名前 | 小笠原政長 |
生没年 | 1319ー1352 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:小笠原貞宗 子:長基、中川清政、長興 |
コメント | 観応の擾乱を乗り越え信濃守護の立場を固めた |
小笠原政長は小笠原貞宗の子で信濃守護になった人物です。
小笠原政長の時代は観応の擾乱が勃発しており、苦難の中で奮闘したと言えるでしょう。
観応の擾乱の前半戦では諏訪直頼に押されまくり信濃守護の座も剥奪されますが、後半戦では足利尊氏に味方し信濃守護に復帰しています。
武蔵野合戦が終わると亡くなったと考えられており、観応擾乱という苦しい時期を乗り越え小笠原氏の信濃守護としての立場を固めました。
諏訪直頼の打倒を生涯において掲げており、亡くなる直前に無念さを語っていたりします。
逃げ上手の若君で弓の名手として大きく取り上げられた父親の小笠原貞宗に比べると知名度は劣りますが、小笠原氏興隆に貢献した君主だと言えるでしょう。
小笠原政長の登場
小笠原政長は笠系大成によると、元応三年(1319年)の生まれだとあります。
鎌倉時代末期に生まれた事になるでしょう。
ただし、子供だった事もあり、鎌倉時代に小笠原政長がどの様な事をしたのかは分からない状態です。
建武四年(1337年)に足利尊氏から美濃国中河御厨地頭職を授けられた文書に、小笠原兵庫助政長の名前があり、これが史料の上で最初に記録された小笠原政長だとされています。
小笠原政長は室町幕府が始まる頃までには、元服して官途を得ていた事は明らかでしょう。
信濃守護に就任
父親である小笠原貞宗は1347年頃に亡くなったとされており、小笠原政長が信濃守護及び惣領の座を継承しました。
この頃までには遠江守にもなっていた事も分かっています。
小笠原政長が家督を継いだ頃には、高師直が四条畷の戦いで楠木正行を破るなどもあり、大きく権勢を高めていました。
高師直と足利直義の対立は激化し、観応の擾乱の直前に小笠原政長は家督を継いでしまったと言えるでしょう。
見方によっては巡り合わせが悪かった人物にもなります。
御所巻
足利直義は高師直の執事職を解任しますが、小笠原貞宗は高師直を支持しました。
高師直に高師泰の軍が加わり、直義がいる足利尊氏邸を囲んでいます。
この時に小笠原貞宗も高師直方の武将として参戦しました。
御所巻により足利直義が失脚し、高師直が政権復帰を果たしています。
小笠原政長と諏訪直頼
小笠原政長と激しく争ったのが、信濃の有力国人である諏訪直頼(諏訪頼継)です。
諏訪直頼は中先代の乱で北条時行を担いだ諏訪頼重の子です。
諏訪直頼は足利直義から一字拝領もされており、バリバリの直義派でした。
高師直と足利尊氏は九州遠征を行いますが、足利直義は挙兵し観応の擾乱は軍事衝突に発展しました。
直義の南朝降伏などもあり、直義派に与する者が多く諏訪直頼も信濃で快進撃を続ける事になります。
諏訪直頼は埴科郡山郷の守護館を陥落させ、小笠原政経が籠城する筑摩郡放光寺に進撃しました。
小笠原政経は小笠原政長の弟で守護代にもなっていましたが、諏訪直頼の功績に耐えきれず降伏しています。
さらに、諏訪直頼の軍は甲斐にも進撃し、高師冬を討つのにも多いに貢献しました。
この時に小笠原政長は京都にいましたが、中央でも足利直義が高師直や足利尊氏の軍勢を圧倒していたわけです。
小笠原政長も自邸を焼き払い足利直義に降りました。
高師直と足利直義の最終決戦である打出浜の戦いでは、小笠原政長は直義方として出陣しています。
足利直義が完勝した事で、この時までには諏訪直頼が信濃守護となっており、小笠原政長は信濃守護の座を剥奪されています。
