名前 | 正平一統 |
時代 | 南北朝時代 |
年表 | 1351年ー1352年 |
コメント | 一時的に皇統が一本化された |
正平一統は室町幕府の降伏という形で、北朝が消滅し皇統が南朝で一本化された出来事です。
この時の南朝の元号が『正平』であり、正平一統と呼ばれました。
後醍醐天皇に始まる南北朝時代は、正平一統により皇統は一つになったと言えるでしょう。
しかし、観応の擾乱が終わると、南朝側から正平一統を破棄し近畿では京都を攻撃し、関東では武蔵野合戦が起きています。
歴史的に正平一統が注目されないのは、短期間で終わってしまったからだと言えるでしょう。
尚、正平一統の始まりの予兆は、観応の擾乱での足利直義の南朝降伏に始まると考えており、今回は直義の南朝降伏から話をします。
正平一統の第一段階
足利直義の南朝降伏
正平一統への第一段階として、足利直義の南朝降伏があります。
足利直義は観応の擾乱の前半戦に、高師直により出家に追い込まれますが、大和で挙兵しました。
ここで足利直義は、戦況をさらに有利に進める為に、南朝に降伏したわけです。
足利直義は長井広秀を使者として南朝に派遣し、銭一万疋を献上しました。
金銭を贈るだけではなく、足利直義は数カ条の講和条件の提示をしたと言われています。
南朝では重要事項故なのか、直ぐに答えは出さず保留しました。
それでも、直義は南朝を味方にし、多くの武士に支持され打出浜の戦いで高師直に勝利し、観応の擾乱の前半戦の勝者となりました。
伊勢での対立
足利直義と南朝への講和交渉はスムーズにいけば、正平一統が成っていたのかも知れませんが、スムーズには行きませんでした。
正平一統がまとまらない事で、問題も起こっています。
南朝の重鎮である北畠親房の子の北畠顕能が伊勢で軍事活動を行っていました。
そこで足利直義は室町幕府の伊勢守護である石塔頼房に鎮圧を命じています。
石塔頼房は強硬な直義派として有名な武将であり、講和交渉が纏まっていない事から、南朝同士とも言える戦いとなってしまったわけです。
尚、足利直義は二階堂行通を吉野への使者としましたが、辞退された話も残っています。
足利直義は光厳上皇に報告する必要もあり、夢窓疎石や洞院公賢などの北朝の有力者とも話し合いの場を持ちました。
洞院公賢の子の洞院実世は南朝に仕えており、洞院公賢は勘当していましたが、これを機に勘当を解いた話も伝わっています。
和平派筆頭・楠木正儀
楠木正成は湊川の戦いで戦死しましたが、足利尊氏を建武政権に組み込むように後醍醐天皇に進言するなど和平派でした。
こうした楠木氏の流れを引き継いだのか、楠木正儀もバリバリの講和派であり、正平一統には前向きな姿勢を見せています。
足利直義は南朝との交渉の過程で、後村上天皇の帰京を楠木正儀の代官に要請した話もあります。
しかし、皇位継承をどの様にするのかで、話は中々まとまらなかったわけです。
直義時代に正平一統が纏まらなかった最大の原因は、皇位継承をどの様にするのかの取り決めだったと言えるでしょう。
進展しない交渉
醍醐寺の僧清浄光院房玄法印は、幕府側の講和条件を南朝に提出しました。
房玄は南朝の本拠地である賀名生まで行き、後村上天皇と直接面会もしています。
房玄は大僧正になるなど厚遇されていますが、講和交渉の方は不調でした。
それでも、足利直義は諦めずに交渉を継続し、楠木正儀の代官と連絡を取ったり、長井広秀や二階堂行珍らが奉行となり、南朝との交渉を継続しています。
正平一統は南北朝時代を終わらせる為の交渉でもありますが、進展が難しかったわけです。
吉野御事書案
足利直義と南朝の交渉の記録として吉野御事書案があります。
大きく分けると三つの問題点が存在しています。
皇位継承問題
皇位継承として南朝は後村上天皇による皇統の一元化を望みました。
