名前 | 小笠原長基 |
別名 | 政宗?、清順(法名) |
生没年 | 1347年ー不明 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:小笠原政長 兄弟:中川清政 子:長秀、政康 |
コメント | 最後まで信濃守護に復帰出来ず |
信濃守護となり父親の政長同様に、諏訪氏との抗争を繰り広げています。
足利尊氏が亡くなり義詮の時代になると、旧直派が幕府に復帰し、信濃守護の座を剥奪されました。
後に信濃守護は斯波氏がなったりしますが、小笠原長基は信濃守護に返り咲く為に活動を行っています。
小笠原長基は京都でも活動を行いますが、最後まで信濃守護に復帰する事は叶いませんでした。
ただし、息子の小笠原長秀が足利義満に働き掛けた事で、信濃守護となりますが、結局は剥奪されています。
小笠原政宗と小笠原長基
小笠原政長は1352年に亡くなったと考えられています。
足利尊氏は1352年に小笠原孫次郎政宗に守護職や所領安堵を行っています。
この小笠原政宗と小笠原長基が同日人物だと考えられています。
同一人物説を採用すると小笠原政宗が長基に改名したと考えるわけです。
他にも、小笠原政宗と長基は兄弟だとする説もあり、イマイチはっきりとしない部分となっています。
ただし、小笠原長基が最終的に信濃守護になり、信濃小笠原氏の家督を継いだ事は間違いありません。
尚、小笠原長基が後継者になる事は、祖父である小笠原貞宗の時代から決まっていたとも言います。
信濃での戦い
小笠原長基が家督を継いだ時期は観応の擾乱や武蔵野合戦が終わったばかりの頃であり、信濃も乱れていました。
信濃守護の小笠原長基は宗良親王ら南朝の勢力や仁科氏、香坂氏らとも戦っていた事も分かっています。
さらに、上杉憲将や祢津宗貞らとも戦闘が行われ、信濃の有力国人である諏訪直頼(頼継)とは桔梗ヶ原で戦いました。
桔梗ヶ原では諏訪直頼に勝利しています。
小笠原長基は室町幕府の武士として南朝や旧直義派と戦った事になるでしょう。
信濃守護を喪失
1358年に足利尊氏が没しました。
これが小笠原長基の転機となります。
足利義詮が後継者となりますが、義詮は国が纏まらないのは、旧直義派が原因だと見抜いていたわけです。
足利義詮と鎌倉公方の足利基氏は旧直派を重用し、幕政復帰させ反乱を防ごうと考えました。
薩埵山体制で厚遇された畠山国清、宇都宮氏綱、河越直重らが守護を外されるなど冷遇され、代わりに旧直義派の上杉憲顕が重用されるなどしています。
こうした流れは信濃にまで波及し、小笠原長基の信濃守護が解任され、代わりに上杉憲将が信濃守護に補任されました。
小笠原氏は元々は甲斐の出身であり、守護の権力により成り上がっており、信濃守護を外された事を不満に思っていた事でしょう。
小笠原長基は信濃守護を解任されましたが、全ての権益を失ったわけではありません。
祖父の小笠原貞宗が信濃守護に補任されてから、既に小笠原氏も三代目であり政治的な基盤は持っていたわけです。
さらに、小笠原長基は信濃守護を解任されても、信濃守は維持しており政治的な権限を持っていた事は明らかでしょう。
塩尻郷を巡っての戦い
小笠原長基が信濃守護を剥奪されると、国人たちとの争いが増加しました。
貞治四年(1365年)に塩尻郷金屋で諏訪直頼と合戦に及んでいます。
さらに、塩尻郷の所領の一部を諏訪下社や石清水八幡宮に寄進しました。
石清水八幡宮や諏訪下社を優遇する事で、塩尻郷の権益を保持する狙いがあったのでしょう。
軍事指揮権
1367年に鎌倉公方の足利基氏が亡くなりました。
そのから間もなくして、征夷大将軍の足利義詮も亡くなっています。
足利義満が義詮の後継者となり、基氏の後継者が足利氏満となります。
1370年に小笠原長基が国人の市川氏に「公方御左右(将軍の意向)」として、水内郡常岩牧内の所領を兵粮料所として預け置いた文書が残っています。
これらの文書から、信濃守護の上杉氏に準ずる軍事指揮権を与えられていたと考える事が出来ます。
出家
小笠原長基は出家し、清順と名乗った話があります。
小笠原長基の小笠原長秀への譲状が残されており、京都屋地が確認されています。
1379年に小笠原長基は建仁寺禅居庵で、祖父である小笠原貞宗の三十三回忌を行いました。
これらの事から、小笠原長基は信濃だけではなく、京都にも政治基盤を持っていた事になります。
小笠原長基は京都で足利義満に接近するなどしました。
信濃小笠原氏が少しでも有利になる様に、実力者である足利義満に近づいたのでしょう。
斯波氏に抵抗
1380年代に斯波義種が信濃守護になるなど、信濃では斯波氏の影響力が強くなりました。
斯波氏では守護代を現地に派遣してきますが、有力国人の村上氏らと共に守護代の入部に抵抗しています。
小笠原長基は信濃守護は小笠原氏が補任されるべきと考え、地元勢力と結託し抵抗したのでしょう。
明徳の乱で活躍
1391年に勃発した山名氏との戦である明徳の乱の、内野合戦でも活躍しました。
1392年に小笠原長基の子の長秀が、足利義満の相国寺供養に共奉した事が確認されています。
南北朝時代は1392年の明徳の和約により終焉しますが、この頃までには信濃小笠原氏は南信濃において勢力を拡大していました。
小笠原長基の最後
小笠原長基がいつ亡くなったのかは分からない部分が多いです。
南北朝合一後に亡くなった事だけは間違いないでしょう。
小笠原長基自身は最後まで信濃守護に復帰する事はありませんでした。
しかし、息子の小笠原長秀が足利義満に接近しており、1400年に信濃守護になっています。
その後に国人たちの反発もあり、再び信濃守護は解任されました。
後に弟の小笠原政康が後継者となり、信濃守護に復帰しています。
小笠原氏は信濃では外様であり、反発も大きく守護勢力を固める事が出来ず、小笠原長基も最後まで苦戦したと言えるでしょう。