
| 名前 | 宋の襄公 |
| 姓・諱 | 子茲甫(史記)、子茲父(春秋左氏伝) |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前637年 |
| 在位 | 紀元前651年ー紀元前637年 |
| 一族 | 父:桓公 配偶者:王姫(周の襄王の姉) |
| 庶兄:目夷 子:成公、宋君禦 | |
| コメント | 宋襄の仁で有名な人物 |
宋の襄公は春秋時代の宋の君主です。
宋襄の仁の話でも、有名な人物だと言えるでしょう。
宋襄の仁のインパクトが強すぎて無能な君主と思われがちですが、斉の孝公を擁立したり、諸侯を集めて会盟を開いたりもしており、春秋五覇の一人に数えられる事になります。
しかし、楚の成王との泓水の戦いで大敗北を喫しており、股を負傷しました。
司馬遷は宋襄の仁を問題行動としながらも「君子から評価されている」との言葉を述べています。
それでも、宋の襄公は礼や徳に溺れた君主だと言えそうです。
尚、宋の襄公のYouTube動画も作成してあり、記事の最下部から視聴出来る様になっています。
宋の襄公の時代背景
宋の襄公は、当然ながら「宋」という国の君主です。
「宋」は殷王朝の子孫の国でもあります。
宋の国は、周では最高位である公爵を貰いました。
それでも、宋は国の規模でいえば、中程度の国です。
春秋時代の国力を見ると、大雑把に考えれば下記の様になるのではないでしょうか。
宋は中規模の国となりますが、宋の襄公は徳を明らかにし、覇者を目指す事になります。
宋の襄公の即位
宋の桓公は自分の余命が僅かだと考えると、太子の茲甫(宋の襄公)を後継者にする様に指名しました。
茲甫は辞退し、年上の兄である目夷(子魚)に後継者の座を譲ろうとします。
ここで目夷が辞退し、宋の桓公が許さなかった事で、茲甫が宋の後継者となりました。
茲甫が宋の襄公となります。
宋の襄公は目夷を宰相としました。
兄弟と言えば、時には後継者争いを繰り広げるわけですが、宋の襄公と目夷は宋の国君を譲り合い関係は良好だったと言えるでしょう。
さらに、宋の襄公と目夷が上手く機能し、国がよく治まった話もあります。
宋の襄公と管仲
宋の襄公の前半生は、春秋五覇の筆頭とも言える斉の桓公が絶大なる力を、持っていた時代でもありました。
宋の襄公も斉の桓公の会盟には、参加しています。
斉の桓公の会盟で、宋の襄公は管仲から高い評価を得る事になります。
管仲の言葉もあり、斉の桓公は公子昭(斉の孝公)を後継者に指名しました。
この時に、管仲は斉の桓公に寵愛する夫人が多い事を危惧し、後見人をつける様にと進言したわけです。
管仲は宋の襄公が信義に篤いと考えており、公子昭の後見人にする様に進言しました。
この話が真実であれば、他国人である宋の襄公を管仲は信頼した事になり、宋の襄公を高く評価していた事が分かります。
宋の襄公は公子昭の後見人となりました。
宋の襄公の斉の孝公を擁立
紀元前645年・管仲が亡くなり、2年後には斉の桓公が亡くなりました。
斉では公子昭が後継ぎに決まっていましたが、他の公子が後継者を主張し、内乱になります。
公子昭は斉の桓公の後継者になれず、公子無詭が斉の君主となりました。
公子昭は、後見人である宋の襄公に助けを求める事になります。
宋の襄公は公子昭の申し入れを了承し、諸侯を引き連れて斉を攻撃しました。
斉で争っていた公子たちは、連合して宋の襄公と戦いますが、宋の襄公の采配が巧みだったのか、宋及び諸国連合が勝利しています。
戦いの内容は伝わっていませんが、斉の公子らの軍は連合しても敵同士であり、纏まりが悪く宋の襄公に敗れたとも考えられています。
宋の襄公は完勝したわけですが、この完勝が慢心を生み野望に目覚めたとする説もあります。
公子昭は斉公となり、斉の孝公となりますが、斉の国力はガタ落ちであり、覇者として諸侯の上に立つような身分では無くなりました。
前に進めない鳥
史記の宋微子世家には、宋の襄公が斉の孝公を擁立する前年に、次の様な記述があります。
