周の康王の時代は、史記などによれば天下安寧だったと記述があります。
周の康王の父親である成王の時代は、三監の乱があり混乱があった事を考えれば、康王の時代が西周王朝で一番平和だった様に思うかも知れません。
しかし、金文などの資料を見ると、康王の時代が平和だったとは言えない部分が多々あります。
金文などの資料を考えると、周の康王は諸侯の封建が一段落し、対外的には強硬策で異民族を討伐したのが実態なのでしょう。
今回は、周の康王の時代が、どの様な時代だったのか史記や金文から解説します。
尚、金文には康王の名が無く、代わりに休王の名前があり、康王は生前に休王と名乗っていたのではないか?とも考えられています。
史記における康王の時代
史記における周の康王の時代を解説します。
後述しますが、史実とはかけ離れているのではないか?とも考えられています。
天下安寧ではなかった?
史記には、下記の記述があり周の康王の時代は天下安寧だったとされています。
康王は即位すると、あまねく諸侯に文武の遺徳を継承する事を宣言し「康王之誥」を作った。
それ故に、成王と康王の時代は天下安寧であり、刑罰を用いないこと、40余年間に及んだ。
史記の記述からは、康王の時代は平和だったかの様な記述が存在します。
「刑罰を用いない事、40余年」と言うのは、司馬遷の平和を指す表現だと思った方がよいでしょう。
秦の孝公の時代に宰相になった商鞅が、商鞅の変法を成功させた時も「道に物が落ちていても、拾わなくなった」とありますし、
孔子が魯で国政に参与した時も「道に物が落ちていても、通行人は拾わなくなった」や「通行には男女が別の道を歩くようになった」などの記述があります。
それらを考慮すると、康王の時代に刑罰が行われなくなったと言うのは、世の中が治まっている事の表現にも感じました。
実際には、周の康王の時代であっても、殺人事件があり泥棒もいたはずだと考えられ、刑罰を用いないのはあり得ないと言えます。
後述しますが、金文から見る、西周王朝の時代は戦いの連続であり、平和だったとは感じられません。
周の成王や康王の時代が「成康の治」と呼ばれ、平和な時代だとされるのは、孔子が原因ともされています。
孔子は周公旦(周の文王の子で武王の弟)を理想の人物として掲げ、周の礼制を絶賛し「我は周に従わん」とも述べています。
孔子は顔回や子貢、子夏、子夏、子路などの多くの弟子を持ち、世の中に与えた影響が強かったわけです。
そうした理由から、周は文化や礼制に優れた手本になる国家とされ、周公旦が政治に大きく関わった成王の時代や康王の時代は理想の時代とされてしまいます。
事実とは、かけ離れた内容が後世に伝わってしまったとも言えるでしょう。
ただし、康王の時代に周は中原の地を完全に平定したとも考えられています。
畢命を作る
史記によれば康王の時代に次の記述があります。
康王は冊書を作る様に命じた。
畢公に民の善悪によって住居を区別し、郊外の境界を明らかにさせようと「畢命」を作らせた。
康王は畢公高に命じて、法整備を行ったとも考える事が出来るでしょう。
これが周の風習となって行ったのかも知れません。
周の穆王の時代に、呂刑という法律が制定された話もありますが、畢公高の畢命から進化させたものなのかは不明です。
畢命は周の決まり事であり、呂刑は罪を犯した時の刑罰の法律だったのかも知れません。
余談ですが、呂刑は三千もの種類があり、評判が悪かった話があります。
尚、畢公高は戦国時代の魏の始祖であり、戦国七雄の一角を担いますが、最後は秦に滅ぼされています。
周の康王の最後
周の康王の最後ですが、史記では下記の記述があるだけです。
「康王が崩御し、昭王瑕が即位した」
史記では、康王がどの様な理由で最後を迎えたのかの記述がありません。
ただし、康王の後継者である、周の昭王の時代に「王道がやや衰えた」とする記述があるので、史記からは康王の時代が周の全盛期だった事が伺えます。
尚、史記では周の昭王の時代は南方に巡狩したなどの記述がありますが、実際には南征を行い楚と激戦を繰り広げたなどの説が有力です。
金文における康王
金文における康王の時代を解説します。
個人的には、金文は一次資料とも考えられ、700年以上も経って書かれたとされる、史記よりも信憑性は高いと考えています。
休王が康王なのか?
