名前 | 斯波家長 |
生没年 | 1321-1338年 |
一族 | 父:斯波高経 弟:氏経、氏頼、義将、義種 子:詮経 |
1338年 | 杉本城の戦い |
コメント | 若くして奥州総大将に任命される |
斯波家長は斯波高経の嫡子であり、若年にして奥州総大将にも任命されています。
斯波氏は足利一門の中でも吉良氏と並ぶ家格の高さを誇っており、家柄の良さもあり若くして奥州総大将になったのでしょう。
後醍醐天皇は北畠顕家に陸奥将軍府を任せていますが、斯波家長は北畠顕家と戦っていく事になります。
政治力では斯波家長と北畠顕家は互角だともされていますが、軍事力においては及ばず戦えば必ず敗れました。
ただし、斯波家長はいつも少ない兵力で北畠顕家と対峙しており、足利尊氏が近畿に多くの兵を連れて行った為に、戦いに敗れたとする見解も根強くあります。
尚、斯波家長は松井優征先生が描く逃げ上手の若君にも登場し、主人公の北条時行と戦った事で知名度が上がり、父親である斯波高経よりも有名になっている様です。
因みに、逃げ若では斯波家長は北条時行に敗れて命を落としていますが、これはフィクションだと考えた方がよいでしょう。
斯波家長の出自
斯波家長は1321年に斯波高経の長子として生まれた事が分かっています。
鎌倉時代の斯波高経は鎌倉にいる事が多かったと考えられており、斯波家長も鎌倉で過ごしていたのでしょう。
斯波家長が誕生した時代は鎌倉時代の末期であり、1333年に鎌倉幕府が滅亡しました。
父親の斯波高経は足利尊氏と共に後醍醐天皇方に寝返り、六波羅探題を滅ぼす功績を挙げており、建武の新政が開始されると越前守護に任命されています。
奥州総大将
建武政権では陸奥将軍府の長官として北畠顕家を配置しました。
1335年に北条時行による中先代の乱が勃発すると、足利尊氏は後醍醐天皇に無断で兵を動かし中先代の乱を鎮圧しています。
この時に足利尊氏は斯波家長を奥州総大将に任命し奥州及び出羽を任せています。
奥州総大将任命時の斯波家長の年齢は15歳だったと伝わっており、斯波氏の重臣たちが支える体制だったと考えるのが妥当でしょう。
奥州総大将に任命された斯波家長は、後の関東執事や関東管領と同程度の権限が与えられていたとされています。
斯波家長には恩賞や裁判の権利など様々なものを有したとされているわけです。
斯波家長は奥州紫波郡に行き斯波館を本拠地としました。
現在の盛岡付近を本拠地にしたと考えればよいでしょう。
東国の要
北畠顕家の陸奥将軍府に対抗する存在として、斯波家長は奥州に向かいました。
陸奥将軍府は後醍醐天皇の皇子である義良親王を権威とし、北畠顕家が長官となり補佐する体制となっています。
陸奥将軍府は建武政権の地方分権政策の一つで、北畠顕家は広大な奥州を治める為に、地方の武士を郡奉行に任命し守護並みの権限を与えました。
北畠顕家の政策が上手くいき陸奥将軍府は求心力を高め斯波家長は苦しい立場となります。
建武政権では足利尊氏を朝敵とみなし新田義貞を討伐軍として派遣しますが、足利尊氏は箱根竹ノ下の戦いで勝利し、そのまま足利直義らと共に京都を目指しました。
足利尊氏は幼少の足利義詮を鎌倉に残しますが、足利義詮の執事も斯波家長が担当する事になります。
斯波家長は若くして東国の要ともいえる存在になったわけです。
それと同時に斯波家長は足利尊氏の西征を成功させる為に、奥州の北畠顕家の監視及び封じ込めるのが任務となります。
当然ながら奥州では斯波家長と北畠顕家の間で緊張感が高まりました。
北畠顕家に出し抜かれる
北畠顕家は上洛軍を起こすと凄まじいスピードで近畿を目指しました。
斯波家長は奥州の北畠顕家の上洛を許してしまい奥州軍を追いかける形で、相馬重胤らと関東に入る事になります。
ただし、北畠顕家の移動速度が余りにも早く斯波家長は追いつく事も出来なかったわけです。
斯波家長は1335年から1336年に掛けて駿河・甲斐・下総・常陸・安房・上野・陸奥などに軍勢催促、感状授与、所領安堵などを行い、従弟の斯波兼頼や氏家道誠、中賀野義長を奥州に派遣するなどしています。
尚、斯波家長が奥州の北畠顕家を足止め出来ていれば、近畿での戦いは足利尊氏が勝利し、九州に落ち延びる事もなく歴史は変わっていたともされています。
因みに、近畿で足利尊氏を九州に駆逐する大戦果を挙げた北畠顕家が奥州に戻って来るわけですが、ここでも斯波家長は戦いに敗れたと伝わっています。
斯波家長と光明寺
斯波家長が奥州での政治的な記録としては、光明寺古文書が現存しています。
光明寺古文書には下記の様に書かれていました。
斯波家長奉書/建武3年(1336)。 鎌倉府執事の斯波家長が光明寺とその寺領に対する地頭等の不当な干渉を禁止した文書。
https://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/bunka/page-c_01288.html
上記の記述から斯波家長が寺社を保護しようとしていた事は間違いないでしょう。
斯波家長の東国経営は中々進展しなかった話もありますが、北畠顕家が奥州に戻ってきた時には、奥州は荒れており北畠顕家が陸奥将軍府の本拠地を防備に向かない多賀城から伊達霊山城に移した話があります。
さらに、北畠顕家や結城宗広が後醍醐天皇の上洛要請に対し、難色を示した話もあり、一応の成果は上がっていたとみる事も出来るはずです。
斯波家長には軍事に対する記録は少なく、国内を纏める為の政治に力を入れていたのでしょう。
斯波家長の最後
1338年に北畠顕家は後醍醐天皇の要請により、結城宗広や伊達行朝、南部師行らを連れて再び上洛軍を起こしました。
斯波家長は北畠顕家の動きに対し、鎌倉で迎え撃つ事になります。
この時に北畠顕家は北条時行を調略したとも言い、さらには新田義貞の子である新田義興も奥州軍に加わりました。
斯波家長は上杉憲顕や桃井直常らと防戦しようとしますが、中々に上手くは行かなかったわけです。
斯波家長は北畠顕家に追い詰められて行き、杉本城に籠城しました。
しかし、斯波家長の最後の抵抗も虚しく杉本城の戦いで敗れ落城しています。
斯波家長は討死しており、勇敢に戦い最後を迎えたのでしょう。
斯波家長の評価
斯波家長ですが、ライバルとも目されている北畠顕家と比べると政治力は引けはとらないが、軍事能力では大きく劣るとされています。
しかし、幾つかの資料で見ても北畠顕家に比べると、軍勢の数で斯波家長は大きく劣っているわけです。
斯波家長が戦力を充実させる事が出来ない理由ですが、足利尊氏が近畿で戦っており、戦力を大幅に動員していると考える事が出来ます。
父親の斯波高経が室町幕府成立後に越前守護として、新田義貞と激闘を繰り返していた事も戦力を整える事が出来なかった理由となります。
近畿に多くの武士たちを割かれてしまい、斯波一族からの援軍も期待出来ずに、少ない兵力と共に戦い討死したのが斯波家長なのでしょう。
尚、斯波家長には子がおり、これが高水寺斯波氏になったと伝わっています。