当時の南朝の元号は「正平」であり、正平一統を望んだ事になります。
しかし、足利直義は北朝を捨て去る気はなく、光厳上皇も親しい立場であり、両統迭立を望みました。
過去に光明天皇が譲位を行い崇光天皇が誕生した時に、大覚寺統の邦省親王が皇太子に立候補した事がありました。
足利直義は邦省親王の立太子を認めず、花園天皇の子である直仁親王が皇太子となっています。
足利直義は観応の擾乱前に持明院統での皇位継承を望んでおり、南朝に妥協して両統迭立にしたとも言えます。
後村上天皇の子孫で皇位継承を続けるのか、両統迭立かで話し合いは難航しました。
室町幕府の存続問題
足利直義は南朝との交渉において、室町幕府の存続を主張しました。
当然ながら、武士団を束ねる室町幕府の存在を否定するわけにはいかなかったのでしょう。
南朝側は「足利氏が奪った天下を南朝に返還してから判断する」として、正式な回答をしませんでした。
南朝側としても幕府の存在を認める発言をしています。
北畠親房の神皇正統記でも、条件付きではありますが、幕府の存在を認めており、注目されるポイントでもあります。
所領問題
南北朝時代と言えば「所領問題」と言える程、全国各地で所領問題が多発していました。
正平一統の交渉において、南朝は全ての武士の本領を安堵すると認めています。
しかし、先の伊勢での例がある様に、足利直義は南朝の武士が各地の所領を侵略している事を批判しました。
正平一統の段階においてのみならず、当時は全ての武士が満足するだけの恩賞を与えるのは不可能であり、恩賞問題を解決するのは困難だったと言えるでしょう。
交渉の決裂
足利直義と南朝の講和交渉は五カ月にも及びました。
しかし、観応二年(1351年)五月十五日に南朝の使者が京都に入り、直義の提案を拒否した事を告げています。
当時の南朝の指導者でもあった北畠親房は、直義の提案を後村上天皇に取り次ぎもせず、突き返しています。
足利直義の時代に結局は正平一統も両統迭立も成されず、交渉は失敗に終わりました。
交渉が決裂した原因は南朝側は皇統一本化の「正平一統」を望み、足利直義は両統迭立を望んだ事です。
さらに、所領問題も大きく隔たりがあり、交渉は失敗に終わりました。
他にも、直義は南朝に降伏しても、北朝の元号を使い続けるなど、南朝側としては不信感も強かったはずです。
観応の擾乱の講和期の足利直義の政治はイマイチであり、失政と呼んでも差し支えないレベルでしょう。
激怒する楠木正儀
楠木正儀は和平派の最右翼でした。
しかし、交渉が纏まらなかった事で、激怒し足利直義に「幕府に寝返り吉野を攻め落とす」と述べたと伝わっています。
楠木正儀は後村上天皇への忠誠心を失ったわけではなく、正平一統も両統迭立もならず、南北朝が解消されなかった事への一時的な怒りだったのでしょう。
「幕府に寝返る」「吉野を攻撃する」など過激な事を言っている楠木正儀ですが、後村上天皇の時代には南朝に忠義を尽くしています。
交渉決裂から2カ月ほどたつと、楠木正儀が南朝の武将として活動し、河内で放火などを行っていた記録もあります。
ただし、長慶天皇の時代になると、主戦派が勢いづき、楠木正儀は居場所を失くし、細川頼之に通じ足利義満の幕府に寝返りました。
赤松宮興良親王
興良親王は護良親王の遺児であり、常陸合戦では北畠親房と袂を分かちました。
赤松則祐は過去に護良親王に仕えており、鎌倉幕府を滅ぼす戦いでは、自ら父親の赤松円心の所に出向き、説得し倒幕に舵を切らせています。
赤松円心はドライな武士であり、足利尊氏に接近すれば利益があると思い、近づきましたが、赤松則祐は足利をよく思ってはいなかったのではないかともされています。
特に護良親王を殺害した足利直義を、嫌っていたのではないかとも考えられるわけです。
赤松円心が存命中は従っていましたが、1350年に赤松円心が亡くなり、兄の赤松範資も翌年に亡くなり、赤松則祐が赤松氏の当主となりました。
