室町時代

上杉重能は機転を利かせた交渉で活躍した

2025年9月21日

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宮下悠史

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名前上杉重能(うえすぎしげよし)
生没年生年不明ー1350年
時代南北朝時代
一族父:勧修寺道宏 母:加賀局 同母弟:重兼 
異母兄弟:憲顕、憲藤、重行、高師秋
子:顕能?、重季 養子:能憲
コメント口は災い喪の元?

上杉重能は宅間上杉氏の祖というべき人物です。

観応の擾乱では高師直を讒言した人物として、畠山直宗と共に有名ではないでしょうか。

ただし、上杉重能の父親は勧修寺道宏でしたが、母親の加賀局が上杉家の人間であり、上杉家の人間として扱われました。

合戦での武勇は不明ですが、箱根竹ノ下の戦いの前には足利尊氏に偽の綸旨を提出する策を考案したりしています。

足利尊氏が新田義貞と一騎打ちを行おうとした時は、諫めるなど交渉などで相手を説得するなどの能力にたけていたのでしょう。

最終的に高師直の御所巻により失脚し、越前に配流され、畠山直宗と共に最後を迎えています。

上杉重能を見ていると「口が禍したのかな?」と思える部分が多々見受けられます。

尚、上杉重能を祖とする宅間上杉氏は、後に江戸幕府の旗本となり家は残りました。

上杉重能の出自

上杉重能は勧修寺道宏と加賀局の間に出来た子です。

同母兄弟には上杉重兼がいます。

加賀局は上杉頼重の娘です。

理由は不明ですが、勧修寺道宏が早くに亡くなってしまったのか、上杉重能は上杉憲房の猶子となりました。

上杉系図には上杉重能は勧修寺道宏の子として記録されており、尊卑分脈には上杉憲房の子として書かれていますが、実際には本当の父親は勧修寺道宏であり、上杉憲房の養嗣子になったとされているわけです。