金文では康王の名前が一切登場しません。
代わりに休王なる人物が、周王朝として登場しますが、休王自体が謎の存在だったわけです、
これが長い事、議論されていました。
一つの説として、周の孝王が休王だったのではないか?と考えられた時代もあったようです。
周の孝王は、西周王朝では珍しく親子で王位を継承したわけではなく、孝王は懿王(orの共王)の弟であり、兄弟間で孝王が即位しているからです。
他にも、史記では孝王が崩御すると、諸侯が懿王の子である夷王を即位させ、王位の親子継承に戻した話があり、孝王は代理の王であり「休」の文字で呼ばれたのではないか?とも考えられていました。
しかし、近年の研究で孝王だと時代が合わない事などが指摘され、最近では休王は周の康王の事ではないか?と考えられる様になっています。
休王が康王であれば、年代的にも矛盾がなく整合性が取れる事も分かってきています。
金文に書かれている「休王」は、康王が生前に名乗っていた王名であり、亡くなってからは康王と呼ばれたのではないか、とする意見が主流となっています。
周の成王も生前から成王を名乗っていた事は、金文から明らかになっていますし、王名が必ずしも死後の諡名ではないと言う事です。
因みに、康王の「康」は、休王の廟が「康廟」と呼ばれていた事もあり、死後は休王から康王に改称されたと考えられています。
ただし、あくまで想像であり決定打に欠けるのも現状と言えるでしょう。
盂の活躍
周の康王の時代は、周初に活躍した周公旦や呂尚(太公望)などは、既に亡くなってしまった可能性が高いですが、先に述べた様に畢公高や燕と関係が深い召公奭は生きていた事が分かっています。
康王は召公奭や畢公高に補佐され、王朝を運営していましたが、外征で大活躍したのが「盂(う)」という将軍です。
盂は北方の玁狁討伐に活躍し、二人の酋長、捕虜13000、斬首4800,車30両、牛355頭の戦果を挙げた事が分かっています。
盂は、車30両の戦果を挙げている事から、文明未開の民族を打ち破ったのではなく、敵も戦車を使う技術力があった民族を打ち破ったと考えられています。
盂が討伐を行った玁狁の名は、周の宣王の時代まで登場しなくなり、盂の戦果が大きく北方を平定したと言えるでしょう。
盂は史書には登場しませんが、かなりの名将と言ってもよいはずです。
因みに、盂に関しては、大盂鼎や小盂鼎を作った事でも有名になっています。
大盂鼎と小盂鼎に関しては、大きい鼎、小さい鼎ではなく、文字の大篆、小篆と同じように、古いの鼎、新しい鼎の意味で考えた方がよいでしょう。
尚、康王の時代に活躍した将軍は盂だけではなく、東夷征伐にも殷の八師を使い活躍した将軍がいる事も分かっています。
金文から周の康王の時代は、まだまだ周は拡張期だった事を知る事が出来ます。
決して、江戸幕府の徳川家光や室町幕府の足利義満の様な時代ではなかったわけです。
中原の地を統一
康王の時代に、中原の統一が成されたと考えられています。
洛陽の周辺や人口の密集地帯である中原の地を周王朝が抑えた事になります。
成王の時代に殷の後裔である武庚が三監の乱を起こしています。
三監の乱には、周の武王の弟である管叔鮮・蔡叔度・霍叔処らも大きく関わっているとされていますが、結局は鎮圧されてしまいました。
成王の時代は、殷の勢力が逆襲を企てていた事が分かりますが、康王の時代には殷の勢力を完全に抑え込む事に成功したのでしょう。
康王の時代は、諸侯の封建も行われ周の同族である姫姓の国が、中原の肥沃な地に封じられる事になります。
姫姓以外の異姓の国は、姫姓の国を守る様に外圧勢力の盾となるべく外に配置される様になります。
この様な姫姓優遇策が取れたのは、康王の時代には既に周王は諸侯に力で圧倒していた事を指すのでしょう。
殷末期の記述
康王の時代の名将である「盂」が作ったとされる大盂鼎には、殷の滅亡に関しての記述があります。
「上下の者が酒に淫し、天命を顧みなかった為である」
ここで注目されるのは、「上下の者が酒に淫し、天命を顧みなかった。」とする記述です。
史書などでは、殷が滅んだ原因は、殷の紂王一人の責任にされる事が多いと言えます。
殷の紂王が妲己に惑わされ、酒池肉林の生活や炮烙の刑に代表される残虐な刑罰を行い、比干、箕子、微子啓などの忠臣・賢臣を遠ざけた事が原因とされています。
しかし、康王時代の大盂鼎の言葉である「上下の者が酒に淫し、天命を顧みなかった。」の言葉を見るに、殷の者達の多くが酒に淫して天命を顧みなかった事になるでしょう。
康王の時代では、殷の滅亡は紂王一人の責任ではなく、殷全体の責任ではないか?とも考えられていた説があると言う事です。
康王は結局の所よく分からない事が多い
最後にまとめになるのですが、周の康王に関していえば、結局の所分からない部分が多いです。
専門家の間でも、周の全盛期は穆王の時代だと言う人もいますし、成王や康王の時代だという人で意見が別れています。
ただし、康王の時代は特に大きな失政は無かった様に感じています。
康王はそつなく周王朝を運営した様にも見えるからです。
ただし、歴史的に見れば、全盛期の王であっても後期には衰退の兆候が見えるのが普通であり、康王の時代は、次の混乱の始りを作った時代とも言えるのかも知れません。
それでも、康王の時代は周の勢いはまだまだ盛んであり、外征に励んだ時代とも言えるでしょう。