室町時代

高師泰は武勇に優れ各地を転戦した

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宮下悠史

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名前高師泰
生没年生年不明ー1351年
時代南北朝時代
主君足利尊氏
年表1336年 矢作川の戦い
1336年 多々良浜の戦い
1336年 湊川の戦い
1337年 金ヶ崎城の戦い
1338年 黒血川の戦い
1339年 三岳城、大平城の戦い
1350年 三隅城の戦い
1351年 打出浜の戦い
コメント各地を転戦した武勇誉れ高き人物

高師泰は室町幕府の執事として活躍した高師直の兄弟だという事が分かっています。

高師泰は足利尊氏に従い各地を転戦しており、優れた武勇を持っていた事が分かっています。

政治力に関しては疑問符が付けられる高師泰ですが、武勇においては高師直以上だったのではないかとする評価もある位です。

高師泰は室町幕府が成立してからも兵を率いて各地の南朝勢力と戦っており、己の武勇を生かし活発に行動した事も分かっています。

観応の擾乱では高師直失脚後に軍勢を引き連れて京都に入り、御所巻を行った事で高師直の政務復帰が認められた話があります。

足利尊氏は戦いには滅法強かったわけですが、部下に高師直と高師泰の兄弟がいた事が大きいとする評価まであります。

今回は南北朝時代に各地で戦った武人である高師泰を解説します。

高師泰と高師直

高師泰は高師重の子で高師直とは兄弟だとされています。

洞院公賢の園太暦では高師泰は高師直の弟の様な記述があり、清源寺本高階系図の注では高師泰が「四良」、高師直が「五良」とある事から、高師泰は高師直の兄だったとみる事が出来ます。