※史記の宋微子世家より
宋で隕石が雨が降るように落下した。
6羽の鳥も進む事が出来ずに、飛びながら退いた。
風が強かったからである。
宋の襄公の今後を予言したかの様な話となっています。
滕の宣公を逮捕
春秋左氏伝によれば、公子昭を斉に入れた翌年(紀元前641年)に宋の襄公が、滕の宣公を捕えた記録があります。
滕の宣公を捕えた理由がはっきりとしていません。
しかし、前年に斉の孝公を擁立する戦いがあり、滕の宣公は、非協力的な態度を取ったのではないでしょうか。
斉の孝公が即位したてで、諸侯を纏める事が出来なかった事から、宋の襄公が同盟国内の協力をする様にと、懲罰したのかも知れません。
宋の襄公による覇者としての、行動にも見受けられるわけです。
尚、宋の襄公は滕の宣公を生贄にしてしまった話も残っています。
宋の襄公の会盟
紀元前641年は、宋の襄公と曹、邾が会盟を行った記録があります。
国力から考えて、宋の襄公が会盟の長となったのでしょう。
宋と邾の会合はある程度、上手く行ったの可能性がありますが、曹とは不調だったとみる事が出来ます。
宋が邾に命令して、鄶子を捕えた話が春秋左氏伝にあります。
3年前の紀元前644年に斉が中心となり、淮夷に攻められて困っていた、鄶の為に城を作った記録があります。
しかし、城は完成せず、問題も起きた事で諸侯の軍は撤退しました。
この事件と宋の襄公が、邾に命令して鄶子を捕えた事と、関係があるかも知れません。
宋の襄公は鄶子を生贄にしてしまいました。
鄶子を生贄とした理由は、東夷を服属させる為だったとも考えられています。
宋の襄公は異民族との融和政策を、取ろうとしたのかも知れません。
それでも、宋の襄公は1年のうちに二度も、他国の君主を生贄にしてしまったと言えるでしょう。
宋の宰相の目夷は、宋の襄公の二度の生贄事件を非難する言葉を残しました。
尚、斉の孝公が陳、蔡、楚、鄭と紀元前641年に盟約を行っており、宋が参加していなかった事で、この時点で宋の襄公と斉の孝公の関係は破綻したとする見解もあります。
宋の襄公の宋攻め
紀元前641年は、宋の襄公が曹の都を包囲した年でもあります。
曹の共公は固く守り、宋の軍は落とす事が出来ませんでした。
目夷は宋の襄公に周の文王と崇侯虎を例に出し、徳が足りていないと指摘しています。
宋の襄公は目夷の進言を聴き入れ撤退を決断しました。
斉での会盟に不参加
斉の桓公が亡くなってからは、諸侯は纏まりが悪くなり、覇者不在の状況が続きました。
この頃で言えば、国は荒れていましたが、復興すれば国力が高い斉と。蛮夷だと思われいるが強国である楚。斉の孝公を即位させた宋の襄公。が諸侯のリーダーとして有力という雰囲気があった様です
こうした中で陳の穆公が諸侯に対し、斉を中心に纏まろうと提言しました。
陳の穆公の呼びかけに応じ、斉、蔡、鄭、楚などの諸侯が斉で会盟を開く事になります。
しかし、宋の襄公は参加しませんでした。
自らが覇者になりたいとも考えており、参加しなかったという見解もあります。
宋の襄公が斉での会盟に参加してしまったら、斉の孝公が覇者となるのを危惧したのかも知れません。
こうした宋の襄公の態度に対して、斉の孝公や楚の成王は不満だったのではないでしょうか。
尚、斉での会盟は斉の弱体化もあり、不調だったとも考えられています。
宋の襄公の会盟と転落
臧文仲の宋の襄公の評価
紀元前639年に、宋の襄公も会盟を主催する事となり、諸侯に通知しました。
鹿上の会が開かれる事になりますが、宋の襄公の呼びかけに応じ、斉や楚も集まる事になります。
魯の名宰相と呼ばれた臧文仲は、宋の襄公が会盟を開くと聞き、宋の襄公のやり方次第だと述べました。
臧文仲は宋の襄公が欲望を抑える事が出来るのかが、分かれ目だと考えていましたが、宋の襄公は失敗すると予見しています。
臧文仲は楚の成王が盟主になるとも考えており、宋の襄公の会盟には、魯の僖公も参加させなかったわけです。