これでタガが外れたのか、赤松則祐は興良親王を擁立しました。
興良親王は赤松氏に担がれ「赤松宮」とも呼ばれる事になります。
赤松則祐は観応の擾乱の前半戦で尊氏・師直派に属していましたが、滝野光明寺城の戦いで無断で戦陣を離れてしまった前科もあります。
この時期の赤松則祐には、何かしらの心の動きがあったのかも知れません。
物騒な世の中
観応の擾乱の講和期に斎藤利泰が光厳上皇の元を訪れ帰宅する時に、何者かに殺害される事件が起きました。
斎藤利泰は足利直義に非常に近しい人物です。
この時期には桃井直常も何者かに襲撃されており、不穏な空気が世の中に流れていたと言えるでしょう。
直義派に関して、よく思っていない者も多くいたのかも知れません。
足利義詮の同居拒否
足利直義は細川顕氏の邸宅で暮らしていましたが、三条殿である足利義詮と同居しようとした話があります。
足利直義は義詮との協調路線を考えて、三条殿に移ろうとしたのかも知れません。
しかし、足利義詮は拒絶しました。
足利義詮は直義を嫌っており、同居を拒否したと言えるでしょう。
後に足利直義は細川顕氏邸から、山名時氏邸に移動しており、この頃から細川顕氏との間にも隙間風が吹いていたと考えられています。
足利直義は最終的に三条殿付近にある押小路東洞院の新邸に住む事になります。
不穏な空気
足利直義は孤立に進んでいる様に見えますが、こうした時期に都では足利尊氏が美濃に逃れるとの噂が流れました。
この噂はガセではありましたが、都が騒然となります。
他にも、近江守護の六角氏頼が出家し、弟の山内信詮に守護が代わっています。
小笠原政長は観応の擾乱の前半戦で尊氏・師直派でしたが、直義派に寝返った武将です。
地方では既に観応の擾乱の第二ラウンドが始まっていたとも言えます。
正平一統への第二段階
直義の北陸出奔
こうした中で佐々木道誉と赤松則祐が室町幕府に反旗を翻し、南朝の武将になっています。
足利尊氏と義詮は鎮圧のために東西に出撃し、尊氏派の諸将も京都から自分の勢力圏に戻りました。
足利直義は桃井直常の進言もあり、京都を包囲されたと考え、越前に下向し金ヶ崎城に入る事になります。
足利尊氏は直義が出奔した話を聞くと、京都に戻りました。
尊氏と直義派の畠山国清、石塔頼房、桃井直常の間で八相山の戦いが勃発しています。
足利尊氏は八相山の戦いに勝利すると、すかさず直義に講和を求めました。
講和交渉は惜しい所まで行きますが、失敗しています。
足利尊氏はこれと同時に南朝への講和交渉を始めており、これが正平一統に向かう事になります。
足利尊氏の南朝との交渉
足利尊氏は直義との講和交渉を始めるのと同時に、南朝にも働き掛けました。
最初に円観(恵鎮上人)を南朝に派遣しますが、講和交渉には失敗しています。
足利尊氏としては、南朝との講和交渉を自分が成功させ、直義に幕府内での居場所を作りたかったのでしょう。
尊氏の直義の事を考えた態度が正平一統を成立させる事になります。
足利尊氏は直接南朝にアプローチするのではなく、南朝の武将になっていた赤松則祐に目を付けました。
足利尊氏は二階堂時綱と安威資脩を使者として、赤松則祐の元に派遣しています。
足利尊氏と赤松則祐
赤松則祐は南朝の興良親王を擁立していましたが、足利尊氏と南朝とのパイプ役になりました。
足利尊氏と敵対したはずの赤松則祐が、急に和解の道に走ったのかは不明です。
一つの説として赤松則祐のかつての主君であった護良親王を殺害したのは、足利直義であり、直義への恨みが強かったとも考えられています。
さらに言えば、既に佐々木道誉も室町幕府に帰順しており、娘婿にあたる赤松則祐を説得したともされています。
既に足利義詮も赤松則祐に接近しており、赤松則祐は播磨の伊川城に攻撃を加え須磨城、坂根、稲野で戦い義詮が感状を発行しました。
