政権を補佐する意図があったともされています。
しかし、後醍醐天皇は軍権の自分で握りたいと考えた事で、護良親王との政治理念の相違が出たともされているわけです。
護良親王は倒幕において絶大なる功績があり、後醍醐天皇と政治理念が異なるなどは疎まれる原因にもなったのでしょう。
足利尊氏と護良親王の対立は、結局のところ後醍醐天皇と護良親王の対立だとする意見もあります。
護良親王の最後
鎌倉に流された護良親王ですが、二階堂の土牢に幽閉される事になります。
足利家にとってみれば、護良親王は危険人物であり、厳しく監視させ幽閉したのでしょう。
ただし、護良親王には次の言葉が残っています。
※梅松論より
武家よりも君のうらめしくわたらせ給ふ
「武家」というのは足利尊氏の事であり「君」は後醍醐天皇の事です。
護良親王は足利尊氏よりも後醍醐天皇の方を「うらめしく思い」時を過ごしていると述べた事になります。
1335年になると北条高時の遺児である北条時行を擁立した諏訪頼重による中先代の乱が勃発しました。
北条時行を担ぎ上げた諏訪神党の軍勢は強く足利直義は敗戦を続け、遂には鎌倉を放棄せねばならなくなります。
足利直義は鎌倉を出ますが、この時に配下の淵辺義博に命じ護良親王を殺害しました。
太平記に護良親王の最後に関する描写があり、土牢に入ってきた淵辺義博が刀で殺害しようとすると、護良親王は刀を咥え折ったとあります。
ここで護良親王と淵辺義博の戦いになりますが、最終的に護良親王は淵辺義博に討たれました。
この時の護良親王は両目をかっぴらき淵辺義博を睨んだまま絶命したとあります。
淵辺義博は護良親王の首を届けず藪の中に捨て去りました。
北条時行の軍に護良親王が加わるのは避けたかったはずであり、足利家にとってみれば護良親王は邪魔な存在であり命を奪ってしまったのでしょう。
護良親王を殺害する様に命じたのは足利尊氏とする説もありますが、中先代の乱は突発的に起こっており、信濃守護の小笠原貞宗も上手く対処する事が出来ませんでした。
これらを考慮して、足利直義が独断で護良親王を処刑してしまったと考えるべきでしょう。
尚、護良親王は滅びましたが、護良親王の子は生き残っており、南朝内部の反主流派となって行きます。
護良親王は世を去りましたが、子孫は生き残ったわけです。
後醍醐天皇と護良親王
足利直義は独断で護良親王を殺害してしまいましたが、後醍醐天皇は不問にしたのではないかとも考えられています。
後醍醐天皇の死後に観能の擾乱が勃発しました。
観能の擾乱では幕府内の足利直義と高師直が対立し、足利直義は南朝に降伏しました。
この時には後村上天皇の時代となっていましたが、足利直義の降伏を認めています。
後村上天皇の兄が護良親王であり、兄を殺害したはずの足利直義を南朝の部将として認めたわけです。
後村上天皇が足利直義の降伏を認めたのは、後醍醐天皇が護良親王の殺害を容認したからではないかとする説があります。
ただし、この時の南朝は足利家が擁立する北朝に押されており、形勢を挽回するのを優先し足利直義の降伏を認めたとする説もあります。
尚、中先代の乱が終わると足利尊氏と直義は鎌倉で論功行賞を行っており、この時には既に足利家は朝廷から独立したとみる事が出来ます。
後醍醐天皇は新田義貞に鎌倉を討たせていますが、護良親王の事もあり、足利家の討伐に踏み切った可能性もあるはずです。
怨霊となった護良親王
室町幕府が分裂する観能の擾乱ですが、太平記では護良親王の怨霊という形で描かれています。
護良親王は倒幕において絶大なる功績があったにも関わらず、非業の死を遂げており怨霊になったと人々が考えていたのでしょう。
後に僧籍だった義円が足利義教となり、第6代室町幕府の将軍となりますが、この還俗が護良親王と同じで軽率であると危ぶまれた話もあります。
護良親王は元は比叡山の僧であり、還俗しましたが、最終的に権力闘争に敗れて命を落とした姿と重ね合わせて考えられたのでしょう。
明治時代になると明治天皇は鎌倉宮を建立しました。
摂社として護良親王の死を後醍醐天皇に伝えた南御方を祀る南方社、護良親王の身代わりになって亡くなった村上義光を祀る村上社も存在しています。
護良親王は明治時代になると評価が高まり、英雄視される様になったのでしょう。
明治維新は江戸幕府を倒した戦いでもあり、同じく鎌倉幕府を滅ぼすのに貢献した護良親王と重ね合わせて見られたと考えられています。