宋の宰相の目夷も「禍の元」とも述べ、反対しました。
しかし、鹿上の会は楚の成王は参加しませんでしたが、何事も無く終わっています。
鹿上の会で宋の襄公は東周王朝から、覇者として認められたとする話もある状態です。
鹿上の会での功績により、宋の襄公が春秋五覇の一人に数えられる原因にもなっています。
宋の襄公の夫人は王姫と呼ばれていて、周の襄王の娘でもあり、夫人との関係から覇者を目指したとする指摘もあります。
楚の成王の苛立ち
紀元前639年に、宋の襄公は再び盂に諸侯を集めて会盟を開こうとしました。
宋の襄公は盂の会に、楚の成王の出席も要請しています。
楚は大国であり、楚の成王は苛立ちますが、参加を決めました。
しかし、小国の分際で会盟の主役になろうとする宋の襄公を憎んでいたわけです。
宋の襄公と斉の孝公の思惑
宋の襄公は鹿上での会盟で、大国である斉や楚まで来てくれた事で、気分を良くし覇者としての道を邁進しようと考えたのかも知れません。
次に主催する宋の襄公の会盟では、もっと多くの諸侯が集まる事を、期待していた可能性もある様に感じています。
ただし、宋の国力は中規模であり、宋の襄公が頼りにした者は、自分の徳だったの可能性もあるでしょう。
宋の襄公が後見人となって斉の君主になった斉の孝公は、宋の襄公の行動に対し、苦々しく見ていた様にも感じました。
斉の孝公にしてみれば、宋の襄公に恩はあるけど、自分を立ててくれない、宋の襄公に対しイラっとする部分もあったのかも知れません。
斉の孝公にしてみれば、自分の父親である斉の桓公や管仲が、宋を守った事もあると考えると、宋の襄公に対する不満もあったはずです。
陳の穆公が呼び掛けた斉で行われた会盟に、宋の襄公が参加しなかったのは、多いに不満だった可能性もあるでしょう。
国力で言えば宋よりも斉の方が上であり、鹿上の会盟で、斉の孝公は宋の襄公が自分を推してくれると思ったら、宋の襄公自信が主役になってしまい、拍子抜けした部分もある様に感じています。
宋の襄公と斉の孝公の仲も、この頃になると一枚岩とはいかなかったはずです。
盂の会盟が開かれますが、春秋左氏伝や史記などを見ても、この会合に斉の孝公が参加した記録はありません。
しかし、宋の襄公は斉の孝公を斉の君主にした事を、絶大なる恩を与えたと思っていて、斉の孝公の気持ちを考えなかった可能性もあります。
宋が斉のバックアップを受け取れないのであれば、楚の成王に取ってみれば、怖いものはないとみる事が出来ます。
宋の襄公が捕虜となる
楚の成王の呼びかけにより、宋の襄公は非武装の乗車の会を開く事に承諾しました。
楚は強大でありながら、信義がないと考え、武装した状態での兵車の会で受けるべきだとの意見もあったわけです。
しかし、宋の襄公は「一度約束をしたのに破るのは信義に反する」と述べ却下しました。
目夷は宋の襄公に災いが降りかかると予言する事になります。
孟の会盟は、春秋公羊伝が詳しいです。
宋の襄公と楚の成王は非武装で会見を行いますが、楚の成王は礼を尽くす態度がありませんでした。
さらに、兵を繰り出し、宋の襄公を捕虜としてしまいます。
この時に、宋の襄公は目夷に向かって「宰相は急いで国に帰り宋の防備を固める様にせよ。宋の国は元々宰相のものだ」と叫び帰国を促しました
目夷は、このまま帰国したら、宋の襄公の命はないと考え「最初から、宋の国は私のものです」と述べると、さっさと国に帰ってしまいました。
楚の成王は宋を攻撃しますが、目夷が徹底抗戦の構えを見せ、被害が甚大になる事を怖れたのか、孟の会で集まった諸侯らと宋にある薄で会盟を開く事になります。
宋の襄公の釈放
春秋左氏伝では、楚が開いた薄の会盟で、宋の襄公を許したと記述されています。
集まった諸侯も、楚に宋の襄公の釈放を求めたのではないでしょうか。
楚は、宋の襄公との約束を反故にしており、宋の襄公に諸侯からの、同情が集まってもおかしくはないでしょう。
楚の成王も宋の襄公を頃しても益はないと考えて、釈放したとみる事が出来ます。