赤松則祐は直義派と戦ったと見られており、室町幕府と親しい関係になっている事も分かるはずです。
足利尊氏は遂に南朝との講和が成立させ、正平一統の直前まで来たと言えるでしょう。
尚、室町幕府が成立した頃の足利尊氏は政務を直義や高師直に丸投げしており、自身は殆ど口出しもせず名前だけの征夷大将軍でした。
しかし、室町幕府の危機が訪れるや、戦いに勝利するだけではなく、複数の手段を用いて講和交渉を成立させるなど覚醒した人物に変貌したわけです。
正平一統の成立
後村上天皇の条件
赤松則祐は1351年11月に正式に上洛し、室町幕府の武将となりました。
南朝の使者である忠雲僧正が山城国宇治に滞在しており、正平一統への講和条件の細部を詰める事になります。
正平一統への講和交渉は足利義詮と佐々木道誉、赤松則祐が中心となって行い足利尊氏は蚊帳の外だったとも考えらえれています。
南朝の後村上天皇は講和条件として、次の二点を挙げています。
・元弘一統の時代に回帰する
・直義を追討する
後村上天皇が出した二点を室町幕府が「可」とすれば正平一統が成立する事になります。
北朝の消滅と足利尊氏
元弘一統への回帰は、南朝の皇位継承で一本化する事であり、北朝が廃止される事になります。
南朝の皇統への一本化は足利尊氏は特に問題にしなかったともされています。
そもそも足利尊氏は後醍醐天皇に親愛の情を抱いており、後醍醐天皇の元で働きたかったとも考えられています。
後醍醐天皇と仕方なく敵対した時も、持明院統の光明天皇を即位させていますが、皇太子には後醍醐天皇の皇子である成良親王としました。
成良親王が践祚すれば、後醍醐天皇が治天の君として君臨出来る道を残しておいたわけです。
しかし、後醍醐天皇は吉野に走りました。
足利直義は北朝を捨て去る事は出来ず両統迭立を進言しますが、足利尊氏は北朝を捨て去るのに、そこまでの思い入れも無かったとみる事が出来ます。
直義追討と足利尊氏
足利尊氏にとって問題なのは、後村上天皇が出してきた足利直義の追討です。
足利義詮は直義を敵視しており、後村上天皇が出した「直義の追討」は何ら問題のない事であり、むしろ好都合でした。
義詮は目先の利益を優先させる傾向にあり、直義の追討は大歓迎だったと言えるでしょう。
洞院公賢の園太暦では、この頃に京都では足利尊氏が義詮を追討するという噂が流れました。
京都の人々は足利尊氏と義詮の対立を感じ取っていたのでしょう。
足利尊氏と義詮が対立する理由ですが、足利尊氏は直義との「和解」を望んでいたと考えられます。
しかし、綸旨で「直義追討」の文字が入ってしまうと、どうしても直義を打倒せねばならなくなります。
義詮は「直義の打倒」を考え、尊氏は「直義との和解」を考えていたのであり、両者はどうしても対立する事になります。
正平一統におけるネックになっていたのは「直義追討」の一文です。
室町幕府の存続
後村上天皇の出した条件には、室町幕府の存続について書かれていませんでした。
足利尊氏は仕方がなく綸旨を遂行すると伝え請文を発行する事になります。
請文の中で足利尊氏は「直義と直冬については当方に相談しながら退治する事を、官軍にお命じになる様にお願いします」とする一文を入れました。
足利尊氏は室町幕府の活動の継続を望んでおり「自分に相談した上で命令する様に」と釘を刺しているわけです。
一般的には足利尊氏は適当な性格であり、後顧の憂いを断つ事だけを考えて南朝に降伏したとされていますが、実際には室町幕府の存続も考えて行動していたと言えるでしょう。
足利尊氏が南朝の講和条件を呑んだ事で、正平一統は成立しました。
北朝の廃止
足利尊氏は直義を討つために東国に下向しました。
南朝では四条隆資や洞院実世が京都に入りました。
これにより崇光天皇と皇太子の直仁親王が廃され、北朝は消滅しています。