経緯は不明ですが、上杉重能が上杉氏の人間として考えられていた事は間違いないのでしょう。

上杉憲顕の子である上杉能憲を養子としていますが、後に上杉能憲は上杉憲顕の後継者となり関東管領となっています。

関東に下向

後醍醐天皇は倒幕を成し遂げると建武の新政を始めますが、我が子である成良親王を関東に下向させる計画を立てました。

この時に御所修造足として道眼(宇都宮氏?)と共に上杉重能の名前が登場しており、これが史料上の初見だとされています。

上杉重能は建武政権では、関東で活動する事になります。

鎌倉府が設立され足利尊氏の進言もあり、成良親王を頂点とし、実質的には足利直義が政務をみる機関が誕生しました。

上杉重能は関東で職務を果たし、関東廂番の六番にも名前を連ねています。

阪田雄一氏は太平記に足利尊氏が建武政権で武蔵、常陸、下総の知行地を得ている事に着目し、尊氏の守護代としても上杉重能が関東に下向したと考えました。

尊氏の伊豆国司や武蔵守護の名代として、上杉重能は関東に下向したともされています。

関東廂番にも名を連ねる上杉重能ですが、最初は足利尊氏の被官だったと言うのが正しいのでしょう。

偽の綸旨

北条時行の中先代の乱が勃発すると、足利直義は敗れ一時は鎌倉も奪われました。

足利尊氏が救援に来ると、諏訪頼重らを破り鎌倉を奪還しますが、後醍醐天皇からは朝敵認定されています。

新田義貞が鎌倉討伐に向かい足利直義が迎撃しますが、戦いには敗れました。

太平記には、この時の上杉重能の逸話が掲載されています。

足利直義は鎌倉に戻りますが、須賀清秀から足利尊氏が建長寺に入ったと聞かされました。

群臣たちは尊氏が出家すると考え慌てますが、上杉重能は次の様に進言しています。

※太平記より

上杉重能「将軍(足利尊氏)が出家し法体になっても、天皇(後醍醐天皇)の譴責から逃れられないと知れば、出家は思い直すはずです。

偽の綸旨を三通ほど書き、将軍に見せてはどうでしょうか」

上杉重能は後醍醐天皇の偽の綸旨を作成し、戦場に立たせようとしたわけです。

足利直義は上杉重能に偽の綸旨を作成する様に命じました。

上杉重能は字が得意な者を呼び寄せ、綸旨を執筆する蔵人の筆跡と同じものを書かせました。

文言には後醍醐天皇が足利尊氏と直義の討伐を命じ、出家しても引退しても刑罰を緩和してはならない。

居場所を見つけ次第、すぐに誅伐する。

功績のあった者には恩賞を与えると偽の綸旨を書いたわけです。

偽の綸旨の宛先を変えて10通ほど作成し、足利直義が涙ながらに尊氏に見せると、尊氏は偽の綸旨とは思いもよらず戦いを決断しました。

太平記によると鎌倉の足利尊氏の元には三十万騎が集まり、箱根竹ノ下の戦いで新田義貞を破る事になります。

足利尊氏を諫める

足利尊氏は京都に向かって進撃しますが、北畠顕家らに敗れ九州に落ち延びています。

少弐頼尚の助けもあり再度上洛すると、湊川の戦い新田義貞と楠木正成を破りました。

尊氏の上洛戦争には上杉重能も同行しています。

太平記によると足利尊氏は東寺にいますが、外には新田義貞がおり一騎打ちを望みました。

足利尊氏は一騎打ちを「望むところ」と述べると、出陣の命令を出しますが、ここで諫めたのが上杉重能です。

上杉重能は楚漢戦争の項羽劉邦を例に出し、次の様に述べています。

※太平記より

上杉重能「これは一体どういう事なのでしょうか。

楚の項羽が漢の高祖(劉邦)に向かって『一騎打ちで勝負を決めよう』と述べますが、劉邦は『お前を討つには罪人で十分だ』と述べて笑って相手にしませんでした。

義貞は軽率にも深追いし過ぎて撤退出来ないので、自分に相応しい敵に会ったと言い、やけになって怒っているだけでございます。

軽々しく出陣してはなりませぬ」

太平記によると、この時の上杉重能は尊氏の鎧の袖に取り着き引き留めたので、尊氏は出陣を取りやめた話があります。

この話からも、最初は上杉重能は足利直義よりも尊氏に近い人物だったとも考えられています。

尚、上杉重能の言葉の中で項羽が劉邦に一騎打ちを望んだ話ですが、史記にも書かれている話です。

この時の項羽は彭越により両道を断たれ苦しくなってきており、一騎打ちを申し込んだわけですが、上杉重能からみれば新田義貞と項羽の姿が重なったのでしょう。

この後に、土岐頼遠の活躍もありましたが、新田義貞は2万の兵で20万騎の敵と戦い撤退に成功させた話があります。

出仕停止

暦応元年(1338年)十二月に足利直義は、上杉重能に対し出仕停止を命じました。

出仕停止に関しては、出羽上杉家文書に書かれています。

