
先代の哀公、恵公、悼公の三代は軍事行動を殆ど起こさなかったのですが、秦の厲共公の時代になると再び軍事行動を起こしました。
隣国である晋と戦った記録も残っています。
異民族である義渠を討伐し、王を虜にした話もあります。
厲共公には暗君の諡ともいえる「厲」の文字が入っていますが、どのあたりに問題があったのかは不明です。
諡で厲共公と名付けられた理由もよく分かっていません。
秦の厲共公の即位
秦の厲共公は、悼公が亡くなると、秦公として立ちました。
即位して2年目には、蜀人が朝貢して来たと言います。
秦と古蜀の間で、交流があったという事なのでしょう。
秦では厲共公の代から軍事行動を再開しており、古蜀との交流と関係しているのかも知れません。
秦の厲共公の軍事行動
史記の六国年表によると、秦の厲共公は秦は庶長を派遣し、晋の魏城を攻略しました。
こうした動きに対し、晋も紀元前463年に使者を派遣しましたが、講和を結ぶには至らなかった様です。
秦の厲共公の時代になると、秦と晋の間で再び対立する様になります。
紀元前461年に秦が黄河に沿って要塞を構築し、龐城や戯城の修復を行っています。
さらに、この年の秦の厲共公は、2万の兵で洛・河合流地点にある大茘の都城である王城を攻略しています。
秦の厲共公の時代に、秦の軍事行動は活発になったと言えるでしょう。
頻陽を県とする
秦本紀によると、紀元前456年に「初めて頻陽を県とした」とあり、その直後に晋が武城を取ったとあります。
話は前後していますが、渭水の南岸の武城を晋が陥落させ、渭水北岸では洛水に迫ったと考えられています。
結果として秦の厲共公は、洛水と涇水の中間にある頻陽を県として、晋に対抗したという事なのでしょう。
三晋分立
史記の秦本紀によると、秦の厲共公の24年(紀元前453年)に、晋が乱れ智伯が殺害され、その邑を趙・魏・韓で分けたとあります。
六卿の最大勢力であった智伯が晋陽の戦いで、趙襄子に敗れ命を落とした事になります。
翌年に智伯の子の智開や智寛が、秦の厲共公の元に逃げて来ました。
秦と晋は緊張状態にありましたが、晋で内乱が起きた事で、戦いは回避されたと言えるでしょう。
それと同時に、秦と晋の関係は良好となったのか、婚姻関係を結び晋の幽公の夫人の秦嬴は秦の出身です。
秦嬴は秦の厲共公の娘だったのかも知れません。
秦の厲共公と義渠
史記の秦本紀によると秦の厲共公の33年に、義渠を討ったとあります。
秦の厲共公は南鄭方面への進出を目指したのでしょう。
この戦いで秦軍は勝利し、義渠の王を捕虜にしたとあります。
ただし、これで義渠が滅んだわけではなく、義渠との戦いは継続される事になります。
秦の厲共公の最後
史記の秦本紀は紀元前443年に、日蝕があったと記録しました。
これが秦の厲共公の34年の出来事になります。
この年に、秦の厲共公が亡くなっています。
秦の厲共公が亡くなると、秦の躁公が後継者となりました。
尚、秦では日蝕が起きた時に、秦の人々は天変地異もしくは、名の知れた人物の死を予感したのかも知れません。