高師泰と高師直が兄弟だった事は間違いなさそうですが、どちらが兄なのかははっきりとしません。

尚、高師泰は高師直の他にも高師茂、高師久などの兄弟がいたと考えられています。

高師泰の妻は上杉頼重の娘であり、上杉清子の姉妹となります。

上杉清子は足利尊氏直義の母親であり、高師泰の一族も上杉家と結びつているわけです。

因みに、高師泰の子には高久俊、高師世、高師武らがいます。

中先代の乱

高師泰が生まれたのは鎌倉時代ですが、高師泰が鎌倉時代に何をしていたのかはよく分かっていません。

しかし、建武の新政で雑訴決断所に配置されている事から、高師泰は足利尊氏に従い戦功があったのではないかと考えられています。

1335年の7月に中先代の乱が起きると高師泰は足利尊氏に従軍し北条時行の軍と戦っています。

中先代の乱が終わると高師泰は建武政権の侍所の頭人に補任されました。

後醍醐天皇との戦い

足利尊氏は勝手に論功行賞を始め後醍醐天皇の怒りを買う事になります。

後醍醐天皇は新田義貞に尊氏討伐を任せました。

足利尊氏や直義は高師泰に兵を与え三河国に向かわせています。

高師泰は三河の矢作川で布陣し新田勢を迎え撃つ事になります。

矢作川の戦いですが、高師泰は新田義貞に敗れました。

足利尊氏は高師泰が敗れた事を聞くと、自ら兵を率いて新田義貞との戦いを選択します。

足利尊氏は箱根竹ノ下の戦いで新田義貞の軍を破り、そのまま近畿に向かって進撃しました。

高師泰は足利直義の副将として熱田で朝廷軍と戦った記録が残っています。

足利尊氏は京都を占拠しますが、奥州から北畠顕家の軍が到着し楠木正成、新田義貞らが足利軍を破りました。

足利尊氏は赤松円心の助言もあり九州に落ち延び、高師泰も高師直と共に足利尊氏に従う事になります。

多々良浜の戦いで先陣を務める

九州に落ち延びた足利尊氏少弐頼尚に迎え入れられ、南朝の菊地武敏との間で多々良浜の戦いが行われました。

多々良浜の戦いでは前軍を足利直義が指揮し、後軍の指揮は足利尊氏が行っています。

多々良浜の戦いで先陣を務めたのが高師泰です。

高師泰は武勇に優れており、多々良浜の戦いでの勝利に大きく貢献しました。

尚、多々良浜の戦いの前後で高師泰は侍所頭人になっており、九州の武士たちに着到状に証判を与えた事も分かっています。

湊川の戦い

菊地武敏の軍を破り九州の多くの諸将を味方にした足利尊氏は一色道猷を九州の抑えとして残し、自らは大軍を率いて上洛しました。

この時に陸軍を足利直義が指揮し海軍を足利尊氏が指揮しています。

足利尊氏を補佐したのが高師直であり、足利直義を補佐したのが高師泰です。

湊川の戦いで足利軍は楠木正成や新田義貞と戦いますが、高師泰は足利直義の軍の副将として功績を挙げています。

足利軍は京都を占拠し後醍醐天皇を比叡山に囲み、後に和睦が成立しました。

各地の守護を歴任

光厳上皇が治天の君となり光明天皇が即位し室町幕府が始まる事になります。

後醍醐天皇は幽閉されますが、幽閉先の花山院を脱出し吉野で南朝を開く事になりました。

室町幕府が開府されると高師泰は所務沙汰を担当する引付頭人となります。

さらに、各地の守護を務めました。

守護国年表
越後1337~38年
尾張1339~40年
河内・和泉1347~49年
長門・岩見・備後1350~51年

高師泰は幕府の中枢にいる事が殆どなく、各地を転戦し敵対勢力との戦いを繰り広げる事になります。

金ヶ崎城の戦い

新田義貞は北陸で南朝の為に奮戦しますが、北朝の斯波高経に金ヶ崎城を囲まれました。

南北朝時代の金ヶ崎城の戦いが勃発しますが、新田義貞の守は固く斯波高経は攻めあぐねる事になります。

高師泰は幕府軍の援軍として各地の守護達の軍勢を引き連れて北陸に向かいました。

金ヶ崎城の新田義貞は苦しい立場に置かれ援軍を求めて脇屋義介らと城を脱出する事になります。

こうした事もあり金ヶ崎城は落城しました。

尚、金ヶ崎城の戦いで南朝方の尊良親王及び新田義顕が世を去り、恒良親王を捕虜にするなど大きな戦果を挙げています。

黒血川の戦い

後醍醐天皇の要請もあり1338年に北畠顕家率いる奥州軍が上洛しました。

奥州軍は鎌倉の斯波家長を蹴散らし、青野原の戦いでは土岐頼遠の奮戦はありましたが、幕府軍は敗れました。

室町幕府の中央では後詰めの軍として高師泰を派遣しています。

高師泰は黒血川に布陣し徹底抗戦の構えを見せますが、奥州軍は勝利したとはいえ青野原の戦いの損害も多く伊勢路に進路を変えました。

高師泰は奥州軍が近江を抜けて京都に入るのを阻止したと言えるでしょう。

尚、北畠顕家が伊勢路にルートを変更すると追撃戦を行い伊勢国雲津川、横田川で合戦を行った記録が残っています。

北畠顕家の軍勢は吉野を得て近畿で戦いますが、最終的に石津の戦いで高師直の軍に敗れています。

遠江で奮戦

1339年に高師泰は遠江に出陣し宗良親王の軍勢と戦っています。

遠江では大平城を攻撃し、さらには遠江守護の仁木義長と共に奮戦し南朝の三岳城、大平城を陥落させました。

三岳城は現在の浜松市の辺りであり、東海地方でも高師泰は奮戦しており、多くの戦いに参加した猛者だと言えるでしょう。

尚、遠江で共に戦った仁木義長も武勇に優れ勇将と呼んでも差し支えない人物です。

楠木正行との戦い

1347年頃になると河内国の楠木正行が細川顕氏や山名時氏の軍勢を寡兵で破りました。

楠木正行の存在は室町幕府の脅威になると考えられ、高師直が大軍を授けられ討伐に向かいます。

高師泰も楠木正行に対処すべく河内国に出陣しました。

高師泰は三千騎ほどの軍勢で淀に到着し、その後に和泉国堺浦に布陣しています。

堺浦は北畠顕家との戦いがあった場所でもあり、高師泰は先に抑えておいたのでしょう。

高師直と楠木正行の間で四条畷の戦いが勃発しますが、高師泰は参戦しませんでした。

それでも、堺浦から河内国石川に向かい向城を築城しています。

河内・和泉の守護

四条畷の戦いの後に、高師泰が河内・和泉の守護となっています。

この時期の高師泰は南朝勢力と戦っており、楠木正行の邸宅など敵陣を焼き払っています。

守護所の古市及び石川に駐屯し近江の武士たちに警護されています。

近江の武士たちに警護させるのは、身の危険を感じてもいたのでしょう。

聖徳太子廟の破壊

河内国にいた頃の高師泰ですが、園太暦によると聖徳太子廟から徴収を行い太子像を破壊した話があります。

聖徳太子は古代日本の聖人として崇められる人物でもあり、かなりの罰当たりに感じる人も多いはずです。

さらに、高師泰は太子像の破壊だけに留まらず、砂金を奪い太子廟を焼き払ってしまった記録もあります。

高師直の石清水八幡宮や吉野の炎上などと合わせて、高師直・師泰兄弟が悪辣だとされる理由ですが、私利私欲で行ったわけではなく室町幕府の為に行ったとする指摘もあります。