楚の成王が開いた薄の会ですが、会盟の方は不調だった様に感じています。
楚は宋の襄公を捕えたと言っても、相手を騙して捕えた事になり、求心力は集まらなかったはずです。
むしろ、楚は信義がないと判断され、求心力を低下させた可能性すらあるのではないでしょうか。
宋の襄公が君主に復帰
宋の襄公は解放されたわけですが、目夷が宋の君主になってしまった事もあり行き場を失いました。
宋の襄公は衛に出奔しようとしますが、目夷が宋の君主を譲ると言ってきたわけです。
これにより宋の襄公は、宋の君主に復帰する事が出来たわけです。
案外、宋の襄公は自分の徳の力と勘違いしたのかも知れません。
楚の成王のだまし討ちに懲りたかと思えましたが、宋の襄公は覇者になる夢は諦めなかった様です。
ここで斉の孝公を立てるなどしていれば、違った状態になっていた事でしょう。
宋の襄公の鄭侵攻
紀元前638年に鄭の文公が楚に赴くと、宋の襄公は鄭に侵攻する事になります。
宋の襄公は、鄭が楚に味方したと考え、進行を決めたのでしょう。
楚は憎き敵であり、宋の襄公にとって、許せるものではなかったのかも知れません。
宋の襄公は、衛、許、滕などの諸侯を率いて、鄭を攻撃しました。
諸侯を率いて鄭を攻撃したという事は、諸侯の間では、宋の襄公に求心力があるように感じています。
楚は鄭の援軍として兵を出しますが、鄭へは行かず宋に向かう事になります。
楚の成王は囲魏救趙の策を使った事になります。
この時に目夷は「本当の禍はこれだ。」と述べた話が伝わっています。
宋襄の仁と泓水の戦い
野戦を挑む
宋の襄公は目夷や公孫固の言葉を聞かず、決戦を選択しました。
この時に、諸侯の軍が宋軍に入っていた話は聞かず、宋の襄公は単独で楚と決戦を選択したのかも知れません。
宋軍は楚軍に兵数で圧倒的に劣っていました。
しかし、宋の襄公は野戦を選択したわけです。
宋の襄公は、覇者となり諸侯の盟主になる事を目標としていました。
覇者になる者が、楚の戦力に恐れをなして、籠城したとすれば、諸侯の求心力を失うと考えた可能性もある様に感じています。
面子に拘り宋の襄公は野戦である泓水の戦いを選択したのかも知れません。
過去に宋の襄公は諸侯の軍を率いて、斉に侵攻し斉の孝公を擁立した事がありました。
この戦いが余りにも上手くいった事で、自分の采配に自信を持っていたのかも知れません。
宋襄の仁
泓水の戦いで宋軍は楚軍と対峙すると、楚軍は河を渡河し始めました。
目夷は攻撃を進言しますが、宋の襄公は却下しています。
川を渡り終えた楚軍ですが、陣形が整っておらず、目夷は再び攻撃を進言しますが、宋の襄公は却下しました。
楚軍は隊列が整いますが、ここに来て宋の襄公は攻撃命令を出しています。
宋の軍は兵力で劣っており、楚の軍に大敗北を喫し、宋の襄公自身も股を負傷しました。
宋の襄公は卑怯な事を嫌い、正々堂々と正面から戦い大敗北を喫したと言えるでしょう。
泓水の戦いの詳細に関しては、宋襄の仁の記事で書いたので、そちらをお読みください。
宋の襄公の最後
宋の襄公は泓水の戦いの翌年には、亡くなってしまいました。
紀元前637年に没した事になります。
尚、同年に斉の孝公が宋へ侵攻し緡を包囲した話があり、自分が絶大な恩義を与えたと思った相手に攻撃され、宋の襄公のショックも大きかったのかも知れません。
後継者は襄公の子である宋の成公が君主となりました。
宋の襄公は負傷し体調が悪かったにも関わらず、重耳が亡命してくると好待遇で歓迎しています。
重耳も宋の襄公の心意気に感謝し、晋の君主になると、宋の危機を救いました。
宋の襄公の礼の精神が宋を救ったとみる事も出来るはずです。
尚、宋の襄公が泓水の戦いで負傷し亡くなったのは、天下の物笑いになったともされています。
しかし、司馬遷は史記の宋微子世家の最後で、礼を無くしている世の中にあって、宋の襄公には、礼の精神があったとも記録しました。
| 先代:桓公 | 襄公 | 次代:成公 |
宋の襄公の動画
宋の襄公のゆっくり解説動画となっています。