実務の上でも正平一統が成ったと言えるでしょう。
足利尊氏は正平一統が成立すると、南朝の元号である「正平」を直ぐに使い始めました。
直義が観応の擾乱で南朝に降伏しても、北朝の元号を使い続けたのは対照的です。
尊氏は直義と違い北朝を捨て去る事にためらいも無かったのでしょう。
足利尊氏は関東に進撃し薩埵峠の戦いで、直義軍を崩壊させました。
足利直義は降服しますが、間もなく病死しており、観応の擾乱は終焉を迎えています。
観応の擾乱が終わると、室町幕府では『遠江ー信濃ー越後』よりも東は尊氏が統治し、西は義詮が統治する分割体制が取られました。
これまでは権限の分割統治でしたが、これから先は領域の分割統治に代わったとする見解もあります。
正平一統の破棄
正平一統と三種の神器
観応の擾乱の最終局面である薩埵山の戦いが行われている間にも、正平一統の手続きは進んでいました。
正平六年(1351年)12月には北朝の三種の神器が南朝に渡る事が、洞院公賢を通じて光厳上皇に伝えられています。
これにより三種の神器は南朝に移りました。
南朝の後村上天皇の子孫が皇統を受け継ぐ事になっていたので、三種の神器も北朝の手を離れたのでしょう。
皇位継承の証である三種の神器は南朝の手に渡りました。
後村上天皇の移動
後村上天皇が京都に移り政務を行う事も決定しました。
足利直義が死去した翌日に、後村上天皇は京都に入る事を宣言し、足利義詮も納得しています。
正平七年(1352年)の終わり頃に、後村上天皇は賀名生を出発し、京都に向かいました。
後村上天皇の行列に護衛と称して、楠木正儀も加わる事になります。
この時には護衛にしては「かなり大人数」であり、既に軍勢と呼んでもよい規模だったわけです。
後村上天皇は住吉の行宮に入りますが、この頃に宗良親王が南朝の征夷大将軍となりました。
北朝の軍隊であった室町幕府の征夷大将軍は足利尊氏でしたが、この頃には足利尊氏は征夷大将軍では無くなっていた事になるでしょう。
義詮の方では円観を派遣し後村上天皇と何度も交渉を行った話があります。
地頭職の管轄についてなどを義詮は後村上天皇に確認を行い交渉したとされています。
しかし、後村上天皇は既に正平一統の破棄と京都への侵攻を考えており、軍隊が集まるまでの時間稼ぎでしか無かった様です。
京都に侵攻
後村上天皇は石清水八幡宮に移りました。
石清水八幡宮は観応の擾乱の前半戦において、足利直義が高師直を討つための本拠地とした場所です。
後村上天皇は正平一統を破棄し、楠木正儀らに命じ京都に攻撃を仕掛けました。
室町幕府では不意を衝かれる形になりましたが、細川顕氏が迎撃し七条大宮で激闘が繰り広げられました。
しかし、幕府軍は戦いに敗れ細川頼春が戦死しています。
義詮は光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王ら皇族の最重要人物ですら置き去りとし、近江に逃亡しました。
正平一統破棄による京都侵攻により、室町幕府の政治の中心地でもあった三条殿が焼かれています。
既に三種の神器も南朝に接収されており、室町幕府は正平一統の破棄により正統性も失われてしまったと言えるでしょう。
北朝の皇族たちの後村上天皇がいる石清水八幡宮に移されており、北朝は完全に消滅しました。
正平一統の破棄と関東
近畿では南朝の軍が京都を占拠しましたが、同時期に関東では新田義貞や脇屋義助の遺児である新田義宗、義興、脇屋義治らが蜂起しました。
南朝の北畠親房が京都と関東で同時に蜂起し、一気に室町幕府を滅ぼしてしまおうと画策したとされています。
正平一統の破棄により関東でも新たなる戦いが始まり、武蔵野合戦が始まったわけです。
武蔵野合戦では旧直義派の上杉憲顕や旧鎌倉幕府の勢力である北条時行も加わり、大規模なものとなりました。
正平一統の破棄は誰が悪い?