諏訪直頼は京都に滞在し、足利直義の側近となりました。
信濃守護に復帰
観応の擾乱の前半戦で小笠原政長は諏訪直頼に敗れはしましたが、信濃では権益を巡っての争いは続く事になります。
足利直義は天下人となりましたが、足利尊氏の権限を奪わず、南朝との交渉の失敗や恩賞問題、義詮との対立もあり求心力を下げました。
信濃の高井郡野辺宮原(長野県須坂市)で、小笠原勢が諏訪直頼の守護代である祢津宗貞と合戦にまでなっている事が分かっています。
足利尊氏と直義の対立も激化しており、小笠原政長も尊氏派の信濃守護に復帰しました。
小笠原政長は観応の擾乱の前半戦では直義派の圧倒的な戦力の前に屈しただけであり、諏訪直頼に対抗する為に尊氏派に与したのでしょう。
小笠原政長の奮戦
赤松則祐が興良親王を擁立し、佐々木道誉と共に南朝の武将となると、桃井直常の進言もあり足利直義は北陸に移りました。
この時に諏訪直頼も足利直義に同道しています。
足利直義は関東に向かいますが、この時の小笠原政長は信濃におり、足利直義の信濃通過を妨害する様に命じられています。
信濃の小笠原勢は北信濃の野尻城や米子城に軍勢を配置し、防備を固めています。
足利直義は信濃を通過しなかったと見られますが、諏訪直頼は本国である信濃に入りました。
諏訪直頼の軍勢が米子城を攻撃するも、小笠原勢が奮戦し撃退しています。
小笠原政長は各地で転戦し、遠江引間宿(現在の静岡県浜松市)では吉良満貞の代官とも戦った記録が残っています。
甲斐でも戦ったり、信濃では諏訪直頼の軍勢を夜山中尾(長野県上田市)で破りました。
この勝利により小笠原勢の優勢が明らかになったわけです。
足利義詮は上杉藤成の闕所地である信濃国春近領の半分を宛がわれました。
観応の擾乱の前半戦では諏訪直頼に歯が立ちませんでしたが、小笠原政長は後半戦で大きく盛り返したと言えるでしょう。
観応の擾乱での勝者となる
足利尊氏は南朝に降伏し東征を行っており、観応の擾乱の最終決戦を迎えようとしていました。
この時に足利尊氏は小笠原政長に駿河出陣を命じていますが、駿河に参陣する事は出来なかったわけです。
足利尊氏は直義を破りますが、小笠原政長は甲斐国七覚寺で直義派の武田貞政を破り鎌倉に入る事になります。
観応の擾乱が終わると、薩埵山体制が布かれ上杉憲顕ら直義派の諸将が解任され、畠山国清、宇都宮氏綱、河越直重ら尊氏派の諸将が重用されました。
小笠原政長も足利尊氏により信濃の春近領を安堵され、信濃国内の闕所地処分権も宛て行われました。
観応の擾乱で一時は諏訪直頼に圧倒されましたが、終わってみれば信濃守護の座を固める事に成功しています。
この後に宗良親王、新田義興、北条時行らが挙兵し、武蔵野合戦が勃発しました。
小笠原政長も武蔵野合戦に出陣したと考えられています。
武蔵野合戦では足利尊氏が勝利ました。
小笠原政長の最後
武蔵野合戦が終わった直後に小笠原政長は病に倒れました。
激戦を潜り抜けて来ており、疲労が溜まっていたのでしょう。
小笠原政長は一族の女性に書状で「諏訪直頼を討ち取る事が出来なかったのが心残りだ」と告げた話があります。
諏訪直頼が小笠原政長にとっての終生のライバルだったのでしょう。
小笠原政長は死期を悟っており、嫡子の松王(小笠原長基)に家督を譲りました。
これが観応三年(1352年)の事であり、この直後に小笠原政長は亡くなったとも考えられています。
1352年に五月から七月に足利尊氏は小笠原政宗なる人物に守護職や所領を安堵しており、1352年に亡くなったとするのが有力です。
ただし、正平20年(1365年)まで生きた説や1355年に小笠原長基が守護となっており、この頃までには引退もしくは亡くなったとする考え方もあります。