春秋戦国時代

秦の厲共公は軍事行動を再開した

2025年12月16日

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宮下悠史

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名前秦の厲共公
生没年生年不明ー紀元前443年
在位紀元前476年ー紀元前443年
一族父:悼公 子:躁公、懐公
コメント軍事行動を再開した

秦の厲共公は春秋戦国時代の君主です。

先代の哀公恵公悼公の三代は軍事行動を殆ど起こさなかったのですが、秦の厲共公の時代になると再び軍事行動を起こしました。

隣国であると戦った記録も残っています。

異民族である義渠を討伐し、王を虜にした話もあります。

厲共公には暗君の諡ともいえる「厲」の文字が入っていますが、どのあたりに問題があったのかは不明です。

諡で厲共公と名付けられた理由もよく分かっていません。

秦の厲共公の即位

秦の厲共公は、悼公が亡くなると、秦公として立ちました。

即位して2年目には、蜀人が朝貢して来たと言います。

と古蜀の間で、交流があったという事なのでしょう。

秦では厲共公の代から軍事行動を再開しており、古蜀との交流と関係しているのかも知れません。

秦の厲共公の軍事行動

史記の六国年表によると、秦の厲共公は秦は庶長を派遣し、の魏城を攻略しました。

こうした動きに対し、晋も紀元前463年に使者を派遣しましたが、講和を結ぶには至らなかった様です。

秦の厲共公の時代になると、と晋の間で再び対立する様になります。

紀元前461年に秦が黄河に沿って要塞を構築し、龐城や戯城の修復を行っています。

さらに、この年の秦の厲共公は、2万の兵で洛・河合流地点にある大茘の都城である王城を攻略しています。

秦の厲共公の時代に、秦の軍事行動は活発になったと言えるでしょう。

頻陽を県とする

秦本紀によると、紀元前456年に「初めて頻陽を県とした」とあり、その直後にが武城を取ったとあります。

話は前後していますが、渭水の南岸の武城を晋が陥落させ、渭水北岸では洛水に迫ったと考えられています。

結果として秦の厲共公は、洛水と涇水の中間にある頻陽を県として、晋に対抗したという事なのでしょう。

三晋分立

史記の秦本紀によると、秦の厲共公の24年(紀元前453年)に、が乱れ智伯が殺害され、その邑をで分けたとあります。

六卿の最大勢力であった智伯が晋陽の戦いで、趙襄子に敗れ命を落とした事になります。

翌年に智伯の子の智開や智寛が、秦の厲共公の元に逃げて来ました。

と晋は緊張状態にありましたが、晋で内乱が起きた事で、戦いは回避されたと言えるでしょう。

それと同時に、秦と晋の関係は良好となったのか、婚姻関係を結び晋の幽公の夫人の秦嬴は秦の出身です。

秦嬴は秦の厲共公の娘だったのかも知れません。

秦の厲共公と義渠

史記の秦本紀によると秦の厲共公の33年に、義渠を討ったとあります。

秦の厲共公は南鄭方面への進出を目指したのでしょう。

この戦いで軍は勝利し、義渠の王を捕虜にしたとあります。

ただし、これで義渠が滅んだわけではなく、義渠との戦いは継続される事になります。

秦の厲共公の最後

史記の秦本紀は紀元前443年に、日蝕があったと記録しました。

これが秦の厲共公の34年の出来事になります。

この年に、秦の厲共公が亡くなっています。

秦の厲共公が亡くなると、秦の躁公が後継者となりました。

尚、秦では日蝕が起きた時に、の人々は天変地異もしくは、名の知れた人物の死を予感したのかも知れません。

先代:悼公厲共公次代:躁公

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