こうした理由から、上杉重能の立場が脆弱だった事の現れとみる事も出来ます。

この後に暫く上杉重能は、光福寺に寄進を行ったこと位しか活動が見られなくなります。

上杉重能が何をしていたのかも、イマイチ分かっていません。

三方制内談方

康永三年(1344年)になると。室町幕府で足利直義が管轄する三方制内談方が発足されました。

三方制内談方の頭人に選ばれたのが高師直、上杉朝定、上杉重能の三名です。

上杉重能は足利直義の執事になっていたともされていますが、見事に幕政復帰したと言えるでしょう。

この時には、直義派の重鎮になっていたと考えられています。

足利尊氏の傘下から足利直義の配下に変わったと見る事が出来ます。

ただし、貞和二年(1346年)四月に雑務への口出しを禁止されており、直義との関係も再検討する必要があるのかも知れません。

上杉重能の施行状

高師直が四条畷の戦いで大功を挙げると、幕府内の権勢が強くなっていきます。

こうした時期に上杉重能が直義袖判下文の施行状を発行しました。

豊後託摩文書に書かれています。

直義の所領安堵下文には施行状が発行されないのが普通です。

ただし、直義も申請者が実効支配していない所領に関しては、下文を発行する事があり、こうした場合には執事の高師直が執事施行状を発行していました。

上杉重能の施行状は高師直以外の人物が初めて発行する施行状として注目されています。

ただし、直義に近しい上杉重能の施行状発行は、直義派と師直派の対立を現わしているとも考えられています。

上杉重能の発行した施行状も様式も文言も、高師直の執事施行状と同じです。

同時期に内談方頭人も高師直と上杉朝定が任務を解かれ、石橋和義と仁木義氏が新たに就任しました。

崇光天皇の践祚

貞和四年に北朝では光明天皇から崇光天皇に変わりました。

この時に後二条天皇の子で大覚寺統の邦省親王が、崇光天皇の皇太子になる様に働きかけています。

北朝の中でも大覚寺統と持明院統の両統迭立を期待したのでしょう。

足利直義は上杉重能を使って、邦省親王の野望を阻止しています。

崇光天皇の皇太子は花園天皇の子の直仁親王となりました。

信用されない讒言

太平記によると上杉重能と畠山直宗が高師直高師泰の兄弟を讒言したと言います。

上杉重能や畠山直宗の話は中国の故事を用いて太平記に書かれていますが、具体的な内容は不明です。

太平記では足利尊氏や直義も上杉重能と畠山直宗の讒言を全く信用しなかったと言います。

讒言があったのかは不明ですが、的外れな事を述べたのかも知れません。

しかし、妙吉の言葉に足利直義は心を動かされる事になります。

妙吉は元々高師直や高師泰を嫌っており、上杉重能や畠山直宗に接近したとされています。

足利直義は上杉重能、畠山直宗、大高重成、栗飯原清胤、斎藤季基らと謀議を交わし、高師直の暗殺を謀った話もあります。

ただし、暗殺計画は栗飯原清胤や宍戸朝重が高師直に合図を送った事で、失敗に終わっています。

足利直義は足利尊氏に相談し、高師直を失脚させました。

これにより上杉重能が施行状を発行するかに思えましたが、施行状は足利直義が自ら発行しています。

二度目の失脚

執事の職を剥奪され怒った高師直は高師泰と合流し、軍を京都に入れました。

この時に上杉重能は足利直義の元に馳せ参じています。

高師直は御所巻を行いますが、畠山直宗、妙吉、斎藤利泰、飯尾宏昭らの身柄を要求しました。

高師直からしてみれば、自分が排除されてしまったのは、上杉重能らが讒言した為と考えていたのでしょう。

御所巻により足利尊氏が高師直の要求を受け入れ、上杉重能は畠山直宗と共に越前への流罪が決定しました。

上杉重能は人生で二度目の失脚となっています。

この時に高師直は上杉重能や畠山直宗の身柄を直接受け取れず、不満であった様ではありますが、失脚させる事には成功しています。

上杉重能の最後

上杉重能は畠山直宗と共に越前に入りますが、畠山直宗と共に逃亡し足羽荘に入るも殺害されています。

園太暦によると上杉重能と畠山直宗は配所から100騎ほどの軍勢で、越前の足羽荘に没落し室町幕府を驚かせた話もあります。

しかし、結局は殺害されてしまいました。

上杉重能と畠山直宗は八木光勝に殺害されたとも、高定信に殺害されたとも伝わっています。

尚、観応の擾乱の前半戦のクライマックスが打出浜の戦いであり、足利直義高師直を破りました。

この後に、上杉重季上杉能憲らが父である上杉重能の仇を討ち、高師直を滅ぼしています。

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