さらに、一時資料などで確認出来る部分を見ると、当時の守護と同程度の事しかやっていないとする見解もあります。

実際に高師泰が太子廟に対して不埒な事を行ったのは事実かも知れませんが、軍用金の為など必要だからやった部分もあるのでしょう。

南北朝時代は食糧や物資が不足しており、何かしらの徴収が無ければ生きて行くのが難しかったはずです。

兵粮料所の設置

兵粮料所は後醍醐天皇や後村上天皇も行った政策で寺社や公家などの所領を期間限定で徴収できる制度です。

高師泰は守護の権限に従い和泉国泉南郡御袖、日根荘内日根野村を淡輪重継や日根野時盛に預けています。

高師泰は決して強欲だから兵粮料所を設置したわけではなく、陣の警護や功績のあった武士たちへの経済的な負担を減らす為だと考えられています。

当時は食糧が不足しがちであったり超インフレ状態でもあり、仕方がない措置だったとも言えます。

高師泰は一部の地域だけを兵粮料所としましたが、後に足利義詮により中央の八カ国で兵粮料所が認められ全国に拡大していく事になります。

観応の擾乱

四条畷の戦いの後に室町幕府の内部で足利直義高師直の対立がピークに達しました。

1349年の6月に足利直義は足利尊氏に働きかけ高師直の執事職を解任しています。

これが観応の擾乱の始まりとなります。

高師直が解任されると新たなる執事として高師泰が選出されますが、高師泰は受けず高師世が執事に任命されました。

高師世は高師泰の子です。

河内で兵を率いていた高師泰は京都に進軍し、高師直と合流しました。

足利直義は兵を殆ど集める事が出来ず、兄である足利尊氏の邸宅に逃げ込む事になります。

高師直と高師泰は軍勢を使って将軍の邸宅を包囲する御所巻きを行いました。

足利尊氏が代表者となり高師直と交渉した結果として、足利直義の出家と高師直の執事復帰が認められたわけです。

石見国への出陣

足利尊氏直義の養子である足利直冬にも出家する様に命じましたが、足利直冬は従わず九州に落ち延びました。

足利直冬は勢力を拡大し少弐頼尚らに支えられ幕府方の一色道猷との戦いを優位に進めました。

室町幕府では1350年6月に高師泰を総大将とする軍を九州に向けて進軍させ、まずは直冬に味方する石見国の三隅城を攻撃する事になります。

足利直冬は尊氏の子でもあり大義名分の上で不利と考えたのか高師泰は光厳上皇の院宣を獲得し長門・石見・備後の守護になった上で出陣しています。

高師直は錦の御旗まで北朝の朝廷に用意して貰いました。

高師泰は最善を尽くした上で出陣した様に思うかも知れませんが、実際には兵の集まりが悪かったのか直冬が九州に落ち延びてから、数カ月遅れての出陣となっています。

石見国の三隅城を高師泰は攻撃しますが、中々落とす事が出来ず苦戦しています。

この時期に高師泰は何かしら感じる所があったのか、息子たちに譲状を与えています。

観応の擾乱で足利直義が失脚し、高師直が勝利はしましたが、先行きが不透明な部分も多々あり、何かあった時の為に息子たちに譲状を発行したと考える事が出来ます。

石見国の戦いで苦戦した高師泰も思う所があったのでしょう。

結局、高師泰は直冬方の三隅城を落す事が出来ず、石見国から撤退し京都に向かう事になります。

高師泰は足利直冬がいる九州に到達出来ずに撤退する事になったわけです。

打出浜の戦い

高師泰が石見国より前に進めなかった事を知ると、足利尊氏高師直を連れて自ら九州遠征に乗り出しました。

ここで出家し政務を引退した足利直義が大和で挙兵する事になります。

足利直義は挙兵する時に高師直及び高師泰兄弟の討伐を理由に挙兵したわけです。

当然ながら足利尊氏の九州遠征は中止となり、備前から撤退し京都を目指しました。

足利尊氏は京都で直義軍と戦い尊氏軍は丹波へ撤退し、後に播磨の書写山に向かう事になります。

足利直義は南朝にも降伏し多くの支持を得た事で戦力では足利尊氏を圧倒しています。

高師泰は石見国にいましたが、足利尊氏や高師直との合流を目指し播磨に移動しました。

足利尊氏、高師直、高師泰らの軍勢と直義の軍が激突し、打出浜の戦いで足利直義が勝利しています。

名将と呼ばれた高師直と高師泰ですが、足利直義の流れを止められなかったとも言えるでしょう。

尚、打出浜の戦いでは高師直や高師泰も負傷した話があり、最後まで希望を捨てず戦いきった様にも見えます。

後に足利直義は尊氏との間で講和が結ばれました。

足利尊氏は京都に向かいますが、遥か後方を高師直及び高師泰が歩く事になり、落ちぶれてしまった姿を人々に印象付けています。

高師泰の最後

足利直義との講和の条件では高師直と高師泰は出家と政務引退を条件に助命されるはずでした。

しかし、講和の約束は反故にされ、高師泰、高師直、高師世らは摂津国武庫川近辺の鷲林寺の前で殺害されています。

高師直及び高師泰が観応の擾乱で敗れた事で、高氏の一族の多くが没落しました。

ただし、全ての髙氏の一族が没落したわけではなく、高師泰の後継者に養子の髙師秀がなります。

髙師秀の子孫は室町幕府の奉行衆を務めており、高一族にも生き残りがいた事が分かっています。

高師泰の動画

高師泰のゆっくり解説動画です

この記事及び動画は戎光祥出版の南北朝武将列伝北朝編を元に作成してあります。

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