春秋戦国時代

衛の慎公は覇者体制の下で生き延びた

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宮下悠史

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名前衛の慎公
姓・諱姫穨
生没年生年不明ー紀元前383年
在位紀元前415年ー紀元前383年
時代春秋戦国時代
一族父:公子適 子:声公
コメント衛の懐公から衛の君主の座を奪った。

衛の慎公は春秋戦国時代の衛の君主です。

衛の懐公を殺害し君主になったのが、衛の慎公となります。

史記の衛康叔世家では、衛の慎公の実績は殆ど書かれておらず分からない事が多いです。

しかし、衛の慎公は斉に毌丘を取られるなどありましたが、魏の文侯武侯による覇者体制の下で生き延びる事になります。

ただし、衛はに狙われていた事もあり、衛の慎公が亡くなると趙の攻撃を受けました。

史記の衛の慎公の記述

史記の衛康叔世家によると、衛の慎公は公子穨であり、公子穨の父親が公子適であり衛の敬公の子だとあります。

衛では敬公の子の衛の昭公、さらに、その子の懐公と続いており、本来なら公子穨は後継者になれる様な立場ではありませんでした。

しかし、公子穨は衛の懐公を襲撃し、国君の座を奪っています。

公子穨が衛の慎公です。

史記の衛康叔世家では、衛の慎公の在位は32年もありますが、実績は特に伝わっていません。

衛の慎公は紀元前383年に世を去ったと考えられています。

これが史記の衛康叔世家における衛の慎公ですが、簡略すぎて何があったのかも分からない状態です。

衛の慎公の時代の出来事

衛の慎公の実績や出来事を知るには、史記の衛世家意外に頼る必要があります。

紀元前411年に趙の献侯は平邑に築城を行っており、これが衛への侵略を狙う行為だと考えられています。

衛の慎公はからの侵略の脅威に晒されたと言えるでしょう。

斉の宣公は紀元前407年に、衛の毌丘を攻撃し奪取しました。

衛は、魯とも対立していましたが、斉に攻められた頃には晋の同盟に復帰していたと考えられています。

紀元前403年には東周王朝から諸侯として認められており、衛は魏の覇者体制の組み込まれました。

衛の慎公は魏の文侯武侯による覇者体制の下で生き延びたと言えるでしょう。

紀元前389年に斉は晋や衛と濁沢で会合を行いました。

斉で実権を握っていた田和が、晋や衛との講和を望んだのでしょう。

魏の斡旋により田和は紀元前386年に諸侯として認められています。

紀元前383年に衛の慎公が亡くなりますが、これと同時に趙の敬侯は衛への侵攻を始めました。

衛の慎公の死により、衛は新たなる時代に進んだとも言えそうです。

先代:懐公慎公次代:声公

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