正平一統で南朝と幕府は手を結んだのは皆が知っている通りです。
勿論、幕府側にも観応の擾乱という都合はあった事でしょう。
しかし、正平一統を破棄し約束を破り、京都に侵攻したのは明らかに南朝であり、非は南朝にあるはずです。
室町幕府は正平一統を信じ、足利尊氏も南朝の元号である「正平」を使用し三種の神器も引き渡したにも関わらず、一方的に破棄し暴力的な方法で京都を占拠してしまいました。
それらを考慮すると、正平一統破棄となったのは、南朝方が非が大きいと言わざるを得ないでしょう。
室町幕府に詐術を働いた事にもなります。
石清水八幡宮での攻防戦
義詮は正平一統が破棄された事で、南朝の正平の元号をやめ北朝の元号である観応に戻しました。
父親の足利尊氏も武蔵野合戦が終わる頃には、観応の元号を使う様になっています。
足利義詮は近江の四十九院の近辺にいましたが、美濃の土岐頼康が軍に加わりました。
義詮は態勢を整えると京都に攻撃を仕掛け、南朝の軍は八幡に籠城する事になります。
後村上天皇がいる石清水八幡宮の兵は奮戦し、洞ヶ峠の戦いでは土岐頼康の舎弟である悪五郎が戦死しました。
幕府軍の総大将を務めたのは細川顕氏であり、細川清氏、山名時氏、師義、赤松則祐、土岐頼康らが攻撃に加わっています。
過去に幕府執事の高師直は石清水八幡宮に火を放ち「罰当たり」な人物としてバッシングされていますが、この戦いでは細川顕氏も石清水八幡宮に火を放ちました。
南朝では幕府軍に侵攻に対し楠木正儀らを外に出すなどしますが、状況は好転せず食料が不足してきました。
こうした時期に北畠顕能の股肱之臣とされた湯川荘司が幕府に投降し、後村上天皇は撤退を決断しています。
石清水八幡宮の撤退戦において、後村上天皇らしき人物が馬に乗り、撤退している事で話題にもなりました。
尚、幕府軍総大将の細川顕氏は子の細川政氏を失いながらも南朝軍を破っており、過去に楠木正行に敗れて没落した汚名返上を果たしたと言えそうです。
ただし、細川顕氏も体力を使い過ぎたのか、2カ月ほどで世を去っています。
後光厳天皇の擁立
正平一統の破棄による戦いは、関東では足利尊氏が武蔵野合戦で勝ち抜き、関西でも足利義詮が勝利しました。
しかし、北朝の皇族は賀名生に連行されており、室町幕府の存在は宙に浮く事になります。
室町幕府では北朝を再興する必要があり、光厳天皇の子の弥仁王に目を付けました。
光厳天皇の母親である広義門院が治天の君の代わりとなり、弥仁王が践祚し後光厳天皇となります。
北朝は元号を文和に変えますが、北朝では後円融天皇、後小松天皇も三種の神器なしで即位しており、正統性に疑問を持たれる結果となりました。
後に南朝は光厳上皇らを返還しますが、今度は崇光天皇の系統と後光厳天皇の系統で皇位継承を争い、足利義満が強引に後光厳流を守るなどしています。
正平一統の破棄により、北朝は分裂してしまったとも言えるでしょう。